海、喜び
波に揺られて船は進んだ。
気持ちの良い潮風が藍の髪を撫でた。
船首から島を探す彼女の横で、仁志は難しそうな地図とにらめっこしている。
「もうすぐ見えてくるはずなんだけどなあ……」
彼は一時間ほど前から頭を悩ませていた。衛星から送られてきた写真の情報だと、このあたりの海域にポツンと未開の島があるという。ただその島の周りは一面の海で何十キロも陸地がないため、探すのが大変なのだ。
一方の藍はそんなことは気にしていなかった。こうして潮風を全身に受け、海の上にいるということが気持ちよかった。
遠くで何かが跳ねた。藍は目を凝らしてそちらの方を見た。
海面をバシャバシャと白い波を立てて、何かが跳んでいる。
「仁志君、あれなんだろう? 行ってみようよ」
「どれどれ……あれは多分イルカだね。島も見つからないし、ちょっと見に行くか」
船は舵をきり、大きく進行方向を変えた。
次第に白波が近付いてくる。
大きなイルカの群れだった。何百頭ものイルカたちがあちらこちらで跳び上がった。
「うわあ。すごい迫力!」
「こんなに大きい群れ、珍しいよ!」
夢のような景色に藍はすっかりと心を奪われた。
「島が見えるぞー!」
船員の声で藍は我に返った。
遠くの方、真っ青な海と晴れ割れたる空の間、水平線に小さな黒い粒があった。
あれが島なのだろうか。船はまたも大きく旋回し、島の方へと向きを変えた。
その黒い粒は徐々に大きくなっていき、しっかり島だと視認できるようになった。
「やった! とうとう見つけたぞ!」
大声で叫んだ仁志はイルカのように跳ね上がり、不思議なダンスを踊った。
頬を紅潮させた彼の目には島しか映っていないようだ。
船は島の近くに錨を降ろし、藍たちは小舟に乗って砂浜に上陸した。
島は思ったより広く、本島の周りには三つの小島が隣接していた。
島はしっかり回れば、一日では回りきれないぐらいの大きさだった。
久しぶりに降り立った陸地に藍は安心した。
彼女は砂浜にあった岩場を覗き込んで、リュックからルーペを取り出した。
「こんな生物、初めて見た……」
彼女はピンセットで、ヤドカリのような生物をつまみ上げ、ポケットから取り出した小さな容器にそれを入れた。
仁志は計測道具を船から降ろしている。
次に藍は近くに生えていた木を上から下までじっくりと見た。
「何だろうこの木……。ヤシの仲間?」
彼女はまたピンセットを取り出し、サンプルを採集した。
船から物資を降ろしたところで探検隊は島の探索を開始した。
それぞれが猛獣用ライフルを構え、生い茂る木々の中を縫って歩いた。
獣道があり、島の探索は比較的スムーズに進んだ。
あちこちに見たことのない生物が生活しているのを見て、藍の心は踊った。
一行は開けた場所へ出た。
「な、なんだこれは……」
先頭を歩いていた隊員が足を止めた。
そこには木と植物で作られた住居のようなものがあった。広場の中心には木彫りの彫像が立っており、その周りが石で囲まれている。その場所で火を起こしたような跡があった。
「人がいるのか……?」
仁志の言葉が隊員たちを凍り付かせた。
「文明から離れた民族がいるかもしれない」
隊員たちがライフルを持った手に力を込めた。
その時、住居の後ろから数人の人間が飛び出した。
黒い肌に高い鼻を持つ人々だった。草でできたスカートのような服を着ている。
手には弓を構え、姿勢を低くしてこちらを警戒している。
「銃を下げろ。彼らを刺激してはだめだ。できるだけゆっくりと動け」
仁志が落ち着いた声で言うと、隊員たちは静かに武器を降ろした。
藍たちの横の生い茂る草むらからも次々と武器を構えた人々が出てきた。
完全に周りを包囲されているようだ。
彼らは異邦人に対してかなり警戒心を備えていた。
ふと藍の目にあるものがとまった。彼らの首に下げられた首飾りだ。
藍は自分の首に掛かけられたものと、彼らの首のものとを見比べた。
彼らの首に掛かった首飾りは、藍のものと同じく緑の石でできたものだった。
それぞれが違う形の石を付けていた。だが中には数人でお揃いのものをつけている者たちもいた。
藍はお守りを持ち上げて、彼らに見せた。
彼らはお守りを見て驚嘆の声を漏らした。
心が通じ合ったかと思ったとき、彼らの関心は藍の背後に向けられた。
藍達の後ろで茂みがガサゴソと音を立てた。
心臓が破裂しそうだった。この部族の王でも出てくるのだろうか。
「後ろを振り向くな。銃を近くに置け」
背後から聞こえた流暢な日本語に、全ての隊員が耳を疑い、目を合わせた。
今、日本語が聞こえたような気がしなかったか?
彼らの目はそう語っていた。
「もう一度言う。その場に銃を置け」
仁志が静かに銃を置き、他の隊員がそれに続いた。
周りにいた人々が銃を素早く回収した。
「君たちはここへ何しに来たのかね?」
背後から現れた男はそう言って、藍達の目の前に回った。
彼の肌は他の民族と違う色をしていた。日焼けはしていたが、どちらかというと藍たち日本人に近い。
男は民族の人々と同じ服装をしていた。彼の口はぼおぼおに生やした髭で隠されており、白髪の交じった髪もボサボサだった。
様子からして、還暦は通り過ぎているだろう。
男がパッとこちらを見た瞬間、藍の目と男の目がばっちりと合った。
その目を見て、藍はそれが誰なのかすぐにわかった。
懐かしいシルエットに優しい声。大きな体に、夢を見続けるその瞳。
そして首にかけられた緑の石は、藍のものと同じ形をしていた。
藍の目を見て、男の表情が変わった。
「そんな……まさか、藍……。藍なのか……?」
気付けば藍は駆けだしていた。
藍は父の胸の中に飛び込み、思いきり泣いた。
お父さん……ずっと、ずっと会いたかった。
生きていて良かった……。本当に良かった……。
銃を捨てた隊員と、弓を降ろした人々に囲まれて、親子はいつまでも抱き合っていた。
父の目から涙が流れ落ちた。
その涙は藍のお守りの上に落ちた。
*****
僕が彼女の目から流れ出たあの日より、三十年の月日が過ぎ去っていた。
大切な人とはどんなに離れていても、心は通じ合っているのだ。
人々は繫がっている。
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