第2話「虫の知らせ」


涼介の自宅は、職場である私立桜木ヶ丘中学校の最寄り駅から二駅の所にある。

赴任して数週間は電車で通勤していたが、生徒たちと駅前や電車の中で会う上、帰りは女子生徒たちに「自宅はどこだ」と詮索された。挙句の果てにはわざわざ自宅最寄り駅で一緒に降りて、場所を特定しようとする者まで出てきたので、自転車を使って遠回りしながら通勤するようになった。女子の執念とは凄まじいものだ。


自宅は、オフィス街の側のタワーマンションである。本当は、自分で探した普通のマンションに住むつもりだったのだが、両親が勝手にこちらのマンションに入居準備をしていた。セキュリティもしっかりしているし、部屋は広い。眺めもよい。スーパーも近くにある。好条件の物件であったが、涼介本人は両親に押し切られてしぶしぶ住んでいるだけだった。

カードキーで自動ドアを開け、自分の部屋に向かう。部屋は21階、4LDK。入居者のほとんどが家族連れである。居間では、街の景色がよく見渡すことができる。寝室、趣味の音楽用の部屋、書斎と三部屋使ってはいるが、あと一部屋は用途もなく空室だった。ファッションにはさほど興味を持てないので、音楽と書籍以外の荷物は少ない。

寝室のクローゼットから、デニムと春用のニット、そして薄手のジャケットを取り出す。スーツのスラックスは丁寧にハンガーにかけ、背広も型崩れしないようにきちんと片付ける。涼介は、我ながら几帳面だと思った。

財布の中身を見て、今夜の食事代があることを確認すると、涼介はリュックサックを背負ってまた自宅を出た。今度は徒歩で駅まで向かい、電車に乗って二つ駅をわたり、また乗り換えて一つ先の駅に行く。学生の頃まではよく利用していたし、今でもよく戻ってくる場所なので、どこに何があるかはよく知っていた。

改札口の前で、彼は手を振る茶髪の男性がいることに気がついた。弟の賢太である。

「兄さん!」

「賢太。久しぶりだな。待たせて悪い」

「いや、僕も来たところだよ。元気にしてた?」

「いつも通りだよ」

弟の三条賢太は、大手商社に就職してから二年になる。仕事自体は上手くいっているようだ。髪は今まで黒だったはずだが。



「食事会」といっても、二人での食事はただの居酒屋である。

「やっぱりここの焼き鳥は美味しいよね〜」

賢太は砂肝を頬張りながら言った。

「そうだな。明日は堅苦しい食事会だから、その前くらいはこうやって酒を飲むのがいいな」

「そうだね〜」

賢太は酔いやすい。生ビールのジョッキ一杯で頬を赤らめ、話し方もゆるくなる。一方で涼介は、なにを飲んでも酔うことはないので、順調に三杯目を迎えていた。

「兄さん、そういえば、さ。父さんには昨日電話で話をしたんだけど」

「ん?」

「俺、結婚するんだぁ」

涼介にとっては初耳だった。

(彼女がいたのか)

「おめでとう。いつの間にそんな話になったんだ?」

「半年前くらいからさぁ、父親同士の紹介で食事して、そのうち付き合いだしたんだ〜大手会社のご令嬢だよぉ」

「よかったじゃないか」

「別にいいわけじゃないよぉ。あっちにほぼ押し切られてOKしたようなもんだよ。親の力って怖い」

「……それはそうだな」

涼介も賢太も身に染みて理解していた。

親の力。親の権力の恐ろしさを。

彼らの父親は三条雄介。私立桜木ヶ丘の理事長である。桜木ヶ丘には初等部から大学まであり、偏差値も高いため、全国から優秀な子どもや経済的に豊かな家系の子息が集まりやすい。三条家の資産もかなりあり、経済的に困窮することは一切なかった。

だが、それでも不自由な暮らしを強制されてきた。

決まった食事、決まった学校、決まった勉強時間。大人になっても、決まった住居を与えられ、就職先も自由に選ぶことができないまま、先に根回しをした父によって決められてしまった。

「結婚も父親の言う通りになるなんて。いつまで僕らは、父さんの人形でなくちゃいけないんだろう。僕は父さんの思い描く大人にならないといけないのかな……」

「賢太、狭くるしい思いをさせて」


ごめんな、俺のせいで。


そう言おうとしたが、弟が酔っ払って眠ってしまったのに気付き、涼介は頭を抱えながら溜息をついた。


幼い頃から、両親から与えられる愛情が、弟よりも少し距離感があると感じてきた。

弟とは違い、どこか他所の子のように扱われるような気がした。

大きくなればなるほど、それは如実に現れた。中高と、自分は部活もできたが、弟は許されず、部活をする時間は勉強に充てられた。大学はもちろん弟の方が高い偏差値の大学を目指すよう指導された。就職先は、弟は一般企業の就職を希望し、父の裏での根回しがあり、いい企業に就職した。涼介は特にしたいこともなかったが、部活指導に興味をもち、桜木ヶ丘中学へ赴任させてもらえた。

そして、この婚約話。

涼介は結婚願望もなく、何事も声をかけられることなく、働き始めて6年目を迎えた。しかし、次男の賢太は婚約者をあてがわれた。

予め敷かれた、輝かしいレールの上を走るよう決められるのか、はたまた自由にさせてもらいながらも、どこか期待を抱かれていないのではと感じるほどの距離を感じるのか、どちらが幸せなのだろうか。


弟は、自由な兄の人生を羨む。

指図せず自分を見守る兄を尊敬し、慕いながら。

その姿を見て、涼介は可愛がられている弟を妬むことなく、申し訳ない気持ちを抱きながらも、それを伝えることができずにいた。


「賢太、ごめんな」

ボソッと呟く。相手は眠っているので耳に入っていない。

この気持ちを伝えたら、賢太は怒るのだろうか。

「はあ……」

また溜息が出てしまった。最近癖になりつつあるな、と感じていると、涼介はリュックに入っている自分のスマホが震えていることに気づいた。

見てみると、父からの電話だった。


「……お待たせしました」

『 久しぶりだな。賢太と食事だと聞いた』

「今は仕事の関係で電話に出ているので、席を外していますよ」

普段、賢太は酔っ払うほど酒を飲まない。人付き合いだと、酔わないように少量ずつ飲むなどして、対応している。

父親に知られると「みっともない」と叱られるだろうから、大衆向けの居酒屋で酔っ払って眠っているなどとは言えるわけがない。

『 そうか。明日の予定は分かっているな』

「はい。光(ひかる)の家庭教師の方がお帰りになったら、昼から食事、でしたね」

『 そうだ。賢太の結婚話は聞いたか?』

「聞きました。明日、婚約者の方もいらっしゃるのですか?」

『 呼ぶように言ってある。涼介、食事会の後だが、時間を作っておけ。私とお前だけで、行く場所がある』

「承知しました。では、明日は自動車で会場まで向かいます」

『 頼んだぞ。あと、大きな鞄を用意しておけ。中身は何も要らない』

「……はい」

何のためだろう。しかし、疑問は口にしなかった。

「では明日、12時に」

『 分かった』

短い返事と共に、電話は切れた。

父と二人で出かける用事など、今まであっただろうか、記憶をたどっても見つからなかった。


(……嫌な予感がする)

窓から夜空を見ると、星や月は見えず、暗雲が広がっていた。


遠くから雷の音がしていた。



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