あの日の僕の忘れ物

黒百合日向

あの日の僕の忘れ物

今井晴明いまい はるあきは夢を見ていた。三年程前の記憶。所謂、追体験と言うやつだ。

「ハルは、勝手な人だね」

そう言って扉に手を掛ける彼女は、泉結衣いずみ ゆい。この日に別れた、元カノである。

この日、彼女が他に何を言ったのか、思い出せない。酷く曖昧な記憶だが、別れは割とすんなり進んだように思える。

最後に、結衣が出ていくとき、扉の閉まる音がやけに大きく聞こえた。

バタン

晴明は目を覚ますと、時計の針が十時を指しているのに気付く。

寝過ごした。と晴明は思った。幸いにして今日は土曜日。学校もバイトも丸一日休みである。

だが、やることが無い。

晴明は特にこれといった趣味がない。さてどうしたものかと布団の中で思案していると、不意に枕元のスマホが鳴った。

「もしもし?」

「おう起きてたか。オレオレ。今暇?」

出てみれば、粗野な口調の男の声がした。高校からの友人、持田光良もちだ てるよしである。

「今からお前ん家行って良いか?」

「なんで?」

「なんか美味いもん食わせて」

大学生で一人暮らしの晴明だが、彼の実家は定食屋だ。幼少期から料理に慣れ親しんできた晴明は、一人暮らしでも自炊に困らない。

光良はそれを知っているので、高校を卒業して違う大学に通うようになっても度々晴明にタカりに来るのだ。

「はぁ、何が食いたいんだ?」

「何でも良いから美味いヤツ」

予想通りの答えにため息をさらに一つ。同時に、晴明は彼女のことを思い出していた。

__付き合いだして一年も経つと、次第に結衣は晴明の家に遊びに行くようになった。

「へぇ、ハルのお家ってご飯屋さんなんだね」

また一つ君のことが知れた。と結衣は楽しげに笑う。

「じゃあさ、ハルも何か作れたりするの?」

好奇心に満ちた瞳は何よりも雄弁だ。もっと君のことが知りたい。

「味は保証しないけどね」

「ハルが作るんだもん、絶対美味しいよ!」

輝く笑顔につられて晴明も笑う。

その時から、週末には結衣がリクエストしたものを晴明が作る。そんな習慣が出来ていた。

晴明が「何が食いたい?」と聞けば、結衣が「美味しいの!」と答える。そのやり取りが、晴明にはとても楽しいものだった。

だからこそ、別れたことに対する後悔が、泥のように纏わり付く。あの時、どうすれば良かったのか……

「んじゃあ少ししたらそっち向かうわ」

と、ここで光良の声で我に返る。危うく呑まれるところだった。

通話が切れる。

冷蔵庫を覗くと、中には人参、玉ねぎ、じゃがいも、豚肉、昨日の残りのトンカツ半分。別の収納にはカレー粉など。

「……カレー一択だな」

光良に食わせた後自分はカツカレーにしよう。晴明はそう決意した。

メニューを決めるやいなやすぐさま準備に取り掛かる。寝起きとは思えぬ手際で、作業を進めていた。

数十分後、粗方作業が片付いたところで玄関のチャイムが来客を報せた。

「(光良か、随分早いな)はーい、どうぞ」

扉を開けると、そこに居たのは光良ではなかった。

「やあ、久し振り」

泉結衣の兄、泉京介いずみ きょうすけだ。

「元気にしてた?」

晴明は彼とも中が良かったが、結衣と別れたことで疎遠になってしまった。

「……お久し振りです、京介さん。元気ですよ。京介さんもお元気そうで何よりです」

晴明はもう会うことの無いだろうと思っていた京介との再会に、驚きを隠せずにいた。

そこで、京介は晴明がエプロン姿であることに気付く。

「もしかして、邪魔しちゃった? ごめんね、急に来ちゃって、また出直すね」

申し訳なさそうに立ち去ろうとするが、晴明はそれを引き止める。

「もう殆ど終わってるので、大丈夫ですよ。良かったら、京介さんも食べていきませんか? 今カレー作っているんです」

そう言って京介を招き入れる。

「本当? じゃあ、お邪魔させてもらおうかな」

ふにゃり、と緩んだ笑みを浮かべる。輝くような笑顔を見せる結衣とは違い、相変わらず似てないのか、と晴明は思った。

数分後、完成したカレーと共に、二人はテーブルで向かい合う。

「やっぱり、晴明くんの作る料理は美味しいね」

京介は頬を綻ばせて言う。

「大した物じゃありませんよ」

つられて晴明も頬を緩める。

「アイツも、勿体ない」

「……俺が愚かだった結果ですよ。彼女に非はありません」

本当に似てない兄妹だと思った。

彼女との関係を続けるには不可欠と思い込んで料理を作り続けた。そしていつしか重圧になり、苦痛となった。

彼女もそれに気付いていたのだろう。

「そっか……」

京介は、それから出て行くまで何も言わなかった。入れ違いで光良がやってきた。

光良のカレーにはカツが乗っていた。


京介の訪問から一週間、晴明の家にはまた珍しい客が来ていた。

「相変わらず、サッパリしてるね。君の部屋は」

珍客は、部屋をキョロキョロと見回してそう言った。

「人間そう簡単に変わらないからねぇ」

晴明は苦笑して答える。

「……元気そうだね、ハル」

珍客__泉結衣はあの時と変わらない、張りのある声で言う。

「そっちもね」

晴明は努めて平静な口調で返す。

「何か食べて来た?」

時刻は昼過ぎなので、既に何かを食べていても不思議では無いのだが、結衣は首を横に振り、

「久し振りにハルのご飯が食べたいな」

そう言って笑う。かつてのように、また晴明の料理が食べたいと。

「……分かった。何が食いたい?」

「何か美味しいの」

懐かしいやり取り。晴明は今にも涙が出そうなのを隠すように冷蔵庫に向かう。

「……オムライスだな」

晴明は呟く。これしか無いと思った。結衣に初めて振舞ったのもオムライスだったからだ。

十数分後、出来上がったオムライスと共に、向かい合ってテーブルに向かい合って座る。

「「……」」

二人は無言で食べ続ける。数分も経てば、すっかり二人とも完食していた。

「ふぅ、ご馳走様でした。ねぇ、腕上げたでしょ」

満足気に、懐かしげに目を細めながら問いかける。

「あぁ、経た年月というものがありますからねぇ」

ドヤ顔で答える。二人は堪らず吹き出して、数分ほど笑い合った。晴明は久しぶりに心から笑ったような気がした。ひとしきり笑ったところで、晴明は結衣に向き直る。つられて結衣も居住まいを正す。

「あの日、君と別れてから、ずっと考えてきた」

伝えたい事、言えなかった事、抱え続けてきた、後悔の泥。涙を流しながらそれを伝える晴明の姿は、罪を懺悔する咎人のようだった。

「そう、だったんだ……」

結衣はそれを聞き終えると、寂しげな顔で、

「ハルは、変わったよね」

その瞳は濡れていた。

「そんなことは無い。俺も、君も、何も変わっちゃいない」

晴明はそう返す。本当に自分は何も変わっていない。結衣も、変わっていない。そう思うからこそ、

「結衣、変わらないでくれ、そのままの君で、幸せになってくれ」

気が付けば口をついて出ていた。結衣は驚いたような顔で、でもすぐに泣きそうな顔になって、

「ハルは、やっぱり勝手な人だね」

涙で頬を濡らして、それでも気丈に、

「ハルも、幸せになってね。変わらない、ありのままの君で」

そっくりなことを、とびきりの笑顔で、悲しい、それでもどこか晴れやかな顔で。

「さようなら、ハル」

結衣は返事も待たずに行ってしまった。扉の閉まる音が、玄関に優しく響いた。

パタン、と。

一人だけになった家の中、晴明は食器を片付けていた。黙々と作業を進めていると、光良がやってきて、

「よう晴明。さっき女の人が出ていくの見たぞ。彼女?」

ニヤニヤと問い詰めてくる光良に苦笑して、晴明は答える。

「赤の他人だよ。忘れ物を、届けに来てくれたんだ」

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