大切なもの
滝野遊離
本文
お気に入りのマグカップが割れてしまった。白い、無地のマグカップ。覚えていないような頃からずっと使ってきたものだったのに。それでもただの物質のはずなのに。もうどうしよもなくなっちゃって、破片を片付けることすらも忘れ一晩泣いた。
そのまま寝てしまったのだろう。腫れた目、着替えも風呂も済ませていないような悲惨な状況。外面だけでも人間に見えますように、と整えたはいいものも何をすればいいのか分からない。気力もない。そんなものが亡くなっただけでここまで精神的に来るものがあるのか? 自分が恨めしくて仕方がない。片付けすら忘れた昨日の自分を恨みながら、足の裏に刺さった破片の手当をする。
動かなければこれ以上に人間としてだめになってしまう、とにかく外に出た。澄んだ空気が髪の毛の間を通り抜けるが、それすらも関係ない。
公園の側の道を歩けば楽しそうな子供。きゃはきゃはと騒いでいる。どうせ私の気持ちなんてわからないだろうに。ボールがころころとこちらに向かってきた。「取って」幼子たちがぴょんぴょんと飛び跳ねている。拾い上げて投げ返す。「ありがとう」と集団内の一人がお礼をして、遊びに戻っていった。そういえばあんな幼い時期からあのマグカップと一緒だったな。また何かがこみ上げてくる。
少年少女が集団で歩いている。「こないだのあれ、ほんとうに不味かったよね……」「それ」一瞬、マグカップと言ったような気がして、また涙がこみあげてきた。あんな時期だってあのマグカップは一緒にいてくれたのに。何で。もうだめだ、家に帰って寝ていよう。
ふと、露店のマグカップが見えた。ほんのりベージュのマグカップ。そっと手に取ると、「今なら九百円で売れるよ」とスペイン人らしき店主に言われた。言われなくても買っていた、なんて思いながらお金を差し出して商品を受け取る。
「大切にしてね」
そんなの分かっているって。大事に抱きかかえて、溢れてくる涙を抑えつつも帰路についた。
大切なもの 滝野遊離 @twin_tailgod
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます