緑の蝶が友人の声で遊びに誘ってきたんだけど、無視しちゃダメな奴かな……?
魚鮒チャヤ
第1話 親友の声でしゃべる蝶
『土曜日、ヒマ?』
ライムグリーンのモンシロチョウが、そう聞いてきた。
▽▲▽
「……へ?」
私の耳にその声が聞こえたのは、テスト前日の夜、一人自室で勉強していた時だった。
ノートから少し離れたところにひらひらと小さな蝶が降り立ち、女性の声でそう告げた──ように思えた。
「ん、んー?」
パジャマの袖で目を軽くこすってみるも、蝶は確かにそこにいた。
自分の存在を主張するように、小さな翅を静かに開閉している。
しかし、耳を澄ませても『声』は聞こえない。
「疲れてんのかな、私」
睡眠は日ごろからしっかりと取っているはずだが、もしかしたら、テスト前でストレスが積もっていたのかもしれない。
ぱっぱっ、と蝶を手で追い払おうとしたが、そいつは一向に動く気配がない。
「あーもう、めんどくさいっ」
あきらめた私は、これ以上の侵入を防ぐため、換気のために開けていた窓をいったん閉めた。
先ほどの声も、外から聞こえたものだろうと決めつけ、蝶を無視して意味不明な数学の過去問とのにらめっこを再開した。
だが。
『土曜日、ヒマ?』
「……!」
再び耳に入った声で、私は確信した。
間違いない。
窓を閉めてもなおはっきりと聞こえる女性の声は、やはりこの虫から発せられている。
冷たい汗が突然背中に噴き出たのを感じながら、私は書きかけの二次関数の図を放り投げ、声の主をおそるおそる観察した。
1センチに満たないほどの小さな体躯と、それの2倍近くはあろうかと思われる翅(はね)。
私は都会生まれ都会育ちの女子高生なのでよくわからないが、大きさと丸っこいフォルムからして、小さいころに図鑑で目にしたモンシロチョウの仲間か何かだろうと考えた。
「でもこいつ、まったく白くないよね……」
緑、というにはいささか派手でサイケデリックな色味の翅は、何とも形容しがたい不気味さだった。
天然モノとは思えないその色は、一介のJKの貧弱な言葉で言い表すなら、ライムグリーン色といったところか。
もしかしたら、そういう都会に染まった蝶もいるのかもしれないけれど……。
「でも、しゃべる蝶なんて聞いたことないよ……」
『土曜日、ヒマ?』
頭を抱える私に、まるでぶっ壊れた音楽プレイヤーのような声がかけられる。
気味悪いし、殺虫スプレーでシュッとしてしまおうか、それとも捕まえて、どこかの研究所に売り飛ばそうかと思案したその時。
二匹目が現れた。
『映画見に行かない?』
「きゃぁっ!?」
そんな、窓はさっき閉めたはず……!?
驚く私をあざ笑うかのように、蝶は声を上げながら部屋中を飛び回り、そしてピタリと先客の隣に降り立った。
『土曜日、ヒマ?』
『映画見に行かない?』
今更ながら、頬を強めにつねる。
痛い。
悪夢では、ない。
蝶に映画を誘われているふざけた光景は、まぎれもない現実だ。
『土曜日、ヒマ?』
『映画見に行かない?』
『土曜日、ヒマ?』
『映画見に行かない?』
示し合わせているかのように、二匹の蝶は交互に言葉を発する。
あまりに現実離れした光景に、背中が凍り付くような恐ろしさを感じる。
これ以上は耐え切れない、今すぐにでもひねりつぶそうと考えたその時、ある事に気が付いた。
「この蝶の声……もしかして、リナ?」
少し間延びした発音と、有名なアニメ声優を想起させるかわいらしい声は、クラスメイトで一番の親友であるリナのもののように思えた。
中学のころから仲が良く、毎日のように話している彼女の声を、聞き間違えるはずがない。
でも、なんで蝶からリナの声が……?
何か恐ろしい妄想が脳裏を横切ろうとした瞬間、三匹目が飛来した。
『おーい、大丈夫かー?』
もはや驚きの言葉さえ出ない。
大丈夫なわけがないだろう。
こめかみのあたりがじんじん熱を帯び始める。
「もう、どうなってるのよこれ……!?」
せっかくトリートメントでケアした髪を、ぐしゃぐしゃと掻いてしまう。
現状を理解するだけでも精いっぱいだが、新たな問題が浮かんできた。
このままだと、ずっと増え続けるんじゃ……。
もし際限なく蝶が飛来し続けるかと思うと、私はいてもたってもいられなくなった。
『土曜日、ヒマ?』
『映画見に行かない?』
『おーい、大丈夫かー?』
『土曜日、ヒマ?』
『映画見に行かない?』
『おーい、大丈夫かー?』
『土曜日、ヒマ?』
『映画見に行かない?』
『おーい、大丈夫かー?』
吐き気を催す嫌悪感と一緒に、ごくり、と生つばを飲み込む。
頭の中は、すでにクエスチョンマークで爆発寸前になっている。
それでも私は、イチかバチか、思いついたことを試すことにした。
「土曜日、は、特に予定ない、よ。映画、見に行けると思う、多分……」
意を決して、蝶にそう返事した。
虫に話しかけるなんて、傍から見ればなんと馬鹿らしく見えるかわからなかったが、今の私にはこの程度のことしか思いつかなかった。
もっと違う選択肢もあったのかもしれないけれど、私には『返事』が唯一で最適な対応だと思ったのだ。
するとどうだろう、がなり立てるように喋り続けた蝶が、水を打ったように静かになった。
数秒の沈黙。
心臓の鼓動だけが、やけに大きな声で主張している。
何か致命的な過ちを犯してしまったのか、と後悔しそうになった瞬間、三匹の蝶は同時にはばたいた。
そしてそのまま、ひらひらと風に流されるように部屋中を舞い始める。
「あっ、待って!」
反射的に、この奇妙な蝶を捕まえようと手を伸ばす。
しかし不思議なことに、捕まえるどころかかすりもしない。
明らかに当たっているはずの手を、まるで魔法のようにすり抜ける。
気がつけば、蝶はどこかへと消え去り、私は一人で空気と格闘していた。
「き、消えた……?」
とりあえず、解決した……のか?
いやそもそも、何が問題で何が正答なのかもちんぷんかんぷんだったが。
考えれば考えるほど、新しい謎が増えていった。
部屋が元通りの静寂を取り戻しても、私の脳みそはパニック状態から脱していないようだった。
「…………夢?」
クレセント錠が固く上げられた窓を見て、私は今更ながらつぶやいた。
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