公園、犬

 公園の前を犬が歩いていた。

 冷たい風が吹いて犬は身震いした。春がすぐそこまで来ているので外は比較的暖かくなってきたが、それでもまだ寒い日と温かい日が繰り返されている。


「ほらリョウ、そっち行ったらダメよ」


 犬の首輪に繋げられた紐を持って後ろを着いていくのは、温かいダウンジャケットを着た藍だ。

 犬はウロウロした後に近くに立っていた電柱の元へ寄っていくと、片足を上げた。

 犬が用を済ませるのを待ってると、公園から綺麗な音色が流れてきた。

 心地の良い、優しさを音にしたようなメロディー。


「リョウ、あの音楽の聞こえる方に行ってみよう」


 藍は犬を連れて公園に足を踏み入れた。

 柔らかなギターの音色だった。藍は音の元を探して公園を見渡す。だが公園に人の姿はない。誰も座っていないベンチ、ひとけのない砂場、その横に動かないブランコが二つ。

 もう一つ目に入るものがあった。それは公園の奥にある大きな木だ。

 幹は大人が手をまわしても届かなそうなほど太い。どうやら音は木の方から聞こえてきているようだ。

 藍は音楽に引きつけられるように大木へと足を運んだ。


 木の裏には宗信が座っていた。黒いコートを着た姿でギター片手に歌っていた。

 藍は横に立つと、静かに彼の歌声に聞き入った。

 時間を忘れさせるようなその音に藍は心を奪われた。

 

 宗信は一曲演奏し終えて、ようやく横に立つ藍に気が付いた。


「うわっ、びっくりした! いつからいたの?」


 藍は犬と顔を合わせてそれから彼に笑顔を向けた。


「ちょっと前から、それにしても綺麗な曲ねー。これが岡田君の作った曲?」

「うん、ありがとう。これは最新の曲なんだ」

「とっても温かい気持ちになれる曲だった。他にも曲はあるの?」

「ああ、まだまだあるよ。聞いてもらえるかな?」

「もちろん!」


 宗信は手をついて立ち上がり、ギターを構えた。

 彼が弦に触れると二人を包む空気が変わった。そこだけに違う世界が生まれた。

 藍は目をつぶってじっと音を聞き、宗信は藍に歌いかけた。



 数曲を披露し終えて、宗信はお辞儀をした。


「こんなに真剣に聞いてくれたの、今までで君が初めてだよ」

「そうなの!? 綺麗な曲ばかりなのに……。きっと、世界中に岡田君の曲を求めている人達がいるはずだよ」


 宗信は恥ずかしそうに笑って頭をかいた。


「いやあ、そう言ってもらえて本当に嬉しいよ。一人でも綺麗だと思ってくれる人がいるのであれば、その曲に価値はあると思うんだ」


 彼はまたギターを構え直した。


「じゃあ、最後にもう一曲。北島さん、君のために作った曲です。聞いてください『憧れ』」


 演奏が始まった途端、藍の全身に鳥肌が立った。

 演奏をしているときの彼は普段の彼と別人のようだった。素人の藍でも彼の持つ音楽への愛、そして一音一音へ込められた気持ちが伝わってきた。

 音楽を奏でているときの彼は神々しく輝いていた。


 宗信が歌い終えてギターを降ろすと、藍は自然と拍手をしていた。


「すごい! 本当にすごいよ。私、感動した」


 藍は手を叩くのをしばらく止めなかった。

 宗信も拍手に対して何度も深くおじぎをした。


「実は最近、音楽への気持ちが弱まりつつあったんだ。色々と葛藤があって……。でも、北島さんのおかげで、自分の音楽への思いがはっきりと思い出せたよ」

「私、応援してるよ!」


 宗信の胸に温かいものが湧き上がってきた。

 ずっと前から、同じクラスになったときから、彼は北島藍のことが好きだった。

 既に二人とも進路は決まったし、もうすぐ別れの季節はやってきてしまう。この気持ちを伝えるとしたら今が最後だ。

 彼は大きく息を吸った。


「あの、北島さん!」


 突然の改まった雰囲気に、藍は少し驚いた顔をした。


「ず、ずっと前から……」


 伝えたい。この気持ちを北島さんに伝えたい。

 言葉は喉まで上がって来ていた。だがその先まで出てこない。あとちょっとなのに。


「ずっと前から……?」


 藍の純粋な目に見つめられて、宗信は固まった。

 

 束の間の沈黙。


「す、ずっと前から、音楽が大好きなんだ!」


 やっと出てきた言葉はそれだった。気が動転して訳がわからなくなってしまった。


「お、俺はバンド組んで、最高の音楽を作るよ!」

「うん! 私、応援してる! ライブとかやったら見に行くよ!」


 嬉しかった。自分に対する彼女の気持ちが優しかった。だがそれと同時に自分の想いを伝えられなかった悲しみが沸き起こった。


「この先、北島さんとどんなに離れてしまっても、北島さんに届くような曲を作るから、それまで待ってて!」


 何とか彼女に気持ちを伝えようとして、言えたのはこの言葉だった。


「わかった!」


 犬が公園の外へと走り出し、藍の握っていた紐が引っ張られた。

 藍は犬に引きずられていくように歩き始めた。


「リョウが行きたがってる。またね、岡田君!」


 手を振りながら走り去っていく藍を、見つめる彼の視線はどこまでも届くような、まっすぐなものだった。



 *****



 こんなにもうっとりしている藍の顔は初めて見た。

 そして宗信の奏でる音色は水である僕の心さえも動かすものだった。

 音楽というものには不思議な力がある。科学的に見るとそれは見えない波のようだが、音には気持ちを乗せることができる。

 感情や情景などを強く伝えることができる、そんな特別な力があるものなのだ。


 水である僕は電柱の下で彼らを見守っていた。

 なぜここに居るかは聞かないでほしい。

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