第6話 氷解
「まあとりあえず、お茶でも飲んで」
二人がけのテーブルに座った私たちに、香澄さんが麦茶を差し出してくる。
私と綾乃は対面に座っている形になるのだが、その視線が交差することはない。
「さて、何があったのか話してくれるかい?」
香澄さんは軽い調子でそう言うけれど、何から話せばいいのかわからないし、それに軽々しく話始められるような事柄でもない。
私も綾乃も口を閉ざし、香澄さんは鼻歌まじりに麦茶を注いでは飲みを繰り返している。その軽妙な様子が、この場にそぐわなくて、なんていうか調子が狂う。
「……じゃあ」
と綾乃がゆっくり口を開く。綾乃が一通りのことを説明する。その内容に、先ほどのやりとりとの齟齬はない。
続いて、私も話を始める。髪を切ったいきさつと、髪留めの話。
香澄さんは私たちの話を聞いたあと、うんうん、と腕を組んで首肯していた。
「なるほどねえ」
と、ため息を吐き出すかのように、ゆっくりと深く香澄さんは感想を述べた。
香澄さんは、続ける。
「なるほどね~」
二回目の、なるほど、であった。
「なるほどね~、二人とも、青春してるね~」
しみじみと言った香澄さん。その目はどこか遠くを見ている。
「せ、青春って……」
綾乃が不平を漏らす。私もその不平に同調するかのように、香澄さんをじっと見据える。
青春、の一言で済ますことができるのだろうか。あの感情の波を、混乱を。あれらを、ただの一言で住ませることは、少なくとも私には出来ない。
私はあのとき、確実に綾乃に腹を立てたし、きっと綾乃も私のどこかに腹を立てたからこそ、ああなってしまったのだと思う。
「どっちが悪い、なんて話じゃないよこれは。二人とも……そうだね、悪いと言えば悪い」
「そんなありきたりの話みたいな」
私が文句を言うと、香澄さんは軽妙に返す。
「どんなことでもそうだってば。どちらが片方だけが一方的に悪い、なんてケースは、理不尽極める局面を除いては、ほとんど無いんだよ」
「……それは、そうかもしれないですけど……」
「聞く限り、綾乃ちゃんも悪いし理想を押しつけすぎだと思うけれど」
香澄さんの言葉を聞いた綾乃が、しゅんと顔を下げる。
「ツカサちゃんも言い過ぎだね。腹が立ったのかもしれないけれど、越えちゃいけないところってのはあるんだ」
「でも」
「そうだね。相手が先にやってきたから、先に腹が立つようなことをしたから、って理屈はわかる。けれど、ツカサちゃん」
私の双眸を、香澄さんがじっと見据える。射貫くようなその視線は、私の内面をも見透かしそうな鋭さを持っていた。
「ツカサちゃんは、綾乃ちゃんに怒っていたとき、その怒りに我を支配されなかったと言える?」
「それは……!」
「徹頭徹尾冷静に、論理的に、反論したのかい?」
「……それは」
そんなことはない。ほんの数十分前のことを思い出す。私は、あのとき確かに、怒りの奔流に任せて言葉を紡いでいた。
香澄さんが来なければ、きっと。
「わかってるなら大丈夫。二人とも、もう一度話し合えばいいよ。ま、話し合わなくとも、時間が経てば勝手に解決するんだけどね」
「……それはそうかもしれませんが」
香澄さんの言うとおりかもしれないが、こんなもやもやを抱えてしばらくの間生きるのも、なんていうか、苦しい。
「……そうだね、私が思うに」
短く、香澄さんが切り出す。
「綾乃ちゃんの押しつけは――。いや、これはまあ、さておいて、たぶん」
「たぶん?」
私が問う。一瞬の間が、この場に満ちて。
そして、香澄さんがゆっくりと語り始めた。
「たぶんね、綾乃ちゃんはツカサちゃんのことを大事に思ってたの。単なる友人以上の存在。そんな存在が、強いショックを受けている。傷ついている。そうなる前に、どうして自分に相談してくれなかったのか、って思うのはわかるよ」
綾乃を見る。綾乃は小さくなって首肯していた。
「きっとツカサちゃんもそんなことがあって悲しかったとは思うんだけど、綾乃ちゃんもそうなる前になんとかしたかったって気持ちはあるだろうし、そうなってくれなかったことが寂しかったし悔しかったんじゃないかな」
もう一度、綾乃を見る。綾乃はさらに小さくなって、顔を真っ赤にしていた。
なるほど、香澄さんの理屈は通っている。けれど、少し釈然としないところがある。
「……でも、綾乃は髪がどうこうって話ばかりで」
私がそう言うと、香澄さんは何食わぬ顔ですんなり返してきた。
「ああ、それはフェチなんじゃない? 髪の、フェチ」
……はい? フェチ? え、それって太腿とかそういうものじゃないの?
綾乃を見る。綾乃はゆでタコみたいに顔を真っ赤にしていた。
え、綾乃? え? いやちょっと!?
真っ赤になった綾乃を見て、なんでか知らないけれど、私の体が熱くなる。自身の顔が火照っているのがよくわかった。
「ふぇ、フェチって……」
「あるよ、私もそういうの」
「はいぃ!?」
私が目を丸くすると、香澄さんはさらりと続ける。
「私もあるって話。髪を束ねて上げたときのうなじとかいいよね。私、自分のうなじ見て興奮してるもん」
香澄さんは自身の後ろ髪をかき上げ、「ほれほれ」と私たちに見せてくる。
香澄さんの首筋は、元の色素の薄さもあって真っ白だ。その白から、鮮やかな金の糸が伸びては垂れている。
確かに、綺麗。それはわかるけれど。
「ね、人の価値観なんてそれぞれさ」
それも、わかるけど。
……なんていうか、踏み込んだらいけないような世界の気もした。
○
オクトパ8を出て、再び帰路。
周囲はすっかり暗くなっていて、昼の残滓はすっかり消えていた。
隣を歩く綾乃は、未だにシュンとしているのか、口を開く気配がない。
私も会話のキッカケを見失い、ただ黙って足を動かすばかり。
その間、オクトパ8で見た、香澄さんのうなじを思い出す。
真っ白な肌と、金色の髪の境目。数本垂れる、金糸。
確かに、うなじフェチという存在がいることを強く理解できるものだったし、あれに香澄さん自身が見とれるのもわかる。
……うん? わかる……?
いやいや待て、私。わかるというか、理解するのはいいけれど、その世界に足を踏み入れてはいけない。
その世界。自身で思いついたその言葉に、ふと、気づく。
綾乃もその世界の人間なのだろうか。……なんとなく、話を聞く限りはそうなのだろう。
「ねえ、ツカサ」
などと考え事をしていると、綾乃が話しかけてくる。思わずびくりと体を硬直してしまう、私。
「……どうしたの?」
動揺を察知されないように、呼吸を整えてから綾乃に話しかける。
「……その、ごめんね」
綾乃はそう言って立ち止まり、深々と頭を下げた。
「いいよ、そんな。……私こそ、言い過ぎたから」
私も頭を下げる。二人、顔を上げて目を合わせる。
綾乃は未だに、弱気な表情を浮かべていた。しゅんとしたその様子は、まるで雨に打たれた犬のようで。
普段の快活、溌剌とした彼女からはかけ離れたその様子に、罪悪感と、そして、少し残酷かもしれないけれど、不思議な面白みを覚える。
「なんていうか、アレだね」
「アレ?」
私の言葉に、綾乃が首を傾げる。
「うん。そうやってシュンとしてると、綾乃の方がお嬢様というか、女の子っぽい」
そう言うと、綾乃は眉をしかめる。
「なにそれ?」
「いや、思っただけ」
「……そ」
会話は途切れ、再び沈黙。
けれど、今度の沈黙は先ほどよりも軽くて。
なんていうか、いつもの空気が戻りつつあるのを感じた。
綾乃はどこか遠くを見ている。私はそんな綾乃の横顔を見つつ、こんなことを考える。
数少ない、親友とも呼んで良い友人。形は歪だったけれど、私に何かを求めてきてくれた相手。そして、私の悲しみに、心から憤ってくれた人間。
そして私が怒ると、本当に悲しそうな顔を浮かべた、女の子。
そう思うと、ああ。
心の中に、すっと温かいものが入り込んで満ちていく。
その熱が、すっと私の口を動かす。
「ねえ綾乃」
私は、すっと手を差し出した。
「髪留め、私にくれない?」
その言葉に、綾乃が目を丸くする。
「……どうして?」
「どうしてって、元々、私へのプレゼントだったんでしょう?」
そう私が言うと、綾乃は小さく首肯した。
「じゃあ、いいじゃない」
「……でも」
「でも、も何もないわよ」
いつまで弱気になってるんだこの子、と苦笑しそうになる。……まあ、この子をここまで弱気にさせてしまったのは、私のせいなのだが。
だからこそ、この子が、綾乃が破顔するところを見たい。
「髪、また伸ばすから。伸ばしたら、使うから」
私がそう言うと、綾乃はもう一度目を丸くして、そして、その瞳に弾むような光を浮かべた。
「……本当に?」
「うん、本当本当。いいでしょ?」
「……うん。いいよ。全然、大歓迎」
綾乃が、すっと髪留めを差し出してくる。その顔に浮かぶのは、柔らかな、そして確かな微笑み。
その安堵の表情を見て、私も口元をほころばせる。
私はその髪留めを、綾乃の手を包み込むようにして受け取り、そして。
「楽しみに待っていてね」
と、笑う。
「うん、楽しみにしてる」
真っ暗な夜の中、綾乃は、太陽のような笑顔を浮かべて私に応えた。
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