カフェ、時間

 落ち着いた音楽が流れる中、マスターは一心にカップを磨いていた。

 相変わらず黒縁眼鏡をかけ、口の周りを囲んだ黒い髭を生やしている彼の髪には白髪が交じり、月日の経過を表していた。

 依然としてお客さんの姿は見えないが天井は先月改修されたため、雨もり用のバケツが店内のあちこちにある風景を見ることはなくなった。

 しとしと降る雨の中、二つの傘が店の前にやってきた。

 入り口ドアが開き、ベルが来客を知らせる。

 マスターが顔を上げると、笑顔の藍がドアから顔を覗かせていた。明るいワンピースを着ている。その後ろには仁志の姿もある。

 二人は並べて傘を立て、藍は右から二番目のスツールに、仁志はその隣で中央に座った。


「マスター、ブラックで」

「俺はカフェラテで」

「今日は二人お揃いで」


 マスターはコップを置いて静かに微笑んだ。


「そうなの。マスター見て。じゃーん」


 彼女は左手をマスターに見せた。

 その薬指には指輪がはめられており、仁志の指にも同じ物があった。


「おめでとう。やはり二人は運命の糸で繫がっているんだねえ……」


 マスターはコーヒーを淹れながらしみじみと言った。


「いやあ、それにしても時が経つのは早いものだねえ。藍ちゃんも大きくなったなあ。ついこの前まであんなに小さかったのに」

「マスター、ついこの前って私が小学生の時でしょ。あれからもう二十年以上経ってるんだよ」

「二十年か……。いつの間にそんなに経ったんだろう。毎日はゆっくりすぎているように感じるのに、時はあっという間に過ぎてしまう」


 マスターは二人に飲み物を出すと、再びカップを手に取りそれを丁寧に拭き始めた。


「改めてお二人がこう並ぶと、浩二さんがいた頃のことを思い出すなあ」


 マスターはどこか遠いところを見るような目でそう言った。


「藍ちゃんはその席に、浩二さんは仁志さんの席にいつも座っていたっけなあ」

「藍さんのお父さんもここにいらしてたんですね」

「そうそう。私、小学生の頃からお父さんに連れられてこのお店に来てたんだよね」

「仁志さんの雰囲気がどことなく浩二さんと重なるもんでね。仁志君はどんな仕事をしているのかな?」

「俺はいわゆる探検家をやってます。資金をもらって未知の島とかを探索し、それについて本を書いているんです」

「ほう、探検家か……どうりで浩二さんと共通する部分があるわけだ。彼も冒険が好きだったからねえ。仁志君、きっと浩二さんとは気が合うよ」


 マスターは仁志の顔を見て、次に藍の顔を見た。


「そういえば二人はさん付け、君付けで呼び合うんだね。今の時代珍しいんじゃない?」


 二人は目を合わせた。


「実はお付き合いを始めたときから呼び方を変えられなくて……いつかはさんとか君とか付けなくなるかと思っていたんだけど、もうこれに落ち着いちゃったの」

「そういうことなのか……二人には親しき仲にも礼儀あり、という言葉がぴったりだね。良いことだ」


 藍はコーヒーを一口飲んで何か思い出したようにそれを置いた。


「そういえば、私たち今度、旅に出るの!」

「ほう、旅。どこへ?」


 彼女は笑顔を浮かべ、仁志と目を合わせた。

 それから彼女は声をひそめた。


「それが、今度の旅は冒険なの……! 仁志君が未知の島に連れて行ってくれるって」

「冒険、ですか」


 マスターは眼鏡を通して小さな藍を見ていた。

 父に冒険へ連れて行ってもらえると喜んでいた小さな藍。


「時間は経っても、やっぱり藍ちゃんは藍ちゃんなんだねえ」


 マスターは皺を寄せて笑顔を浮かべた。

 藍は胸にかかった緑のお守りに触れ、静かに目を閉じた。



 仁志のカフェラテからはもう、湯気が立っていない。

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