第5話 『無視しないで』


 月曜日。

 私は学校を休んだ。


「うーん、熱はないみたいだけど……」


 体温計を手にした母が、私が横たわるベッドの傍らでうなった。

 いいから出て行って、と告げると、母は何か言いたげな顔をしつつ、私の部屋を後にした。

 我ながら最低だな、なんて一人残された部屋で自嘲気味に笑う。

けれど、私がこれからすることを、決して母に見られるわけにはいかないのだ。


「ごめんね、母さん」


母親には風邪だと押し通したが、実のところ、私が休んだのは病気だからではない。

 かといって仮病でもない。

 先日リナと言い争ってから、学校に行くのがひどく億劫になってしまったのだ。

 思い出すたびに、心臓が締め付けられる思いがした。

 もうこのまま、一日ふて寝してやろうかとも思ったが、残念ながら、私には睡眠よりも優先しなければならないことがあるのだ。

 内側から痛む頭を何とか稼働させ、枕元を見やる。


『昨日のドラマなんだけどー』

『大丈夫?』

『来月のシフトについて』

『なんで休んでるの?』

『文化祭のことなんだけど……』

『風邪でもひいた?』

『先週の課題が──』

『宿題持っていこうか?』


「多い……」


 いつもの倍近くいる虫を見て、思わずそうつぶやく。

 特に、あのモンシロチョウが目立って多い。

 部屋の中で反響するリナの声が耳に入るたび、週末の一件が脳裏に浮かんで嫌になる。

 けれど私には、ここで返事をしないという選択肢は取れない。

 原因も理由も忘れて、ただの義務と化してしまったその作業を、私は始めることにした。






『無視しないで』

「──ん……?」


 耳元でささやかれたリナの声で、私は目を覚ました。

 ──目を、覚ました?

 あれ、もしかして私、寝てた?

 起動したての脳で記憶をたどる。

 そうだ、返事をしている途中で急に頭が重くなって、気が付いたら……。

 どうやら、自分が思っている以上に、疲れがたまっていたらしい。

 けれど、今の私に自分の体調を気にかける余力はない。


「返事、は、どこまでしたっけ……?」


 作業の途中で寝てしまったということは、まだ返事ができていない虫がいたということ。

 早くしないと、何か大変なことになる、気がする

嫌な予感がしてはっと顔を上げると、しかし、私の予想が外れていたことが分かった。

 主に、悪い意味で。



『無視しないで』『風邪で休んでるの?』『返事して』『救急車呼ぼうか』『先生には連絡した?』『無視しないでほしい』『大丈夫?』『明日の課題共有したほうがいい?』『無視……?』『早く返信を』『心配なんだけど』『無視じゃないよね』『文化祭の準備どうするの』『何かあったのなら連絡ください』『無視しないで』『無視するな』『入院してるとか?』『返事をしろ』『無視しないで』『無視……?』『無視しないで』



 もうすでに、手遅れだったのだ。

 部屋いっぱいに広がる緑のカーペットが、机やいすを飲み込みながら、大荒れの海のようにうごめいていた。

 もちろん、私の部屋にそんなものがひかれているわけがないし、私の知っているカーペットは声を発しながらうごめいたりしない。

 一気に脳が覚醒し、その正体が何か、嫌でも察せられた。


「なに、これ……!?」


 想像を絶する光景に思わず声を漏らすと、虫たちはその声に呼応するかのように一層動きを大きくした。

 床一面のそいつらが一度に動くと、まるで部屋の空気までも一緒にごちゃまぜにされるように感じた。

 それは小さな揺らぎのようなものであったが、そのうち波のようになり、そして──。

 一斉に、私に襲い掛かってきた。


「きゃぁぁぁぁぁっl!!!」


 そんな金切り声もむなしく、私は一気に虫の大群に飲み込まれてしまう。

 今まで横になっていたベットから引き剥がされ、全身余すところなく虫どもに凌辱される。

 嫌悪感、などという簡単な言葉では言い表せないほどの感情が私の全身を駆け巡る。

 何度も何度も意識が飛びそうになったが、。


『なんで返事ないの?』『倒れたりしてない?』『誰か様子を見に』『お願いだから返事『まさか不登校』』『無視しないで』『事故にでもあったんじゃ』『『大丈夫?』みんな心配して『誰かにいじめられたと『先生に相談しようか』『明日の』』『風邪ひいたとか』『無視しないで』『家庭訪問とか『文化祭の準備どうするの』』『無視するな』『ずる休み『先週何か『大変だ』返事して』『もしかして先月の『頭打ったかも』『昨日は『無視しないで『バイトのシフト『大丈夫?』』『無視するなよ』『返事して』返信しろ』『無視するな』『多分旅行『相談して』『電話す『無視?』』『嫌なことがあったら『無視かよ』』『来週の課題は』先生が連絡で『無視やめろ』『今から家に『無視とか最低』『無視するな』』『無視しないで』『返事は『心配だから』『無視か?』無視しないで』風邪?』無視しているの?』『わざと無視してる』無視やめろ』『無視するな』無視無視』無視する『無視するな』無視しないで『無視?『『無視するとか『無視『無『無視するなよ』『『無視するな』』』無視かよ『無視するな』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』『無視しないで』


「もうやめて!!」


 虫たちに全身を蹂躙されながら、気が付けば私は叫んでいた。


「無視なんてしてない!」


 なぜだかわからないが、虫たちが突然静かになる。

 それでも私は止まらない。

 吐き気と一緒に湧き出てくる感情が、私の口から次々と飛び出した。


「私は、私はただ、皆に嫌われたくなかっただけなの! クラスでも人気者になれなくて、ただ他人について回ることしかできなかった私が、みんなに置いて行かれないように必死だっただけ! だから、だからもうやめて……私を許してっ!!」





 気が付けば、私はまた、ベッドで横になっていた。

先ほどの悪夢が嘘だったみたいに、部屋は元通りきれいなままで、いすも机も動かされた形跡すらない。

ただ、変わっていたことは一つ。


「私、なんで泣いているの……?」


 頬を伝う水滴と同時に、肩にまだ一匹の蝶が残っていたことに気が付いた。

 まるでゆっくりと呼吸するように翅を上下させていたが、私の顔を見てただ一言


『ごめんね』


 と友人の声で話した。

 その声は今まで聞いたどの声よりも優しく、そして慈愛に満ちているように感じた。

 そして返事を待つことなく飛び立つと、部屋の空気に溶けるようにして消えてしまった。

 それが、私の見た例の虫たちの、最後の姿だった。

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