冬にまた、君と出会った

夜依伯英

 夏が終わり、だんだんと空気も冷たくなってきた。青春はいつだって夏のイメージがつきまとうが、その割に俺の夏に青春なんてものはなかった。秋を迎え残ったものといえば、何もできなかったという虚無感と、自己嫌悪だけ。もしも、部活や勉強に精を出したり、自分の趣味を思い切りやっていたら、こうはならなかったのだろうか。過ぎ去った時間に対して俺ができるのは、後悔のほかに何もない。

 そうして虚無の中で迎えた秋も大したこともなく終わりかけ、現在を迎えている。結局俺は何に対しても全力で努力するということができなかった。無関心だったのだ。


 しかし、11月24日、俺は強く興味を惹かれる体験をした。その日、俺のクラスに季節外れの転校生がやってきた。2学期制の高校とはいえ、普通は前期が終了する10月とか、その辺りが妥当だろうに、何故か彼女はその日にやってきた。担任が紹介した彼女は、本当に美しかった。高校生とは思えないくらい大人びた表情で、目の前のことなど関心にないといった顔ですましてみせた。背中の半分くらいまでありそうな長い髪は、まるで夜空のように真っ黒で、しかし彼女の瞳は透き通るような茶色をしていた。担任が自己紹介を促すと、彼女は儚げな声で時雨京香と名乗った。彼女に合う綺麗な名前だと思った。何より俺が興味を惹かれたのは、彼女を見たときに美しさと共に感じたある感情についてである。俺は、彼女を一目見たときに、何故だか懐かしさを感じたのだ。ずっと前から彼女を知っているような気がした。こんなに綺麗な人を見たのは初めてなのに。


 それから俺は、その好奇心を背負ったまま、彼女に話しかけることができずに一週間を浪費した。朝起きたときからずっと心から離れないこの感情の正体が分からないまま、俺は一限を迎えた。一限と二限は数学だった。不思議と集中を乱されることなく授業を聞くことができたが、それが終わると急に気になりだした。三限の化学は、僅かにも集中することができなかった。ずっと、時雨さんのことを考えていた。自分でも気持ち悪いのは分かっていたが、それで止められるならとっくに止めていた。そうして悶々としていると、驚くべきことが起こった。全く予想していなかった事態だ。

「あの、夜凪くん」

 時雨さんが、時雨さんの方から俺に話しかけてきたのだ。あまりに突然のことで、俺は挙動不審な態度になってしまったが、それでもどうにか言葉を返すことができた。

「ど、どうしたの時雨さん」

「京香でいいですよ」

 その返答にもまた、驚かされた。名前で呼ぶというのは、俺にとっては敷居の高い行為だ。

「わ、わかっ、分かりました、京香さん。俺のことも祐介で大丈夫です」

 同級生だというのに、ぎこちない敬語になってしまった。もっとも、彼女の方はデフォルトで誰に対しても敬語のようだった。

「分かりました、祐介くん。それで話なんだけど……今日の放課後、一緒に図書室に行きませんか?」

 なんで急に。しかも俺なんかに。そういった疑問が溢れるほど出てきたが、折角のお誘いだ。こんな綺麗な人からの誘いを断ったらバチが当たる。

「いいですよ」

「ありがとうございますっ」

 彼女は静かに声を弾ませた。一方で俺は、何が起こったのか全く理解できておらず、呆然とした。急に話しかけてきて、図書室に誘う。そんなことをされるほど容姿に優れている自信はないし、本は好きだが見た目では分からないだろう。眼鏡をかけて見るからに本好きという様相を呈しているわけではないのだ。


 それでも、俺は声をかけられてしまった。その事実が何より大切だ。約束は守らなければ。そう思った俺は、放課後京香さんに声をかけた。

「じゃあ、行こうか」

「はい、行きましょう」

 図書室は、高校の中でも割と辺鄙な所にある。故に、あまり人が多いとはいえない。その割に蔵書はしっかりしていて、固定ファンはしっかりと確保している。そんな場所だ。勉強スペースもしっかりとあり、そういうところは進学校らしい。自称進学校だが。

 京香さんはその、勉強スペースに向かった。そして俺にもそこに座るように促した。どうやら勉強をしたいらしい。

「勉強をしたい、といえば勉強をしたいのですが、正直に言うと話してみたかっただけです。勉強教えてもらいながら、色々話せるかなって」

「どうして、俺なの?」

 たしかに俺は学年首位だが、それを彼女が知っているとは思えない。それに、俺は努力型ではないから教えるのが上手いとはいえない。

「なんとなくです。見たときに、何か興味を惹かれたので」

「なんとなく、か。……俺たちってどっかで会ったことある?」

 懐かしさの原因を探るため、そう訊いてみた。俺が忘れているだけで、面識があるのかもしれない。

「……永劫回帰」

 思考の一端が零れ落ちたかのように、彼女は洩らした。

「え? 永劫回帰って……」

「いや、なんでもないんです。忘れてください」

 忘れろと言われても、こんな風に言われたらどうしたって気になってしまうものだ。永劫回帰。ニーチェが提言した思想だ。ある瞬間を次々に、永劫的に繰り返すことを確立するという、分かりづらい話。でも、このタイミングで出されてしまうと、その意味を俺でも少しは理解できた。

「京香さんは、世界の繰り返しを信じるのか?」

 彼女は、少し困ったような顔をして、そして少しだけ残念そうに頷いた。

「ニーチェはそれを『人生の最高の肯定形式』と呼びましたけど、私はそうは思いません」

 手元に開いた化学基礎のノートに目線を落としながら、彼女は弱々しく呟いた。ただひたすらに残酷なだけです、と彼女は言った。俺にはそれが、何を意味しているのかまでは分からなかった。それでも、彼女の心に押し込められた大きすぎる悲壮感と苦しみだけは感じられた。何が彼女をそうさせるのか、俺は推測すらできなかった。

「……祐介くん、私のこと覚えていませんか? 私を救ってくれませんか?」

 正直、どういう意味なのかは分からなかった。それでも、俺の口からは勝手に言葉が紡がれた。

「覚えて、ない。俺としては初めて会ったと思う。でも、君がそう願うなら俺は、君を救いたい」

 展開の速度に頭の中は混乱を極めているが、それでもなんとか感覚だけで話を返した。一体何から、どんな風に救えばいいのだろうか。全く想像できない。俺も手元のノートに、目線を落とした。そこに答えなんか書いてあるはずもなく、ただ組成式と構造式が並んでいるだけだった。

 時雨京香という人間の望みを、俺は叶えられるのだろうか。そもそもそれすらが疑問だった。それでも、いつか壊れてしまいそうな彼女を見ていると、何かしなければと胸騒ぎがするのだ。

 彼女が最初に望んだのは、友達になることだった。友達になってください、なんて陳腐で子どもみたいな台詞を彼女が吐いたのは意外だったが、それでも彼女の美しさによって言葉すら輝いて見えた。


 翌日、俺が学校に行くと、既に彼女は席に座り読書に耽っていた。俺はかなり早く学校に来ているが、それ以上とは。何を読んでいるのか気になり表紙に目をやると、「人間失格」と書いてあった。彼女に似合う本だな、とそんなことを思った。

 そこで、俺はまだ挨拶もしていないことに気づき、ぎこちない声でおはようと声をかけた。

「あ、おはようございます祐介くん。早いんですね」

「いや、京香さんこそ早いね」

「これを読みたくて」

 そう言う彼女を邪魔するのも嫌だったので、俺は大人しく自分の席に着き、数学の問題集を解き始めた。ド・モルガンの法則なんていうものを使って解く、そこまで難しくもない問題だった。それでも、集中はとっくに切れ、頭の中は彼女で埋め尽くされていた。


 一限は地学基礎だった。学歴コンプレックスを持った先生が、正論といえば正論に分類されるであろう学歴論と勉強論を大声で主張する授業。京香さんはなんでこんな高校に来たのだろう。勉強できそうなのに。

「いいか、君ら。こんなテストなんていうのは、範囲を指定されて、しかも問題集から出されてるんだよ。100点取れて当たり前のはずなんだ。なんで君らは100点が取れないんだよ。しっかり勉強すればぁ、こんなのは簡単なんだよ」

 煩いな。勉強してないからに決まってるだろ。少しは自分の頭でものを考えろよ。そんな風に思いながら、授業を過ごした。それでも、授業後に先生が居なくなってから先生を馬鹿にするクラスメイトに対しては強い侮蔑を覚えた。どうせ彼らは勉強しても100点取れないから悔しいのだろう。可哀想に。必死に勉強しても、全く勉強をしていない俺に負けるような奴らだ。かといって、彼らに優れた分野が他にあるわけでもない。生物だったり、政治だったり、天文学だったりで、そこを突き詰めて天才と呼べるくらいまでの領域に達していれば、学校の勉強なんてものができなくても俺は軽蔑しない。むしろ尊敬する。

 俺は努力至上主義や学歴至上主義、根性論といった、この国に強く根を張る考え方を強く憎んでいる。天才たちに不利益な考え方だ。才能の無いゴミどもが天才の足を引っ張る為の考え方だ。気持ちが悪い。


 二限、三限を迎えても、俺の不快はなくならなかった。四限の体育は、適当な理由をつけて見学した。男子はバスケ、女子はバレーだ。別にバスケが嫌いなわけではない。むしろ好きだ。それでも、俺はあのゴミどもと仲良くスポーツなんてしたくなかった。京香さんも見学していた。それが何故だか嬉しかった。


 想像よりも俺の日々が彼女によって変化することはなかった。救う、だなんて言っていた割に、俺は何もしていない。彼女には数人、仲の良い友達ができたみたいたった。特に仲が良さそうだったのは、天内莉奈だった。彼女もまた、不思議な雰囲気を纏っていた。それだけで言えば、天内は京香さんよりもミステリアスだと思う。どちらも背が高く、170センチは超えていそうだ。二人が歩いていると、まるでそこは天国か、或いは——地獄のように、俺には見えた。

 なんであんなにも美しいのだろう。なんであの美しさが俺には無いのだろう。そうだ。俺は美しさに憧れている。完全性、純潔性、透明感、対称性、潔癖性、天才性、絶対性、極致感。まるで少女の初恋のように、俺は美しさに恋してる。だからこそ、それを持っている人に強い憧憬と嫉妬を感じるのだ。その嫉妬はどうやったって拭えるものではなく、脳を酔わせてしまう。


 京香さんと天内が歩いているのを見た。そのとき、俺は初めて京香さんが好きなのだと気づいた。それでもあの懐かしさの正体だけは不明なままだった。それがどうしても気持ち悪かった。


 12月に入り、冬が本気を出し始めた頃のある日の放課後、俺は一人で窓際の席に座る京香さんを見つけた。声をかけようかと思ったが、夕日に照らされた彼女の横顔が余りにも哀しげで、そんなことをしてしまったら、彼女が本当に壊れてしまいそうで、俺にできたのはただ眺めていることだけだった。

 彼女に影を落としたものが何なのか、それだけがどうしても気になって、俺は心が苦しくなった。私を救ってくれませんか? という彼女の言葉が頭を過る。それでも何もできずに、その日は終わった。


 12月12日。俺は誕生日だった。大して仲良くもないクラスメイトから儀礼上の祝いの言葉を貰ったあと、憂鬱ともそうでないとも言えない微妙な気分で席に着いた。中学時代の友達やネットで知り合った同志たちからはちゃんと祝われていたし、家族からのプレゼントも貰っていたから、そこまで機嫌が悪いわけでもないが、それでも学校に来るだけで気分が悪くなるのだ。

「祐介くん、今日は誕生日なんですね。おめでとうございます」

 京香さんからの言葉ですら、そこまで響かなかった。そもそも、響かせるだけの心がなかったと言うべきだろう。既に割れてしまったグラスが響かないのと同じだ。

「夜凪の誕生日とか正直どうでもいいわ」

 そんな嘲りの声が聞こえても、今更どうとも思わなかった。それよりも、24日から冬休みになるという事実の方が心を占めた。

「祐介くん、放課後会えますか?」

 突然、そんなことを言われた俺の頭は簡単にショートして、一瞬何を言っているのか理解できなかった。それでも京香さんのその言葉に、どうにか頷くことができた。若干前屈みになってこっちを見る京香さんの首筋が妙に綺麗だった。制服の胸の膨らみとか、何故だか今まで気にしていなかったあれこれが視覚情報として一気に押し寄せて、俺はなんだか疲れてしまった。

 そうしてよく分からない胸の高鳴りを抑えながら、俺は放課後までを過ごした。とりあえずバッグに荷物を詰め込んで、教室に残りスマホを弄っていると、京香さんがふらふらと現れた。

「じゃあ、行こうか」

「俺、チャリ通だけど」

 そもそも、高校の周りには何もないし、駅前にだって何かあるわけではない。県庁所在地の名前を付けられた駅から一駅。それなのにやたらと僻地扱いを受けている。だからか、俺は京香さんに連れられて、駅まで歩き、そこから電車に乗って、その、比較的栄えている駅を目指した。


 女子と二人で電車に乗るのが初めてという程モテないわけでもないのだが、それでも京香さんと二人で乗る電車には特別感があった。本当に人が少ない車内で、京香さんは俺のすぐ隣に座った。

「祐介くんは、私の外見につられてるわけじゃないですよね」

 彼女はどこか確信めいた口調でそう呟いた。

「なんでそう思うの?」

「そんな感じがしないので」

 彼女はどこか嬉しそうに、それでも寂しそうに言った。

「そうだね。俺は、なんでだろう。なんでこんなにも、君の力になりたいんだろう。君が困っているようにも見えないのに」

「やっぱり、祐介くんは面白いですね」

 そう言って笑う彼女は、やはり美しかった。そう思ってる俺でも、外見につられてないと、そう言えるのだろうか。もし、彼女が顔に傷を負ったとしても、それでも俺は彼女を美しいと思うだろうから、それでいいのかな。一方で俺の自己嫌悪は、相変わらず心に巣食って離れなかった。周りを軽蔑しているくせに、それでも自分を好きになれない。

「面白くなんて、ないよ。酷く退屈な人間だ」

「面白いですよ」

 彼女は引かなかった。

「それに、祐介くんは、きっと私を救ってくれますから」

 どういう意味なのかやはり分からないまま、電車は到着した。ここは人が多い。気分が悪くなる。それは京香さんも同じみたいで、お互いに口数が減った。それでも改札を抜けると、冷えた空気がすっきりと洗い流してくれる。

「冬だね」

「冬ですね」

 彼女は行き先を告げずに俺を先導する。暫く盲目的に彼女についていくと、ちょうど坂の上から街を見渡せるようなところに着いた。そこで、彼女は下に広がる作り物を眺めながら、ふと呟いた。

「私、処女じゃないんです」

 彼女がどれだけ大きな覚悟を決めてそう告白したのか、声の震えと表情から痛いほど伝わってきた。そういうわけだから、普通に恋愛の果ての行為でなかったということは容易に推測できた。

「私が中学生のときでした。実の父親に」

 無表情に戻り、それでも涙を零す彼女に、俺は何も言えなかった。ただ、全身の細胞が彼女に何かしたいと叫んでいた。

「信じてもらえないかもしれませんけど、話しますね。永劫回帰の話を。君のことだから、永劫回帰というのがどういうことなのか、世界の繰り返しがどういう意味なのか、分かりますよね。そして、その記憶を持っていると言ったら。私がどんな想いで生きてきたか」

 俺は、無言のまま頷いた。そして彼女は微笑んだ。全てを恨んだまま。全てを受け入れて。

「祐介くん、私を殺してください。前回みたいに、君が自死を選ぶ前に」

 俺は、それで理解した。懐かしさの正体が、本当に遠くから撃ち込まれたかのように、それでも、すぐ隣にあるかのように。

「京香、俺と地獄に堕ちてくれ」


 そう言って、俺は彼女の手を引いた。

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