第4話 決裂
土曜日。
前日まで降り続いていた雨はやんだものの、太陽がどこかもわからなくするほどの厚い雲が空を占領していた。
湿っぽい空気をかき分けるようにして、慌てて駅から出る。
するとそこには、屋外用の背の高い時計と、それにもたれかかるリナの姿があった。
薄汚れた灰色の時計は、九時を少し過ぎたあたりを指している。
遅刻だ。
「ご、ごめんね! ちょっと遅れちゃった……」
精一杯の申し訳なさを含ませた声をかけると、リナはこちらに気が付いたようで、持っていたスマホの画面を暗くした。
「珍しいねー、あんたが遅刻するなんてさ」
その言葉や抑揚に、私を責める意図は感じられない。
それがうれしくあると同時に、仲のいい彼女に迷惑をかけてしまったことを嫌でも認識させる。
私にとって、リナとの関係が悪くなることはとてつもなく大きな問題を意味する。
リナからすれば、私なんてたくさんいる友達の一人なのだろうけれど、私からすればそうではない。
「昨日の夜、よく眠れなくて。ダッシュで用意したんだけど、ギリ間に合わなくて……ほんとごめん!」
「いいよ、リナも別にそんなに待ってないし。てかそれより、テスト終わったのに夜更かしって、何してたの? ゲーム?」
「いや、まあ……そんなところかな、うん」
嘘だ。
遅刻した本当の原因は、例の虫にある。
テストを終え家に着いたとたん、あの虫たちは、まるで一斉に冬眠から目覚めたみたいにうじゃうじゃと湧き出てきたのだ。
一晩かけて返事をし続けた結果、一睡もできなかったどころか家を出るぎりぎりまで返事に時間を費やしてしまった。
そんな理由でリナを待たせてしまったなんて口が裂けても言えなかった。
「それよりさ、早く出発しよ? 今日は行きたいとこいっぱいあるんだー! 映画見た後は、ショッピング行って、映えるとこでご飯食べて、それから……」
そう言うと、リナはウェーブのかかった髪をふわりとなびかせ、颯爽と歩き始める。
特に気にしていなさそうなリナの様子に、ほっと胸をなでおろす。
「それもそうね。じゃあ早速……あっ」
気を取り直していざ出発、と思ったその時、足元にまた例のあいつを見つけた。
『今日何時くらいに帰れそう?』
蜘蛛だ。
靴の上に乗ってこちらを八つの目で見つめる姿は、巣を張ってじっと待つイメージとかけ離れている。
手のひらサイズのそれがいったい何という種類なのか、もう興味なんてない。
派手な緑色と母親の声だけが、私の知りたいことのすべてだった。
「リナ! ごめん、ちょっと先に行っておいて!」
「? ……んー、分かった!」
リナは一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに元の表情に戻り、すたすたと歩いていく。
それを確認すると同時に、私は誰にも聞こえない声でぽつりとつぶやく。
「……六時くらいまでには帰れると思う」
足の甲にかかっていた重さがすっと消えた。
けれど、私の胸の内から言い表せない不安が消えることはなかった。
「あのさ、もしかしてリナのこと、嫌い?」
「へっ?」
彼女が突然そう切り出したのは、その日の夕暮れ。
タピオカミルクティー片手に、二人で駅に向かって歩いていた時のことだった。
好きなものは真っ先に食べてしまうリナの容器には、一粒のタピオカも残っていない。
もはやただのミルクティーと化したそれを一気に飲み干すと、私に顔を向けて再度訪ねてくる。
「だから、リナのこと嫌ってるんじゃないかと思って」
いつになく神妙な面持ちの彼女に、私は思わずたじろいでしまう。
その表情にいつものようなおちゃらけた雰囲気はなく、目に宿る色は真剣そのものだ。
「な、何? いきなりどうしたの? めっちゃ顔怖いよ」
思わず足を止め、笑ってごまかそうとする。
が、頑なに表情を変えないリナを見ていると、口角を上げることなんてできなかった。
怒っている、というより悲しんでいるといったほうがいいのかもしれない。
そんなリナを直視できなくなり目をそらすと、彼女のほうから口が開いた。
「……今日、ずっとリナ達一緒にいたじゃん?」
「……うん」
「けどさ、一回も楽しそうに笑わなかったよね」
「……」
気づかれていたんだな、と思った。
今日一日、リナと一緒にいろいろ回ったことを思い出す。
映画を見て綺麗な服を買って、デコレーションされたランチを食べて……。
そのたびに、リナは遊園地に始めてきた子供みたいに心の底から楽しんでいたし、何度も私にその感情を共有してくれようとした。
けれど残念ながら、私の心境はそうではなかった。
ずっとずっと、目の前のことよりも違うことに意識が向いていた。
隠し通すつもりだったけれど、残念ながらリナにはお見通しだったらしい。
「……虫」
「えっ……?」
感嘆詞と疑問符の返事には、『聞き取れなかった』というニュアンスは含まれていなかった。
『意味が分からない』、おおよそそのような気持ちだろう。
けれど私は、質問させないようにあえて矢継ぎ早に答える。
「前、お昼ご飯食べながら話したじゃん、虫のこと」
「虫って、あのしゃべる虫のこと? けどそれって冗談じゃ──」
「冗談なんかじゃないよ」
もう洗いざらい話してしまおう。
そう思った。
「最初は、しゃべる虫なんて、ただ気持ち悪いだけだった。だから見かけた途端に返事をして消すことが最優先だった。けれどそのうち、気持ち悪さにも慣れてきてしまって、『返事をする』ことに躍起になってしまった──まるで、目に見えない誰かのご機嫌を取っているみたいに」
「……」
「変、だよね。けど、もう止められないの。普通に生きていても、虫のことが気になって気になって仕方がない。だから、リナの目には、私が楽しんでいないように見えたんだと思う──本当に、ごめん」
堰を切ったように流れ出した言葉は、私自身にも止められなかった。
最後の謝罪だけがむなしく響いた。
「バカなこと、言わないでよ」
リナの返事は、こうだった。
彼女とはそれなりに長い付き合いだけれど、こうしてぶつかったのは初めてかもしれない。
少なくとも、彼女が本気で怒っている様子は初めて見た。
「虫がどうだとか返事がどうだとか、それって普段の生活より大切なの!? そんなこと、気にしないで普通に生活すればいいじゃない!」
時折涙声になりながら、リナはそう力説する。
彼女の言っていることは、間違いなく正論だ。
いつだってそうだ、彼女はいつも正しくて、正義だ。
けれど──私が求めていたのはそんな答えじゃない。
「リナには……リナにはわかんないよ、私の気持ちなんて!」
「分かるよ! 周りに虫が飛んでいたら、誰だって気にするもん! けど、それに縛られないで──」
「違う! 違う違う違う! そんなのじゃない! 何にも分かってない! ……やっぱり、人気者のリナにはわからないんだよ、誰にも話しかけられなくなる怖さが、恐ろしさが!」
もう、自分でも何を言っているかわからなかった。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、自暴自棄になって。
気がつけば、私は駅に向かって全力で駆けだしていた。
後ろからリナが必死に呼び止めようとする声が聞こえてきたが、それすらも振り切るように全力で走った。
発車を知らせるメロディがホーム中に鳴り響く中、ぎりぎりで電車に駆け込む。
動き始めた電車の中、荒れていた息を整えていると、ほとんど飲み終えたタピオカミルクティーの容器が右手で握られていたことに今更気が付いた
暑さで引っ付いてしまった真っ黒なタピオカが、泥みたいになって底のほうにたまっている。
私はそれを、飲むことも捨てることもできず、ただ途方に暮れた。
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