森を背負う巨大亀 3

 『崩落ほうらく』を生き延びたある家族がいた。父、母、一人娘の三人家族だ。彼らは力を合わせて食料を見つけ、寝床を確保し、何とか食いつないでいた。辛く苦しい日々だったけど、家族みんなで協力すればどんな試練でも超えられる気がした。

 家を失くして、友人を失くして、頼れるものが何一つない世界でも、家族がいれば十分だった。この日々を耐えていれば、いつかきっと助けがくる。そう信じていた。


 かくして、その日は来た。『崩落』発生から三ヶ月。すでに『豚汁とんじる』は活動の幅を東京周辺から、関東地方にまで広げていた。彼らが用意した仮設住宅に、三人家族は住むことになった。そこには同じ境遇の仲間がいて、そこで彼らは集落を築いた。

 依然として食糧事情は芳しくなかったが、三人家族の生活は一層充実した。あの日々を耐え忍んだ甲斐があった。三人家族はその幸運に感謝した。


 ある日、集落で風邪が流行った。『崩落』以前の日本であれば、市販薬で十分治せるような軽い病気。だけど物資に乏しい崩壊世界では、一度流行った風邪を根絶するのは難しかった。

 だけど不思議と、三人家族にはその病は訪れなかった。その後も病気や食中毒は何度か起きけれど、なぜかいつも三人家族は無事だった。

 決定的だったのは、狼が集落に迷い込んだ日だ。『豚汁』が助けに来るまでの間、集落の中では何人か犠牲者が出た。だけど三人家族は運良く少し離れた川で魚を捕っていて、怪我の一つも負わなかった。どころか、家さえ荒らされることはなかった。


 集落の人間はこれをいぶかしんだ。『あそこの家だけ、どうしてだか不幸を免れる』『なにかあるに違いない』『病気や狼を呼んだのはあの家かもしれない』――妬みにも似た猜疑心で、三人家族は集落から追い出されてしまった。

 三人家族は仕方なく、元の野宿生活に戻った。それでも大事なく、彼らは笑って過ごしていた。当時東京では戦争が起きていたが、そんなことは知る由もなかった。

 彼らは必死に生きていた。岩肌の上に葉っぱを敷き詰めただけの固いベッドで、三人身を寄せ合って眠る日々だった。そこに、いくばくかの余裕もあるはずはなかった。だけど、そうは思わない連中がいた。


 ある日森で木の実を取った帰り、集落の人間が三人家族の家で待ち構えていた。貯蔵していた食料は奪われ、せっかく作ったベッドは無残にも破壊されていた。でも三人家族は憤ることができなかった。集落から来た彼らは、武装していたからだ。


『お前たちがいなくなってから、集落はひどい目にあった』

『畑は動物に荒らされ、魚は取れず、働き手の若い連中は戦争に駆り出された。何人かはそのまま帰ってこなかった』

『だから俺たちは考えた。お前たちが不運を呼んでいたのではなく、お前たちが幸運をもたらしていたのだと。そうでなければ辻褄つじつまが合わない』

『お前たちは集落に必要だ。だから力づくでも戻ってきてもらう』


 冗談じゃない。そう言いたかった。追い出しておいて今更戻ってこいだなんて、あまりにも自分勝手過ぎる。だけど武器を突きつけられ、三人家族は怯んでしまった。

 でも、三人家族の父だけは、諦めなかった。妻と一人娘を逃がそうと、果敢に敵に挑んだ。いくら切りつけられようと彼は抵抗をやめなかった。一人娘は母に手を引かれて森に逃げた。集落の人間は追ってはこなかった。

 一家の大黒柱がいなくなって、彼らの生活は途端に困窮こんきゅうした。日に日にやつれていく母の姿を見て、一人娘は『自分が何とかしないと』とより奮起し、木の実や山菜を取りに少し遠くまで出歩いた。そこで追手に見つかった。

 結局、そのまま母も見つかってしまった。せめて夫の安否をと尋ねると、集落の人間はこう返した。

『あいつは集落で働いている。だけどあいつを集落に戻しても、我々は幸福にはならなかった。きっと、幸運をもたらすのはお前らのうちどちらかなのだ。それを今から試そうと思う』

 一人娘とその母は、そこで引き離された。集落は三人家族の父と母のグループ、そして一人娘のグループに別れた。集落の人間は働ける父と母を働かせ、働くには幼い一人娘を軟禁した。


 その結果、幸運の力を持つのは一人娘であることが分かった。彼女の属したグループには目に見えて食料が潤沢に取れ、獣の襲撃も減った。もう片方には何の変化も訪れなかった。

 誰が集落に必要なのかは分かった。だが一人娘を軟禁していた方のグループは、『このまま集落を一つに戻しても、娘の幸運の力が分散されるかもしれない』と考え、彼女を連れたまま逃げようとした。それに気づいたもう片方のグループが、阻止しようと戦いを始めた。

 二つに割れた集落の、その漁夫の利を狙うようにして、さらに小さなグループが結託して少女を連れ去った。都合三つにまで別れた集落には、もはやあの頃の豊かさはなかった。

 そうしてその小さなグループはまんまと逃げおおせ、巨大な森の周辺に身を潜めた。一人娘は両親から遠く引き離され、逃げられないようにと鉄格子に入れられ、まるで飼われるようにして暮らしていた。


 両親に会えない寂しさが、この状況を作った彼らへの怒りが、そして自分のせいでみんなをおかしくしてしまったという自責が募り、一人娘は……少女はここから逃げようと決心した。そうしなければ今度は自分が壊れてしまう。そう感じて。

 ついにある日、食事のために鉄格子が開く瞬間を狙って、少女は飛び出した。当然集落の人間は追ってきたが、ある者は木の根につまずき、ある者は蜂に追われ、ある者は道に迷い……と、皮肉にもこの境遇の元凶である『幸運』に助けられて、少女は森を駆け抜けた。

 だけどその時、あの巨大猪に見つかって、追われ、逃げて、その逃避行が少女の死によって終わりを迎える寸前、不思議な少年たちに助けられ――今に至る。


「だから私、東京に行きたいんです」


 少女は、幸腹さちはら希稲きいなは、まっすぐに千土せんどの目を見つめ返して言った。


「東京に行って、またお母さんとお父さんに会いたいんです」


 その気持ちに嘘はない。そう目で語る。語彙のなさゆえに上手く伝えられない口の代わりに、少女の爛々らんらんと輝く瞳が雄弁に語る。

 向かうべきは東京。会うべきは両親。ここがどこかもわからないけれど、それでも行かなきゃならない場所がある。


「…………ふむ」


 希稲の視線を受け、千土が目を細める。歪んだ口元も相まって、まるで嘲(あざけ)られている気分だ。でもそうじゃないのだろう。もし彼が少女の想いを嘲笑(あざわら)うような人間であれば、あの血の雨に傘など差しはしない。

 少女の名前を綺麗だと褒めはしない。


「……『幸運』、ねえ」


 それでも、千土の言葉にはっとした。喋りすぎた、とまで後悔した。

 だって、集落のみんなはそれを知ってからおかしくなったのだ。あんなに優しかったのに、目の色を変えて三人家族を追ってきた。

 また同じことが起こるかもしれない。希稲はその可能性をひどく恐れた。少年たちの顔がどうしても見れない。集落の人間と同じ目を、彼らがしているかもしれなかったから。


「……っ」


 お腹がいっぱいになって、つい気が緩んでしまった。優しい言動につい口が滑った。希稲は迂闊うかつな自分を責める。ここから逃げ出したい衝動に駆られて、でも一歩も動けなかった。

 だが。


「ふうん。ま、そういうのもあるんだろうねえ」


 千土はただそう言っただけだった。それきり興味を失ったようで、「いいよ。協力しよう」とあっさり言ってのけた。


「……え?」

「構いやしないさ。旅は道連れ世は情けってね。どの道僕らも東京には行きたかったところだ。ついでだし、道中の護衛くらい任せてよ」


 まあ僕は戦わないけど。しれっと刀香とうかに面倒事を押し付けつつ、千土は全く気にしていない風に肩をすくめた。


「……連れが増えるのは構わねえけど、いいのか?」

「別に。さすがに両親探しまでは手伝えないだろうけど、どうせ目的地が同じなんだ。邪険にする必要もあるまいよ」

「食い扶持ぶちが増えるー……仕事が増えるー……」

「子供の一人も世話できないんじゃ、あまりにも甲斐性なしだぜ小倉(おぐら)君。そんなんだからモテないんだ」

「そっ、それは関係ないじゃん! ……いや、あるのか……?」

「…………、」


 誰一人として、希稲の『幸運』に目を輝かせていない。彼らが見ているのはあくまで幸腹希稲という『個人』であって、それに付随(ふずい)する『幸運』ではない。

 彼らにとってはどうでもいいのだ、その程度のこと。希稲はそんな感想を抱いた。なんなら子供の与太話とさえ思っているかもしれない。そんなことはあるはずがないのに。『崩落』の後人類に何が起きたか、彼らもよく知っているはずなのに。


 『我が道を征くゴーイングマイウェイ』。刀香が猪を相手に呟いた言葉。直後に猪の体は爆散して、血の雨が降った。

 こんなの尋常じゃない。普通じゃない。度を超した異常なら――それならそこにはきっと、説明不能の法則がある。

 それを人は、『』と呼んだ。


「し、信じてないんですか、私の話」

「うん? いや、信じてるよ。『創造主ワールドイズマイン』なんてものがまかり通るような世界だし、そういうのがあってもおかしくはないだろうさ」

「じゃ、じゃあ……」


 ぴしゃり、と。突き放すように千土は言った。そこだけ何か〝壁〟を感じた。思わず千土の顔を見ると、すでにそこにはいつもの嘲笑(ちょうしょう)が貼りついていた。


「僕らが突然豹変ひょうへんして君をさらう、なんてことを心配してるんなら安心したまえよ。なんたって君は――」


 千土が次に告げた言葉を、おそらく希稲は一生忘れない。自分の力を憂う少女にとっては、それくらい衝撃的な台詞せりふだった。


。このピンチに、僕たちなんかに出会っちゃった時点で」

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