第4話「躓く石も縁の端」
雄介は、古びた扉を開けた。
ギギ……という音と共に、その部屋の中へ、涼介は父と共に入った。
狭い部屋。
散らかったゴミ。
割られた瓶や食器。
おびただしい数のビールの空き缶。
不自然なほどにそこだけ美しくされた和室。
そこに広げられた一人分の布団。
多数のくるまったティッシュや使用済みコンドーム。
酒の瓶を振り上げたまま、人の気配に気づき動きを止めた、ボサボサの髪の女。
そして。
風呂場から繋がれた、鎖。
手錠で繋がれた、少女。
空が明るくなり、夕暮れの色が、部屋を包む。
少女の大きな瞳には、キラキラと光る夕焼けが映し出されていた。
涼介は、その瞳に吸い寄せられるように、彼女を見つめていた。
「もう見る影も無いな、満(みちる)」
雄介は、冷たい声で女に言い放った。
その声で、涼介もハッと我に返る。
「もうその子は、お前の子ではない。手を出すな。ーーー凛(りん)、お前をむかえにきた」
凛と呼ばれた少女は、とても14歳とは思えぬほど、痩せ細り、小さかった。服は至る所が引き裂かれ、小さな二つの胸が見えそうなくらいだった。長い髪は引っ張られていたのか、乱れたままで、顔は左側が腫れ上がっている。
「養子縁組の手続きは終わった。この子は今から、三条家の一員だ。春奈も了承済みだ」
「待って、待ってよ、ゆうちーーー」
「その名前で呼ぶな。虫唾が走る」
涼介は、父の表情が強ばっていくのが分かった。雄介は言葉を続ける。
「涼介、凛を連れていくぞ。支度をするから、お前はこの子を連れて車に戻っていろ」
「……はい」
涼介は、靴を脱いで部屋に上がると、予め父に持たされていたペンチで鎖を切り始めた。
「ちょっと!何してんのよ!私の娘よ!!!」
満と呼ばれた女は、髪を振り乱しながら、涼介に抵抗する。それに、雄介は無表情のまま、腹を蹴り上げた。女はドシンと音をたてて倒れる。
「手錠の鍵はどこだ。わたせ、今すぐに」
「……どうしてなのよぉ……」
「金ならいくらでもやろう。その代わり、この子はもう手放せ」
雄介は手持ちの鞄から、分厚い封筒を取り出し、女に手渡す。女はすぐ起き上がり、嬉しそうにそれを受け取った。
中身は全て、紙幣であった。
「あ、ありがとぉ!こんな子、好きにしちゃってぇ!鍵も、ほら」
女が戸棚から鍵を取り出したので、涼介が咄嗟に奪った。
「お前……最低だな」
涼介が低い声で、女を睨みつける。
「最低でも何でもいいのよ。私はこの子が憎い。早く手放したくって仕方なかった。殺そうとしたこともあるわ」
女はにやにや笑いながら、少女を指さしていた。
「お母さん……」
消え入りそうな声で、少女は母を呼んだ。
しかし。
「お母さんなんて呼ばないで!!私の全部を奪ったくせに!!私はお前のせいでこんなふうになったのに!!」
女は激昴した。少女に再び殴りかかろうとしたところを、雄介がまた腹を蹴って止める。女は咳こみながら、再び倒れた。
「うるさい。静かにしろ。……この子の身分証を全て預かる。早く持ってこい」
「げほ……げほ…………分かった、わよ」
女はふらりと立ち上がり、奥の部屋へ消えていった。
「君はこっち」
手錠が取れたので、涼介は凛という少女を抱き上げ、
「先に行っています」
と父に短く伝えると、停めてある自分の自動車のもとへ急いだ。
女は、しばらくして、部屋から戻ってきた。
「ゆうちゃん、もってきたわよ」
「その名前で呼ぶな、汚らしい」
「ひどい。あんなに愛しあったのに?……ねえ、またうちにおいで。ゆうちゃんなら私の事、好きにしていいから……」
「うるさい。お前に用はないが、荷物で必要になったものがあれば、涼介に取りに行かせる。あいつには手を出すなよ」
雄介は、女から袋を奪い取る。睨みつけるが、相手はまだニヤニヤと笑っていた。
「あの子のことが心底可愛くて大切なのね。あの子、イケメンじゃない?あの子から迫ってきたら抵抗はしないけど、私からは手を出さないであげるわ」
「それならいい。もう会うこともないだろうから、この鍵は置いていく」
「せっかくあげたのに……でも、何かと必要になるだろうから、あの男の子に預けておいてちょうだい。いつでもきていいよ、って」
女は、歪んだ笑みを浮かべ、雄介の唇にそっと接吻を落とした。
一方、車の中では、涼介は凛に毛布をわたしていた。
「服、ビリビリで寒いだろ。これ羽織ってて」
「……はい」
「あとこれ。そこで買ってきた水。飲んでもいいからね」
「……ありがとう、ございます」
凛の声は今にも消え入りそうなくらい弱かった。
「養子縁組のことは聞いているのか?」
涼介は、今話す内容ではないだろう、と言ってから気付く。まずかったか。
「聞いてませんでした。私は、その、あの、あなたのお父さんと暮らさなきゃならないんですか?」
「……いや、一緒に暮らすのは、俺とだ。俺は三条涼介。よろしく」
「……そう、ですか」
少女はどことなく安堵した表情だった。
「よろしく、お願いします。迷惑かけて、ごめんなさい」
「いいよ。大丈夫。俺はあの女とは違うし、君を傷つけたりしない」
「……お母さん、病気なんです、心の。私がいなくても、大丈夫でしょうか」
凛は俯きながら話した。
(この期に及んで、母親の心配かよ)
「大丈夫だろう。君は、あの人にもう会わない方がいい。何かあれば、俺が様子を見に行く」
「……はい」
少し沈黙が続いた頃に、雄介が怖い顔をして戻ってきた。
「涼介、車を出せ。制服や学用品は、明日届くようにしておいた。明日はまだ日曜日だ。まずはこの子の身なりを整えてやれ。」
「はい。父さんは、この後家へお帰りになりますか?」
「そうする。送れ」
「かしこまりました」
車は発進し、古びたアパートを後にした。
この日を境に、歯車は加速し始める。
この出会いは偶然ではなかった。
毛布に包まる少女をミラーで確認する。
彼女は、怯えることなく、ミラー越しに涼介の瞳をまっすぐ見つめていた。
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