追憶、奇跡

 藍と彼女の父、浩二は並んで実家への道を歩いていた。

 浩二は髭を剃り、髪型も整えて三十年前と同じような容姿になった。

 ただ顔に刻まれた皺は流れ去った月日を語っている。


「緊張する。お母さんに会うのいつぶりだろう」

「ほんとにいつぶりだろうね」

「三十年だもんな……どれだけ辛い思いをさせてしまったことか。本当に申し訳ない……。ところで、お母さんに私のことは伝えてあるよね?」


 藍はドキッとした表情を浮かべた。


「ま、まだ」

「ええっ!」


 浩二は顔を青くし、足を止めた。


「なんで伝えてないの? 突然私が現れたら心の準備ができないだろう。私だってまだ信じられないというのに」


 藍は浩二の手を引いて歩き出す。


「大丈夫だって。多分、お母さんはずっとお父さんのことを待っていたはず。きっと許してくれるよ」

「そうかな……会った途端に怒られたら嫌だなあ」


 彼は今にも震えだしそうな様子で言う。

 本当に心配しているようだ。


「そんな心配することないって。お父さんがいなくなってから、お母さんに再婚の機会があったんだよ」


 浩二の顔が強張った。


「お母さん、他の人と結婚したのか?」


 浩二は必死な顔で、今にも飛び掛からんばかりにそう聞いた。


「いや、それがお母さん、断わったんだよ。いい人そうだったけど私には浩二さんがいるからって」

「そうなのか……」

「だからお母さん、きっと喜ぶから。そうだ心配ならお父さんが過ごした三十年を話してよ。そしたら気が紛れるって」


 浩二は空を仰いで、それから深呼吸をした。


「そうだな。そうしよう。私はあの時、波に連れられた後だな――」



 *****



 浩二は藍を船室に投げ入れると同時に、波に飲まれて大海原へと投げ出された。

 水の中で必死にもがき、どうにかして顔を上げると船は随分と離れたところに浮いていた。


「藍! 今、戻るぞ!」


 彼の声は雷の轟音にかき消された。

 彼は必死に泳いだ。取れてしまいそうなぐらいにその腕を振り回した。

 だがしかし、どんなに全力で泳いでも、どんなに水をかき分けても、船との距離は刻々と離されていくばかりだった。

 船が視界から消えても彼は泳ぎ続けた。

 しばらくして、遂に腕に力が入らなくなった。

 彼は自分の死が来たのだと考え、泳ぐのを止めた。ここで死ぬのか……。愛する娘が一人、大洋の中さまよっているのをどうすることもできずに、私はここで沈むのだろうか。


 自分の家族、愛する妻と藍。

 彼の目の前で大切な思い出が走馬灯のように流れた。

 こんなこともあったけなあ。あの時は大変だったなあ。

 でも、全部良い思い出だったな……。


 彼は波の音を聞きながら目を閉じた。


 思いがけず顔面に激しい衝撃が走った。

 神様に「死ぬのでない」とビンタされたのかと思った。

 彼の顔に当たったのはブイだった。

 浩二が流されたとき、一緒に船の上から落ちたのだ。

 浩二はブイに抱きついた。ブイは彼の体重を支えて海面に力強く浮き上がる。

 ブイから離れまいと必死でいるうちに彼の意識は遠のいていった。




 目が覚めると、彼は敷き詰められた草の上に寝転んでいた。

 そこは小さな小屋だった。体を起こすと目の前に色の黒い老人が座っていた。とても鼻が高く彫りの深い人だ。

 彼は鍋のようなものから、木の器へとスープをよそって彼に渡した。


 死ぬほど腹が減っていた彼は器を受け取ると、あっという間にスープをたいらげてしまった。

 独特な味がしたが、生きているうちで一番美味しく感じる食事だった。

 老人は食事に食らいつく彼を静かに見守っていた。

 浩二はおかわりが欲しくて老人に話しかけた。

 そこで彼らと言葉が通じないことに気が付いた。


 英語や他の外国語で言える単語を片っ端から口に出したが、彼はどのときもぽかんとしており、浩二が思いつくこと全て全てを言い終えると、老人は聞いたこともない言葉を発したのだった。

 浩二は最初の頃、パニックに陥り絶望を感じていたが、ある時から自分は赤ん坊に生まれ変わったのだと考えるようにした。この島の生活やしきたり、言語について全く無知な赤ん坊なのだと。

 浩二は見よう見まねで彼らの生活へ順応しようと心がけた。

 彼らの話す言葉から単語を探しだし、それらを使って新しい言葉を学んでいった。

 いつの間にか浩二の体に彼ら民族の生活は浸透していった。

 狩猟を学び、釣りを学び、礼儀を学んだ。

 そのうち島の全貌も頭に入ってきた。同時に彼は絶望に包まれた。

 ここは文明に知られていない、大洋に浮かぶ小さな小さな島であるとわかったのだった。


 浩二は生活に余裕ができ、彼らとの会話もうまくなった。

 彼らは浩二が浜辺に流れ着いていたのを発見し、助けたのだと説明した。

 浩二は海の向こうに広がる世界について彼らに語った。

 ただし文明を説明するのに使えるものといえば、流れ着いたときに着ていた服と身につけていた腕時計ぐらいだった。

 彼らは終始、信じられないという顔で話を聞いていた。


 ボタンひとつで点る照明、映像が送られてくる小さな箱、人を乗せて動く乗り物。

 彼らにそれを説明するのはとても難しかった。映像と言ってもそれは何だと言う質問が浴びせられた。実物を見せずに想像しろと言っても難しい。


 彼ら民族は純粋な心を持っていた。特に想像力豊かな子どもたちは海の向こうの話を聞かせてくれ、とよく頼んできた。


 こうして浩二は島で歳を重ねていった。

 浩二は現代の知識を使い、作ることのできるものは作ってみた。

 土を固めて様式トイレを作ってみたり、知っている紐の結び方を使ったりして彼らの生活の発展に貢献していった。

 ある日、彼はお守りのことを思い出し、緑の石を探してくるとそれを彫って藍にあげたものと同じお守りを作った。

 するとそれを見た村人達に、自分たちにも作って欲しいとお願いされた。彼は様々な形のお守りを人々に作り、カップルや家族にはお揃いのお守りを作ってあげた。


 年が経つにつれ、浩二は島の皆から愛される長老的存在になった。

 皆が彼と話したがり、彼も人々との生活を楽しんだ。


 だが彼は欠かさずにやっていることがひとつあった。

 日付を岩に刻みつけ、それを数えていくことだった。毎週日曜の夕方には打ち上げられた砂浜に行って夕陽を眺めた。そうすると、自然と涙が流れてくるのだった。海の向こうでの記憶が戻ってくる時間だった。

 時々、大人になった藍を想像してみた。

 年を取った妻と散歩をしている夢を見た。

 全てが叶わないと考えざるを得ない状況でも、彼はあるはずだったもう一つの人生を見続けた。



 遂にその日が来た。

 彼が若者達に狩猟を教えていると、砂浜に変なものが泊まっていると騒ぎが起こった。

 彼が現場に行ってみると、一隻の船が泊まっていた。

 更にその船体には日本語が書かれていた。


 彼は侵略者の攻撃を危惧し、村人達に隠れて警戒するよう伝えた。

 彼は浜辺に乗り上げた小船を少し調べて、そこから銃の弾薬をいくつか見つけると急いで村へと走った。


 まずい! 彼らに危害が与えられる前に止めなくては!


 彼は走った。草木をかき分け村へと走った。

 広場では村人たちが探検家を包囲していた。

 私は向こうを向いた探検家たちに武器を捨てさせ、何を目的に来たか問うため、彼らの前に歩み出た。

 そして探検家の中に藍を見つけたのだった。



 *****



「……だいたいこんなものだよ。その後、あの島は政府が伝統を尊重しつつ、コミュニケーションを取っていくことになったと聞いた」


 藍は頷くことしか出来なかった。

 壮大な話だった。色々なものが頭の中でつながり、父の苦労が伝わってきた。


 二人は実家の前に辿り着いた。

 浩二はドアに手をかけ、動きを止めた。


「本当に良いのかな?」


 こちらを向いて不安げな色を見せる浩二に向かって、藍は自信たっぷりに頷いた。


「私が先に入るから、お父さんは着いてきて」


 藍はドアに手をかけそれを開けた。


「お母さん。帰ったよ」

「あら、藍ちゃんお帰り」


 家の奥から懐かしい声が聞こえ、浩二は視界が滲むのを感じた。

 藍が靴を脱いで入っていき、彼も後に続いた。

 お母さんは台所で野菜を洗っていた。


「久しぶりじゃない。旅はどうだったの?」


 背を向けたまま、母は言った。


「うん。とても良い旅立ったよ。ところで……」


 藍は咳払いした。


「お母さんに会わせたい人がいるんだ」

「会わせたい人……?」


 お母さんは何気なくこちらを振り返った。

 藍の後ろに懐かしい人が立っていた。


 浩二のことを見て、お母さんは固まった。

 表情が一変し、どこを見ているのかわからないような顔になった。

 彼女の手から一本の人参がするりと抜け落ちると音を立てて地面に転がった。


「ただいま……。今、帰ったよ。誠子さん」


 誠子はよろけるようにして、彼の元へ歩み寄ると彼の顔にそっと触れた。まるで、神様のような神聖な何かに触れるように。

 浩二が優しい笑顔を浮かべると、彼女は腕を彼の体に巻き付け、顔を彼の胸に埋めて泣いた。

 浩二はそっと彼女の背中に手を回した。

 二人は台所で抱き合っていた。母の後ろから見ていた藍は、世界一美しい抱擁だと思った。


「浩二君、会いたかった。ずっと、ずっと会いたかった……」



 藍は母の肩に顔を乗せる父に向かって、親指を立てた。

 父は滝のような涙を流しながら、和やかな表情で何度も何度も頷いた。




 家族の脇で、開きっぱなしの蛇口からは水が流れ続けていた。



 *****



 僕はその時、世界一の幸せを感じている家族を見た。

 なくなってしまったから、気付く幸せがある。

 愛する妻、愛する夫、皆が揃った家族。

 この部屋にいる全員が幸せのみに浸っていた瞬間だった。



 ところで僕はふと気が付いたのだが、藍はこのことに気付いているのだろうか。

 お互いのことをさん付け、君付けで呼ぶ夫婦がこんなにも近くにいたということに。

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