アストライアが見た正義

ただの柑橘類

アストライアがみた正義

 その女神は、初めに生命の誕生を見た。

 その女神は正義を司る女神で、誰よりも正義を誇りに思い、誰よりも正義を愛していた。

 でも、自身が思う正義とは何かなど考えたことも無く、ゼウスのように全知全能でも無い存在。そんな正義の女神は、生命の誕生を見て美しいと感じた。でも、正義とは違うと考えた。

 

 第二に女神は、『友達』という存在を見た。

 栗色の髪の毛をした小さな女の子が、自身とよく似た姿をしている女の子に『ずっと友達だよ』と優しく言っているのを見て、女神は儚いと感じた。……でも、正義とは違うと、やはり感じた。

 

 第三に女神は、『恋』という見えないものを見た。

 女神の一日は通常の人間の九ヶ月と、母エーオースから学んだ故に、何千年、何万年と生きる女神が考えることは大人であった。

 ある程度成長して大きくなった先程の女の子が、長身の男の子に告白されて驚いている。そんな様子を見て、女神は苦しいと感じた。

 私、知ってる。だって、いつかは終わるのだから。だって、いつかは裏切るのだから。

 人は信用してはいけないと、父アストライオスから学んだ女神は、それが正義だとは感じられなかった。

 でも。

 ……でも、心のどこかで、その関係が上手く行きますようにと願う自身がいる。それはきっと、女神の魂が女の子と似ているからなのだろう。

 

 第四に女神は、『喧嘩』というものを見た。第二に見た栗色の髪の毛をした女の子が、先程の菫色の髪の毛の女の子と言い争いをしている。

 女神や神同士の領土争い、喧嘩、言い争いは、女神が生きている間に何度もあった。でも、この喧嘩はそんな些細な喧嘩ではない。女神は直観的にそう感じる事が出来る。

 何故なら、あれは自分なのだから。あれは大学生の時の、女神じゃない時の女神なのだから。

 この時はどんなことで喧嘩をしただろうか。もう遠く、酷く儚い昔のことである。内容など覚えていない。それでも、この時の喧嘩は、何か人生に関わる大事な喧嘩だったようなと、ぼんやりと女神は考えていた。

 それでも、正義とは違うと感じてしまった。

 

 第五に女神は、『悲しみ』というものを見た。自身の部屋で、自身が泣いているのだ。後にもう一人の女の子の方も見て見たが、こちらも泣いている。

 仲直りをしよう。

 そう言い張り、二方とも家から飛び出し、ある所に向かうのが見えた。

 向かった先はそれぞれ違った。でもそれはお店で、それも文具店であることは同じだった。

 二人はとあるものを買う。自身はライオンのペンケース、友達の女の子は五線譜ノート。どちらも、どちらが好きなものである。

 でも、女神はこれを正義と捉えるのは難しいと判断した。

 

 第六に女神は、『仲直り』を見た。大学に行って、同じ学科で同じ授業にいるが故に、渡す機会など沢山ある。

 授業が始まる前、隣の席に座った二人は、お互いに謝りあって例のものを渡した。二人は、やはり考えることは同じだと、それぞれ受け取りながら笑いあう。

 そんな姿を見ても、女神は何も感じなかった。

 自身が渡したライオンのペンケースを、嬉しそうに受け取ったあの女の子の結末を、行く末を、自身が冒した過ちを、全部全部知っているから。耳を塞いで、聞こえないようにした。

 でも、不条理にも程がある。そんなのもお構い無しに、見ていた光景が頭の中に思い浮かぶ。

 なんで、やめてよ、私は思い出したくないの。

 逃げるのは正義ではないと、女神はこの時感じた。

 

 第七に女神は、『血』を見た。そこは駅のホーム。貨物列車が轢き殺した、人間『だったもの』がそこら辺に散らばり、肉片は飛び、目玉がころりと点字ブロックへ転がり行く。自身の手には少量の血痕、騒ぎ立てる周りの人々、その場に座り尽くす青ざめた友達の女の子。

 その女の子の名前を『小鳥遊諜苺たかなしさぐめ』と言う。女神はなぜ諜苺が青ざめているのかを知っている。

 死体を目の前で見たから? いいや。

 人が轢かれる瞬間を目の当たりにしたから? ううん。

 原型もなくぐちゃぐちゃになったそれが、諜苺が愛する者だったから。

 手を伸ばした自身は、諜苺が愛する者の目を掴めずに、見殺しにしたような形になったから。

 だから女神は、諜苺との関係を濁してしまった。それに後悔するのにはとうに遅すぎて、気がつけば歳をとっていって、あっという間に二十歳になった。

 全くもって正義などとは無関係だと、女神は感じた。

 

 第八に女神は、『死ぬ』を見た。十六歳から始めている歌手の仕事に支障が出たのだ。

 それは、声が出なくなった事。喉頭がんだと診断され、自身は声帯を切除しなければならなかった。

 あの子にどう説明しよう。

 真っ先に思い浮かべたのは、自信が愛する者だ。レターペンを持ち手紙を綴り、お見舞いに来た時にでも読んでくれれば……なんて、そんなことを思っていたのだ。

 その時、自身はどこか息苦しさを覚えた。肺に矢がつがえられたかのように、キリキリと痛む胸を服越しに抑え、荒い息を繰り返す。

 でも、そんな時間も虚しくて、自身は真っ白なシーツに赤い鮮血を散らす。レターペンを床に落としてしまい、手紙の字は歪み、ナースコールも押せないまま、うずくまってきつく目を閉じる。そうして、自身は息をしなくなった。

 ピ───……。

 繋がれていた心音器が無機質な音を鳴らす。それに気づいた病人の一人がナースコールを押し、駆け付けた看護師がようやく事の大きさに気がついた。

 女神は、客観的に見た自身の死を見る。こんなにも簡単に、それもたったひと握りの痛みで殺せるなら、人間は誰だって弱いものだ。そう思う他なかった。


 第九に、女神は『戦争』を見た。ごつごつとした鎧を身に纏い、人々は黒人白人に別れて祖国の為にと争いを繰り広げる。

 その時、人々はこう口にしていた。

『祖国の為に、正義を以てして、我は戦うのだ』と。

 違う。

 女神が思う正義は、このような歪んだ正義ではないはずだ。人々が思うべき正義は、このような蔑んだ正義では無いはずだ。

 私は歪んだ正義なんか教えちゃいない。なのにどうして人殺しをしてでも正義と言い張るの?

 女神はついに、『正義』の概念が何だっかを忘れてしまった。

 

 第十に女神は『祝福』を見た。十字架が一番上に立つ三角屋根の教会で、人々が祝福の意を叫んでいる。その姿は黒人白人関係なく、皆嬉しそうな顔をしていた。

 女神は三角屋根に座り込み、その光景を見据える。いつかこんなことが出来たなら、私はどのような顔をするのだろうか……と、そんなことを思いながら。

 正義とは程遠い絶望を見すぎたせいか、女神の心はいつしか『正義』という言葉を忘れてしまっていた。

 改めて自分の心に聞いてみる。正義とは何かと。

 でも心は何も答えてくれない。心は何も言わないし、何も言えない。人のように話せる心などないことを、女神は知っている。

 ぱち、ぱち、と、ゆっくりと拍手を送る。

 人は悲しい時は左目から、嬉しい時は右目から涙を流すと言われている。

 女神は両方の目から涙を零した。

 あぁそうか、ようやく分かった。

 正義は悲しくもあり、嬉しいものでもある。故に正義は感情で動くものなのだと。

 怒りに任せて正義を言い張る者もおれば、勇敢な心を以てして正義を唱える者もいる。人を亡くし、復讐の為にと正義を定義付ける者もおれば、ちょっとした心遣いが現れて正義の意を表す者もいる。

 正義は形づけるものでは無いのだと、女神はこの時初めて気づいた。

 

 ここに正義の女神が一人いる。

 

 彼女の名を安城菫あんじょうすみれ、またの名をアストライアという。

 

 彼女は正義の女神である。

 

 それでも女神は、人を愛する『正義』を、心を忘れない。それが今の人間を作っているのだとしたら、人生は正義だらけだと、彼女は幾度となく思う。

 

「……さて、過去の事はこれくらいにしてっと」

 

 女神は目を開く。


 見上げた空に登るは、一つの入道雲。


 菫色の瞳に映るは、寄せて返す漣。

 

 今年もあなたを待っている。

 

 この墓の前で。

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