第2話 変わる日常と、落とし物の髪留め

「え、ツカサどうしたのその髪!?」


 夏休み明けて登校初日、親友の太刀川綾乃が、私を見るやいなや目を丸くしてそう言った。


 その声は大きく、なんなら身振り手振りがついた驚き方で、彼女が背負ったまん丸いリュックが、彼女に追従して揺れる。


「どうしたのって、切ったのよ」

「いやそれは見たらわかるけど……いや……ええ?」


 残暑の日差しに照らされた綾乃は、そのくせっ毛を指先で弄びながら、もにょもにょと口を動かす。


「どうしたの?」


 その所作に何か言いたげな感を察した私が問うと、綾乃が少しの間逡巡したあと、意を決したように口を開いた。


「……どうしたのっていうか、なんで切ったの?」

「なんで、って言われてもねえ」


 その問いは、否応なしにあの日の記憶と感情を思い出してしまう。


 その感情が、私にありのままの言葉を紡ぐのを踏みとどまらせた。


「……気分?」

「……気分て」


 綾乃が訝しげに私を見つめる。間違いなく疑っている視線だ。


「……本当に?」


 その問いは、質問というよりは尋問に近い。私に嘘をつくなよ、と言った類のものだ。


 しばしの間、歩きながら私は思案し、答えを出す。


 終わってしまったくだらない話と、これからも付き合うことになる友人との関係。


 どちらが重いかと言われれば、それは間違いなく後者。


「ごめん嘘」


 という切り口で、私はあの日のこと、髪を切るに至った経緯を綾乃に説明する。


「……というわけ。まあ、失恋したからってことよ」

「…………それはまあ、ご愁傷様というか、なんというか……」


 綾乃は何とも説明し難い表情を浮かべたあと、眉を険しくする。


「っていうか! なんだそのクソ男! 二股の時点でサイッテーだし、彼女にバレたらツカサに責任転嫁ってありえないでしょ!」


 顔を赤くして憤る綾乃。その怒気は、私を思ってくれているからこそ。


 あの日、真っ先にこの子に相談すれば良かったな、と今更ながらに思う。


「ま、そんな馬鹿に引っかかる私も私だよね」


 私がそう淡白に言うと、綾乃は渋い表情を浮かべて私を見る。


「ん、どしたん」

「それを言われると、こっちとしては色々と言いにくいっていうか……」


 彼女の言葉に、私はおかしくなって口元をほころばせる。


「あはは、そういうことか。いいよ、こっちは全然気にしてないし」

「……そう? ならいいんだけど……いや良くない!」


 綾乃は笑って流そうとしたが、鼻息荒くそう言い放った。


「なんで?」

「なんでって、そりゃあ、ツカサの髪がさ……もにょもにょ」


 綾乃の言葉は、終わりに近づくにつれて語調・語気ともに弱まっていった。私の髪が何だろうかと思うも、まあいいか、と流しておく。


「髪、ねえ。また生えてくるって」

「そ、そう? なら……いいんだけど……」


 いいのか。


 ま、伸ばすかどうかはさておき。

 人生で初めて短い髪型にしたからわかったのだが、これ、かなり楽である。なんならこのままの路線で突き進みそうだ。


「それに、これも楽だしね」


 私が肩口で毛先を弄ぶと、綾乃は「そっか……楽か……」と呟く。


「いくら楽でも、あれだけ綺麗に伸ばしてたんだから、もったいない気もするけどね」


 歩きながら、私の隣で綾乃がぽつりと漏らした。


                 ○


 登校しても、色んなクラスメイトから、『どうして髪を切ったのか』、という質問責めにあった。


『うるせー!』


 と叫びたくなるけれど、そうしたら最後クラス内での人権が消し飛びそうなので、我慢する。


 とは言え、質問の度に理由を逐一説明するのは面倒なので、『失恋』という短い答えで追い返した。


 その結果、私が髪を切ったこととその理由は、クラス全体が知ることとなった。


 ……まあ、いいけどさあ。


 私は意識していなかったのだが、私が髪を切るのはそんなに珍しいことだったらしい。まあ、綾乃も驚いていたし。


 確かに、今まで生きてきてほとんど髪を切ったことのないレベルの長髪を持つ人間が、夏休み明けて突然短髪になっていたら、驚くに決まっている。っていうか、絶対何かあったんだろうなって思う。


 まあ、私自身は放って置いて欲しいのだが。他人はそんなことおかまいなしなのだ。


「……疲れた」


 放課後。ホームルームを終えてクラスメイトたちが教室を出て行く中、私は机に突っ伏して深くため息をついた。


「あはは、お疲れ様」


 綾乃が膨らんだ鞄を肩に背負って、私の肩をぽんぽんと叩く。


「何もしてないのに有名人になった気分よ」

「いや髪切ったからでしょ」

「わかってるけど、誰だって髪ぐらい切るじゃない。……いや、なんで私が注目されてるのかもわかってるけど」


 本当、面倒なことになっちゃったなあ、と私は心中でため息をつく。一時の感情に任せた衝動的な行動が、約一ヶ月後の今日、こうも私生活をややこしくするとは予想していなかった。


「だね。ま、ちょっとしたらみんな慣れるってば」

「……そうなることを祈ってるわ」


 ぐったりとして私が返すと、綾乃はまた笑った。


「じゃあ、私部活あるから、またね」

「ん、また」


 綾乃が軽く手を振り、私は突っ伏した姿勢のまま手を振り返す。


 綾乃が去り、教室には私と、あとは数名の駄弁っている生徒。私は彼らの話し声をBGMにしつつ(別にしたくはないが)、しばらく休憩。


 体力と精神力が回復したところで、立ち上がる。


 教室を出ると、ほんの少し橙色に染まりつつある光が、廊下の窓から差し込んでいた。


 綾乃は、そして他の部活動員は、この光の中で思い思い好きなことをするのだろうか。まあ、嫌々部活をやっている人間もそれなりの数いるだろうけれど。


 私は、一人家に帰る。


 別に寂しいわけじゃないけれど、少しだけ、自分の生活が味気ないもののように思えた。


                 〇


 翌日。

 駅では、私と同じ制服を着た生徒がぞろぞろと降車しては改札へと流れていく。その足取りに活気というものはなく、かったるそうな雰囲気ばかりが発散されている。


 無論、私もそうだが。まるでゾンビの行進だ。


 駐輪所を借りられた人間は、駐輪所に向かい自転車を引っ張りだして颯爽と学校へ。


 そして、私のように駐輪所を借りられなかった人間は、駅から片道二十分の道を歩くことになるのだ。


 朝とはいえ、残暑は未だに健在。ちょっと歩くだけで背中とリュックの間には汗だまりが出来て、実に不快だ。


 今日は綾乃が朝練なので、ソロ登校。いつもより静かな往路は、いつもよりもずっと味気ない。


 道行く生徒たちの中には、友人グループもあれば、男女のペアもある。


 いいねえ、青春してるねえ、と男女のグループを見て思いつつ、あの日のことを思い出して小さく舌打ちをした。


 あの男のことは、別に全く惜しいとは思っていないが、それでもあの日の記憶は私の脳に焼き付いていて。


 これから先、カップルを見る度にそのことを思い出すのかと思うと、ちょっと気分が暗くなった。


 足取り重く、歩く。


 そのとき、ふと道端であるものを見つけた。


 私の視界にあるのは、マンションの花壇。


 それはマンションから歩道に面したところにあり、コンクリートで囲われている。


 そのコンクリートの上に、ぽつんと髪留めが一つ、置いてあった。


「……落とし物かな」


 私はその髪留めを見て、ぽつりと呟く。


 その髪留めは所謂バンスクリップというタイプのものだった。私も髪が長い頃に何度か使ったことがあるけれど、便利だ。


 その髪留めは、ダークブラウンを基調としながらも赤いラインが引かれており、宝石を模したきらきらとした飾りが付けられている。


 悪くはない、いやどちらかというと好きなデザインであった。


「……勿体ないな」


 と思ったことをそのまま口にする。


 さすがに拾って使うほどの野性味溢れる人間ではないので、とりあえず置いたままにしておく。誰か、持ち主が見つけてくれるといいのだけれど。


 とはいえ、ここで一つ、疑問が残る。


 その疑問とは、そもそも髪留めを落としたら気づくのではないか、ということだ。


 髪をまとめているときに落ちたら、誰だって普通に気づくだろう。


 あるいは、髪以外のところ(例えば鞄とか)に着けていたときに落ちた?


 ……その可能性は大いにあり得るけれど、落としたときの音で気づかないものだろうか。丁度、音楽を聞いていたとか?


「……わからない」


 それに、そもそもこれは落とし物なのだろうか。誰かがとりあえずここに置いているだけという可能性も、無くはない。


「ま、いいか」

 そう独りごち、私は歩き始める。


 今日の天気は晴れ。雨露にこの髪留めが濡らされないであろうことに、少し安堵した。

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