髪留めの話

眼精疲労

第1話 失恋と自傷行為

 人は酷く心が傷つくと、自らの身体を傷つける生き物だという。


 初めてその事実を知ったときは、なんて無意味なことをする生き物なのだろうか、と無感動に思った。


 そもそも、心の問題なのに体を傷つけてどうなるというのか。


 その二つは確かに繋がっているかもしれないが、しかし体を傷つけたところで心が楽になるとは到底思えないし、その逆も然り。要するに、無意味ではなかろうか。


 人間とは実に無駄なことをする動物だ、と幼い私は哀れにも思った。


 そして。


 そんな哀れな生き物に、私が成り下がるとは夢にも思っていなかった。


                 〇


 生まれてからずっと伸ばし続けた髪。それを切り捨てたのは、七月の終わり頃だった。


 誕生日を一ヶ月と少しあとに控えたその日、私は前々から気になっていた(といってもモーションは向こうがかけてきた)男子に告白されて、ちょっと舞い上がり気味にそれを受理し、そして。


 実はそいつに彼女がいたことをその数分後に知ることとなる。


『ユキ!? お前、家族旅行に行っていたはずじゃねえの!?』

『台風が来そうだから中止になったのよ!』


 というやりとりから始まった、同じ学校の男女による痴話喧嘩は一時間以上にも及び、その間私はどうすればいいのかとぼんやり立ち続け、足が疲れた。


 まさか旅行に行ったはずの彼女に、二股成立現場を目撃された動転からか、私にモーションかけてきたそいつは、信じられないことを口走った。


『そもそも俺は悪くねえ! 桐生の方から俺に言い寄ってきたんだ!』

 と。


 その言葉を聞いたとき、私の意識に空白が出来た。


 ああ、これが呆気にとられるというやつか、と後々になって理解したけれど、そのときは何が何だか、である。


 彼女の憎悪は彼氏だけでなく、私にも向いて。


 けっこうな勢いで、彼女が思いつく限りの罵詈雑言を浴びせかけられた。私は慌てて弁明を開始するも、彼女はヒートアップするばかり。


 あとのことは、覚えていない。喉を枯らすまで言葉を紡ぎ、叫び、なんとか誤解を解けて家に帰れたものの、自室に入った瞬間、崩れ落ちた。


「……なんで」


 ぽつりと漏れた、たった三文字の言葉。そこには、様々な感情が内包されていた。


 なんで、あんな男に。


 なんで、私がこんな目に。


 なんで、私は見抜けなかったのか。


 それまで、あのクソ男に注いだ感情や、作り上げてきた記憶が、音を立てて腐れ落ちていく。


 その最中、私はあの男が、私の髪の毛を執拗に褒めていたことを思い出した。


 あの男は私に言った。髪が綺麗だと。長くて、サラサラで、ツヤツヤだと。


 思い出すだけで虫唾が奔る。体を掻きむしりたくなる衝動に駆られる。


 あの男にまつわる記憶は、今や一切が忌むべきものと化していた。


 その嫌悪感が、私を急き立てる。


 浅慮といえば浅慮であろう。私はすっくと立ち上がり、ペン立てに差してあったカッターナイフを手に取る。


 カチチチ、と私の心境とは反する心地よい音を鳴らして刃が伸び、私は空いている手で自らの後ろ髪を握って束ねる。


 あとはめいっぱい、力を込めて、鋼鉄の刃でそれまで私の一部を為していた毛髪を切り捨てていく。


 思ったよりスムーズにはいかない作業。切れては刃が止まり、力を込めて再び切り進める。


 頭皮は普通に痛いし、なんなら切れた音ではない、髪が抜けた音も交わっていた。


 それでも、切り捨てる。過去との決別を告げるかのように。


 意地と憎悪と悔恨が、私を突き動かしていた。


 そんな作業をしばらく繰り返し、私は長年共に連れ歩いてきた長髪を切り捨てて、そして。


 その出来のアレ具合から、翌日美容院に駆け込むことになったのであった。


 そんなことがあり、少し時間が経過して落ち着いてから、私は無感動に思う。


 ああ、私もかつて読んだ哀れな生き物と化したのだなあ、と。

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