第5話「温度」
マンションの地下駐車場に到着した。それまでただ沈黙が続いていたのだが、涼介の心配そうな声がそれを破った。
「君は、本当に俺と暮らしても大丈夫?」
涼介の第一声はそれだった。
(この人はどうして私に大丈夫か聞いてくるんだろ。私に拒否権なんてないのに)
凛は不思議だった。
これまでは、選択する余地など与えられなかった。
あの男ーーー三条雄介が、数ヶ月前に役所の者と現れ、自分の暮らす場所さえ、決められて。
では、今自分が「嫌だ」と言ったら、この男性はどうするのだろうか。
もとの場所へ戻すのだろうか。
自分の実家に押し込めるのだろうか。
いずれにしても、自分の場所はどこにもない。
先程の実家での一件までにも、いろいろなことがあった。
これまで、母に折檻されることも度々あり、頼れる友人もできなかった。
信用できる人間も。
「……私は、もうここにしかいられないので。あなたが大丈夫なら、迷惑をかけるようなことはしませんから、ここに置いてください」
凛は、俯きながら答えた。
細くて小さな身体、力ない声。
涼介は頭をポリポリと掻きながら、溜息をついた。
「別に、そんなこと言わせるために聞いたんじゃないよ。こんなおっさんと二人暮らしなんて嫌じゃないのか?」
「……あなたは、そんなにおじさん、ですか?」
「涼介と呼んでくれ。……28だよ」
涼介の返答に、凛は大きな目を見開いた。
「ふふっ。まだまだお兄さんじゃないですかっ」
その声に、涼介が驚く。少女はくすくすと笑っていた。
「……よかった。笑えてるじゃないか」
彼は内心、ほっとした。虐待されてきた子どもは、特に折檻されていた子どもは、特に大人に対して心を閉ざしやすい。彼女がまだ微笑みを浮かべられる状態であることが幸いである。
「涼介さんは、あの人と親子なのに、全然違いますね」
「あの人って、父さんのことか?……まあ、うちにもいろいろあるんだ。そのうち分かる」
「そうですか……」
凛の伏し目がちな表情に、涼介はこれまで何かあったのではないかと感じていた。
部屋につくと、凛は目を丸くして「わあ!」と驚いた。
「そんなに珍しい?」
「景色が素敵です。それに、部屋がとっても綺麗で……これまで、こんな場所で過ごしたことない、から。家は昼間でも暗くて、物がたくさんあったので」
控えめに少女は言った。
「そっか。このマンションは大きいから、カードキーもまたわたすけれど、2105号室な。おぼえておいて。……とりあえず、今から風呂に入ろう。おいで」
「はい」
凛を浴室に押し込め、シャワーの音がし始めた頃に、涼介ははっとした。
「……しまった。服がなにも、ない」
咄嗟にあのアパートから出てきてしまった。父も身分証関係しか満から受け取っていないので、何一つ、彼女のものは持ってきていなかった。
「……とりあえず、買い物に行こう。そうしよう……」
浴室もまた広かった。
あの男は本当に一人暮らしなのだろうか、と凛は思う。
あたたかいシャワーを浴びながら、横の浴槽にはお湯が張ってあった。いい匂いがするので、入浴剤も入れてくれているのだろう。
シャンプーは男性のものだろうが、シャンプーとコンディショナーがきちんと置かれており、ボディーソープもいい匂いがした。
こんな大きくてきちんとした風呂に入るのは、小学校の修学旅行以来だ。
湯船に浸かると、身体の至る所に刺すような痛みを感じた。無数の痣。煙草の跡。蚯蚓脹れ。
彼ーーー涼介には見せられない。
特に、今日殴られた顔はかなり痛んだ。口の中も切れている。腫れがすぐにひきそうなのが不幸中の幸いである。
「気持ちいい……」
久々の温もりだった。
凛が風呂から出てくると、脱衣所の籠には衣服がいくつか置かれていた。スポーツブラとショーツ、ジャージ一式、全てに値札がついていた。
ドアの向こうからノックが聞こえる。
「はい」
「急遽、すぐそこのスーパーで買ってきた。サイズが合わなかったら申し訳ないけど。少し落ち着いたら、軽く夕食を食べて出掛けよう。服とか、いろいろ買いに行こう。嫌いなものや食べられない物はある?」
「……ありがとうございます。何でも食べられます」
「そうか。じゃあ、着替えたらリビングにおいで」
礼を言おうとしたが、声の主は廊下を歩いていってしまった。
「きたか」
リビングには、大人四人分ほどのテーブルと椅子があった。その上には、二人分のパスタとサラダ、湯気のたつスープが置かれていた。
「…………」
驚きで凛は身体の動きを止める。
「ごめん、嫌いだった?あるもので急遽作ったから、ちゃんとしたものではないけれど」
「……いえ、ちょっと、驚いて。用意してくださったんですか?」
「当たり前だろ。君、ガリガリだし、あの状態だと、ご飯も食べてないだろ?しっかり食え。いちおう、料理ならそこそこ自信がある」
「いただきます」
凛が席につくと、涼介も続いて席に座り、手を合わせて「いただきます」と言った。
「ほら、君も食べて。冷める」
「は、はいっ。いただきます!」
少女は戸惑いがちにフォークを手に取った。茄子とひき肉、アスパラガスが入った、トマトパスタだ。一口、口に含んで咀嚼すると、少し濃いが、優しい味がした。
次に手に取ったのは、スープだった。コンソメ味のシンプルなスープだったが、具材もたくさん入れられている。
「すまないな、簡単なもので」
「いえ…………いえ……」
涼介がふと、目線をパスタから凛へ移した時、彼は静かに驚いた。
「どうして、泣いてる?」
彼女はぽろぽろと大粒の涙を流していた。声を押し殺し、目をこすって、まるで泣くことを隠すように。
「どうした?不味かったか?」
「ちがう!違うんです……ただ…………こんなこと、久しぶりで、なんていうか。どうしてなんでしょう、ごめんなさい、ごめんなさい……」
少女はひたすら「ごめんなさい」を繰り返した。その言葉を繰り返しても、涙は溢れるばかりだった。
「いいんだ。謝らなくていいんだよ。俺は、あの女みたいなことはしない。俺は、君を守るよ。だから、今は食べなさい」
凛ははっと顔を上げた。目の前には、優しく、そして悲しそうに微笑む青年の姿があった。
今までの学校の先生でさえ、自分を見て見ぬふりをしてきた。
久しぶりに感じる、優しさ。
「……ありがとう、ございます」
少女は泣きながら、温かいスープをまた口に含んだ。
硝子の天使 橘 愛瑠 @airutachibana
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