第三章
どれほど寝ただろうか。ドアのノック音とともに目を覚ました。ドアを開けると太陽がすでに頂上近くから森を照らしていた。あまりの眩しさに目が開かなくなる。
「おはようございます」
ドアの前では少女がリュックを背負って待ち構えていた。
「今日は川に泳ぎに行きませんか? 近くに綺麗な川があるの」
まだ頭が起きていなかったので僕は適当に頷いた。そして僕がうなずくやいなや少女は走り出した。反射的に僕も急いで靴を履き彼女を追いかけた。
川まではあまり遠くなかった。川岸には老人がすでに座って待っていた。
「おはよう」
「おはようござます」
「昨夜はよく眠れましたか?」
「はい」
「それはよかった」
そういって彼は僕にサンドイッチを渡してくれた。朝ごはん、ということだろう。僕はお礼を言って早速食べ始めた。少女は早速裸になり川でひとりではしゃぎまわっていた。僕らはしばらくの間その少女の姿を眺めていた。
「昨日、あなたをみて思いました。」老人は言った。
「たくさんのものを抱えていそうだと。重く、鈍い何かを。」
「重くて鈍い」
僕は反復する。その表現がやけにしっくりきた。
「話ならいくらでも聞きます。あなたの話したいことを話したいだけ話してください。」
僕は重くて鈍い何かについて考え始めた。昨日まで感じてきた苦しみを思い出した。それは寝起きの僕にとってはいささか負担のかかる作業だった。しかし、その分だけ今目の前に広がる世界がどれだけ平穏なものかを実感するのであった。流れる川の音、裸で無邪気に遊ぶ少女、雲ひとつない青空。全てが素直で綺麗だった。一生ここで何も気にせずに過ごせると思うと魅力的に感じた。
「僕は客観的に見れば恵まれた人間でした。」
僕は自然と言葉が出てきた。僕の中にあった黒い影が溶けて言葉となり僕の口から出て行く。
「勉強も運動も全てがそれなりにでき、これといって苦手なこともありません。だから多くの人は僕のことをできた人間だと思っています。」
「でも実際のところ僕はどうしようもなく腐った人間なのです。ずるく、醜く、卑屈な人間なのです。このことは僕が一番わかっています。しかし、僕の中のエゴがそのことを認めようとしないのです。皆の思うできる自分になりきろうとしてしまうのです。そうしてエゴと嘘に固められ僕は自分を確立していきました。化けの皮を被ったままできる人して街を歩いている。そんな自分が醜くて仕方がないのです。心の奥ではそのことをよくわかっていました。だから褒め言葉はいつも僕の心をえぐります。その一方で否定されると僕の中のエゴの部分が憤りを覚えます。僕は自分で自分がなんなのかわからなくなってしまいました。」
「そのことを、誰かに相談したことはあるのかい?」
「はい。ここまで素直にはなしたことはないですが尊敬する年上の方々に話したことはあります」
「しかしそれによって解決することはなかった、と」
「はい。少しも」
「相談をするたびに彼らは決まって同じことを言うのです。『苦しんでいるのは君だけじゃない』『みんな苦しみながらも生きているんだ』と。それは確かに正しいと思います。しかしその言葉は僕の心を少しも癒すことはありませんでした。むしろその言葉は僕にこう思わせるのです。皆が苦しんでいる、というのであれば生そのものに重大な問題があるではないか、と」
「なるほど」
「そして、そんなことを考えていたある日、学校で討論の授業がありました。テーマは虐待についてでした。その時ある同級生が言ったのです。『親はすでに生きることが苦しいということを知っている。それなのにその苦しみの世界に子を産んだ。その時点で親は児童虐待をしているのだ』と。その言葉は僕に強く刺さりました。納得しているわけではありませんが、はっきりと否定できないもどかしさを感じてしまったのです」
「やはり君の抱えているものは、重くて鈍いですね」
「そうなのかもしれません」
そのときふと頭の中に疑問が浮かんだ。それは昨日処理した疑問の中にはなかったものだった。
「僕がここにきたのには理由があるのですか?」
僕は浮かぶや否や老人に尋ねた。この疑問は、こんな安らかな場所に僕だけがいてしまっていいのかという一種の罪悪感からくるものでもあった気がした。老人はしばらく考えて、こう言った。
「それはきっとあなたが苦しむ理由と同じようなものです」
その言葉は僕を混乱させた。僕の苦しみはどこからきているのだろうか。そしてその苦しみとこの場所はどのような共通項をもっているのだろうか。
「私も難しいことはよくわかりません。しかし、そのような気がします」
「難しいですね」
ぼくはそういって仰向けに寝そべった。空はどこまでも青かった。空が青いのか、青いのが空なのかわからなるくらいに純粋なものだった。
「よければ泳ぐといいですよ、ここの水はすごくつめたくて気持ちいいです」
僕は頷いて裸になった。僕は自分がこの自然の一部となったきがした。
僕は少女と長い時間泳いだ。僕は泳いだというよりも、流された。川の強い流れに逆らうことはしなかった。流されては岸に上がり、流されては岸に上がった。少女はそれをみて僕を真似た。穏やかになってゆく気持ちは僕をどんどんと現実から遠ざけていった。
2度目の日の入りを前に僕らはあの建物に戻った。
老人はまた僕にコーヒーを出してくれた。
僕は出来立ての熱いコーヒーを慎重に一口飲んだ。その苦さにはまだ慣れなかった。
「君は、恋というものをしたことがあるのかい?」
老人はコーヒーを一口飲み、一僕にそう尋ねた。
「はい。彼女がいます」
「付き合ってどれくらいなのかね」
「そろそろ2年が経つかと」
僕は高校二年生のとき、初めて彼女ができた。彼女にとっても僕が初めての彼氏であった。それにも関わらず、付き合い始めて初めてのデートで僕らはキスをし、その次のデートで寝た。友達からはあまりにも早すぎると驚かれた。しかし僕らにとってこれは自然なことであった。お互いが付き合い始めた日からお互いの愛を確信していた。そしてその後も僕らは一度も喧嘩という喧嘩をせず、二年間変わることなく愛を育んできた。
「その彼女とこれからの人生を歩んでいくつもりなのかね」
「それはわかりません」
「なぜだい?」
「僕は彼女との愛を確かに信じています。しかしこの世でその愛を貫ける自信はまだ僕にはないのです。この愛が汚れを知った時、どのような姿になってしまうか怖くて仕方がないのです。」
老人は僕の目をじっと見ていた。彼のその目は僕に話を続けることを求めていた。
僕は続けた。
「彼女のことを年上の方々に話すとこれまた決まってこう言われます。『高校生の恋愛は純情でいいねえ』と。純粋でない、汚いものを知っていることを鼻にかけるかのようにそう言ってくるのです。それをまだ知らない僕たちを半分馬鹿にするようにして。僕はそれを聞くたびに苛立ちを覚えました。僕らの愛を軽んじられているように感じました。しかし、その言葉は同時に僕に不安を与えるのです。彼女がそのいわゆる汚い愛の形を他の誰かによって知ってしまった時、この愛はどうなってしまうのだろうかと」
僕は彼女のことを思い出した。彼女の美しい身体。抱いた時の柔らかな感触。何かを求めるように震える唇。その唇にそっと口づけした時の潤い。その愛は、空っぽな自分が持つ唯一の実体だった。そしてその愛を確かめるほどに僕の中の不安の募ってゆくばかりあった。これは僕の問題でも、彼女の問題でもない、愛そのものが抱える大きな欠陥なのだ。
「その愛を失わないようにあなたは戻るべきではないのですか」
老人は僕にそう言った。それはその通りであった。しかしなぜか彼女への愛は僕に選択を促すほどの衝動にはならなかったのだ。
「僕は今どこかで失うことから逃げようとしているのかもしれません。」
僕は常に心のどこかで彼女に捨てられることを恐れていた。そしてその恐怖に怯えて生きるよりかはこうしてどうしようもなく切り離されてしまった方が楽なのではないかと考えてしまっていた。
「その愛が永遠であれば、僕は戻ることを決意できたでしょううが」
「まさに『愛は罪悪』、というところですかね」
「はい、どうしようもなく。」
僕はコーヒーをまた一口飲んだ。冷めたコーヒーも相変わらず濃く、苦かった。
そして僕は夕食を済ませ寝室に戻った。
寝室に戻って僕は家族について考えた。彼女からの愛とは異なり、家族からの愛は血縁という確かな裏付けのあるものであった。もし僕がここに一生いることになったら、と想像した。母の泣く姿を想像した、探し出すのに必死な父の姿を想像した。状況が理解できずパニックになる妹の姿を想像した。そのすべてが僕にとって苦しいものだった。僕はまたこの苦しみから逃げようと目を瞑った。そしてまたいつのまにか眠りについていた。
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