第2話 悪夢は続く

 ぴぴぴっ、と朝を告げる電子音。


「ん、ん……」


 枕に顔をうずめたまま、手探りで目覚まし時計を探す。

 それらしき固形物を気持ち強めに殴ると、アラームはおとなしくなった。


「もう朝ぁ……?」


 起きなきゃと思うも、体が尋常じゃなく重い。

 一晩寝たはずなのに、ずっと徹夜していたような、そんなだるさ。


 なんでこんなきついんだろ……?

 そういえば、昨日寝る前に何か変なことがあったはずなんだけど……なんだっけ?

 顔を枕から上げることもしないまま、がなる頭で必死に思い返す。


 ……ああ、そうだ、しゃべる虫だ、そいつのせいだ。

 あのモンシロチョウの一件のあと、私は猛烈な気分の悪さに見舞われて、ベッドに倒れこんだのだ。

 だから、このだるさはあのしゃべる虫のせい。

 うん。


 ……ふふ、しゃべる虫って。

 我ながら、おかしな夢を見るなぁ。


 冗談みたいな記憶を思い出し、頬が緩む。

 どんな悪夢だって、過ぎてしまえば笑い話だ、学校でネタにしてやろう。

 そう思い、勢いよく顔を枕から起こした。


『明日、一時間早く来てもらえる?』

『テスト範囲って二次関数の最小最大まで?』

『』

『おっけー、おやすみー』


 悪夢はまだ、過ぎ去っていなかった。


「うぁぁぁぁぁぁっっっ!!??」


 カマキリ、クワガタ、テントウムシ、そして件のモンシロチョウ。

 多種多様な虫の群れが、私の右腕に乗っていた。

 全員まとめてペンキにでも突っ込まれたのかと疑うくらいの、目に痛いライムグリーン。

 それらが腕の上でうごめいているのだ。

これだけでも吐きそうなくらい気色悪いのに、私の胃袋を特に刺激したのは、虫たちの声だ。

 全員ばらばらの人間の声で、しかもそれらすべてに聞き覚えがあった。

時々話すクラスの男子の声、遠くに住んでいるいとこの声、バイト先で聞いた声、そしてリナの声。

私のよく知る人物の声が、へたくそな合唱団のように右手に乗った虫たちから発されていたのだ。

気を失わなかったのが不思議なくらいだった。


「いやぁっ、は、は、離れっ──い゛っ!?」


 反射的に飛び起きる。

 しかし覚醒しきっていない状態でベッドから降りたせいで、足元がふらつき、机の角で思い切り頭を打ってしまう。

 激痛。

 おかげで目がはっきりしたが、同時にこれが夢ではないことを決定づけた。


『明日、一時間早く来てもらえる?』

「か、か、顔に乗らないでよ気持ち悪いっ!」


 私の顔の上を我が物顔で歩いていくカマキリ。

 目の前を行ったり来たりする節のついた腹と、鼻や唇から伝わってくる足の感覚が、想像を絶するおぞましさを私にもたらす。

 鳥肌を超越した震えが、つま先から頭のてっぺんまで登ってくるのが嫌でもわかった。


(落ち着け、落ち着け私! 昨日はどうやった? どうやって追い払った!?)


 固くぎゅっと目をつむり、必死に昨晩のことを思い出す。

 予定を聞いてくるモンシロチョウが来て、二匹、三匹と増えていって、それからそれから……。

 ──そうだ、『返事』だ!

 こいつらの『声』に返事さえすれば、何もせずにどこかへ消えていくはず!

 えっと、このカマキリにはどう返せば……?


『明日、一時間早く来てもらえる?』


 カマキリは唸るような低い声でそう言った。

 威圧するような話し方には聞き覚えがある。

おそらく、声の主は……バイト先のスーパーにいる、事務のおじさんだろう。

 内容からして、明日のシフトの変更だろうか?

 いやいや、なんで虫が私のスケジュールを把握しているんだ、とも思ったが、今はそれどころではない。

心の内で、早く消えろと必死に祈りながら、なんとか返事を絞り出した。


「明日は無理です……! テストがまだ終わってないので、バイト入れません! ごめんなさい!」


 かささっ、と薄い何かが擦れる音がして、静かになる。

 顔の上の異物が消えていくのが、目をつむった状態でもわかった。

 おそるおそる目を開けると、やはりカマキリは消えていた。


「やった、合ってた!」


 思わず一人、ガッツポーズ。

こうなれば、もう怖いものなどない。

 消し方さえわかってしまえば、こっちのものである。

 立ち上がって枕に目をやると、残りの虫たちは、お行儀よく順番待ちをしているようにじっとたたずんでいた。


『テスト範囲って二次関数の最小最大まで?』


 同じクラスの男子の声で、クワガタはそう聞いてきた。

 彼の数学の点数は、いつも下から数えて1か2くらい。

 本物の彼なら、いかにも聞いてきそうな内容である。


「残念、二次不等式の接点までよ」


 私がそう言うと、クワガタは黒光りする背中から翅を展開すると、どこかへ飛び去った。

 よし、やっぱりこれで合っているんだ。

 徐々に恐怖心が和らぎ、代わりに高揚感がこみあげてくる。

 そのままの調子で、他の虫たちも順に処理した。

 特にこれといった異常事態もなく(虫と話している状況自体が異常ではあるが)、枕元の虫たちは少しずつ減っていった。

 中には久しぶりに聞けた声もあって、もっと喋っていたいとさえ思った。


そして。


『おっけー、おやすみー』


 ラストは例のモンシロチョウである。

 その小さな体から発せられる声は、何度聞いてもリナのものだ。

 一瞬、『おやすみー』にどう返そうかと思ったが、今考えることじゃないだろうと頭をぶんぶんと横に振った。


「お、おはよう……?」


 ぎこちなく、あいさつで返す。

 すると蝶は、昨日と同じようにふわりと浮かぶと、またどこかへ消え去った。

あとはもう、いつも通りの静かな私の部屋だけがあった。


「お、終わったぁー!」


 ぐっと伸びをし、誰もいなくなったベッドに倒れこむ。

 やっと終わった、と安堵感が胸に広がる。

 結局虫たちの正体も何もつかめなかったが、とりあえずこれで一安心だ。

 そう思い、やっと学校に行く身支度にとりかかろうとする。

 まずは着替えなきゃと思ったその瞬間、背後から、また例の声が聞こえてきた。


『おっはー!』


 ……これ、まだ続くの?


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