そういうわけじゃない

「おっかしいな。笹目ささめさん、戻ってるってモナから聞いたのに」

 サバエはそう言うと、雑居ビルにある占い部屋のドアにかけられた「準備中」の白い札を爪で弾いた。

「まあいいや、お寺に行けばいるかも」

 彼女はほどけて来たマフラーを巻き直すと、急ぎ足で暗い廊下を戻り、ビルの外へと出た。風が刺すように冷たいけど、午後の空はきれいに晴れている。僕は彼女の後を追いながら、山形で笹目に会ったのは何日前だろうと考えてみる。


 あの奇妙な弾丸ツアーはもう何か月も前に思えるけど、実のところ一週間もたってない。でもあれ以来、僕の中では何かが大きくずれたような感じがあって、もしかすると、前とは違う世界に戻ったんじゃないかと疑っている。

 たとえば美蘭みらん

 今までは何かにつけブチ切れると、殴る蹴る、とにかく手や足が出ていたのが、罵倒だとか嫌味だとか、その程度で終了。

 たしかに僕としては楽なんだけど、不気味なのだ。美蘭がそんなに静かにしていられるはずがないから。

 ここは前とは違う世界かもしれない。でもやっぱり同じ世界かもしれない。

 その根拠は、相変わらずなサバエの身勝手さ。

 今日だってこっちの都合も聞かずに呼び出しをかけて、最初は「ムーンドロップスのお正月限定パフェ食べたい」だったのが、いざ店に行ってみたら整理券は配り終わられていて、「だったらチタチムで天国の七枚重ねパンケーキにしよう」と移動して行列に並び、いざ席についたところで「やっぱブタになるから焼きリンゴのガレットにする。でも写真は撮りたいからパンケーキは亜蘭あらんが食べてね」となり、「そうだ、笹目さんとこ行かなきゃ」となったのだ。

 雑居ビルからの最短ルートを通り、僕らは東林寺の門をくぐった。勝手は判っているので本堂の脇から墓地へと回る。参拝客は誰もいなくて、青空の下に並ぶ墓石はどこかの国の衛兵みたいに直立不動だ。僕はふいに、滅苦めっくの両親が眠る山あいの墓地の、静まり返った様子を思い出していた。

 うっそうと繁る木立と、根雪の残る黒い地面と、森の匂いを重く含んだ冷気。

「あれ?ここも鍵かかってる」

 気がつくと、先に進んでいたサバエが、離れに通じる木戸の取手を揺すっていた。

「引っかかってるだけじゃない?」

 代わりにやってみたけど、やはり施錠されているらしく、開く気配もない。ふだんは留守でも離れの玄関までは行けるはずなのに。

「今日はもう諦めたら?そんなに急いで笹目に会う必要ないよね」

 僕がそう言うと、サバエは「本気でそう思ってる?」と切り返してきた。

「そう、思ってる、けど」

 何だろう。不穏な気配。

 僕は慌てて頭の中をかき回し、この前サバエに会った時のことを思い出そうとしたけれど、何だかもう輪郭がぼやけている。そう、たしか彼女の家に行って、偶然にも真柚まゆがいて・・・

「私さあ、笹目さんに確かめてから、答えを出そうと思ってたんだ」

「答えって、何の?」

「亜蘭とお別れするかどうか」

 それは待ち望んでいた言葉、のはずだったけれど、いざ本当に言われてみると、僕の心は奇妙にざわついた。サバエは木戸に背を向け、墓地の方に視線を投げかけたまま「だって亜蘭、真柚ちゃんの方が好きなんだよね」と言った。

 そうだよ。ここでそう返事すれば、また心穏やかな生活に戻ることができる。なのに僕は「そういうわけじゃない」と答えていた。

「そういうわけじゃない」

 サバエは僕と同じ口調で繰り返す。

「じゃあどういうわけで、今日一緒に来てくれたの?」

「きみに会いに」

「だからさ、どうして私に会いにきたの?」

 僕はその答えを言えなかった。というのも、鍵のかかっているはずの木戸が突然、わずかに開いたからだ。

「ちょっと、そこでダラダラ会話されるとすっごい迷惑なんだけど」

 隙間から顔を覗かせたのは美蘭だった。

「んえっ!?」と声を上げたサバエを制するように、美蘭は「入るんなら早くして」とせかした。

「なんで?なんで?美蘭も笹目さんに会いに来たの?」

「説明は後。坊主に見つかると面倒だから」

 言われるままにサバエと僕は木戸を抜け、美蘭はすぐさま鍵をかける。まるで泥棒にでも入るような足取りで、僕らは離れへと向かった。


 予想に反して、離れの玄関に鍵はかかっていなかった。いつも寝そべっているブチの姿はなく、アルミの水入れも見当たらない。

「もしかしてだけど、笹目さん中で倒れてるんじゃない?」

 いちばん後ろにいるサバエが首だけ伸ばしてそう言うと、美蘭は「だったら嬉しいけどね」と、座敷へ続く引き戸を開ける。でもそこはもぬけの殻だった。

 あれだけあったゴミと区別のつかないガラクタや、その真ん中に埋もれかけていたこたつ、全てが消えて、傷んだ畳だけが浮き上がって見える。美蘭に続いて中に入ると、奥の六畳も台所も、きれいさっぱり空になっていた。

「何これ、いきなり引越し?この家、けっこう広かったんだね」

 呆れたように呟きながら、サバエは腕を広げて一回転する。それを横目に、美蘭は六畳間の押し入れを開け、中を覗き込んでいる。どうやら彼女がここに来た目的があるらしい。

 気づかれないように美蘭のそばへ行くと、目の前にいきなり、長くて白っぽいものが垂れ下がった。

 それが何か確かめる前に僕は飛び退いていて、美蘭は高笑いしながら、「ビビり過ぎ」と手にした物体を振った。ひらひらと揺れているのは蛇の抜け殻で、長さからすると笹目の一番のお気に入り、例の白蛇のものらしい。

 美蘭の笑い声に引き寄せられて、サバエが「何それ?ビニール?」と身を乗り出してくるので、僕は「蛇だよ、蛇の抜け殻」と忠告してやった。

「抜け殻?蛇って、セミみたいに幼虫から脱皮して大人になるわけ?」

 蛇だと言われて臆する様子もなく、サバエは美蘭が手にしている抜け殻に触れる。僕はもう見ているだけで全身に鳥肌が立ってきて、台所まで後ずさりした。

「蛇は生まれた時から同じ格好だけどさ、身体が大きくなるたびに脱皮するのよ」

 美蘭は「ねえサバエちゃん、ここちょっとよく見て」と言いながら、彼女に抜け殻を手渡した。

「文字が浮き出てるの、わかるでしょ?」

「文字?うっそ、どこどこ?何て書いてあるの?」

 よく見ようとサバエが抜け殻に顔を近づけたところで、美蘭は彼女の背後に回り込むと両手で目隠しした。

「サバエちゃん、後ろの正面誰だ?」

 乾いた音をたてて抜け殻が畳の上に落ちる。

 美蘭はサバエの耳元に唇を寄せると「あんたの通ってた占い師は笹目じゃない。タロットカードを使うロミって名の女で、やまけん様の通りにある占い横丁で七のつく日に仕事をしてる」と囁いた。

「それ、笹目に頼まれたの?」

 つい僕がそう聞いても、美蘭は返事などしない。

「話はそれだけよ。後ろの正面には誰もいなかったから」

 美蘭が目隠しをやめると、サバエは「あ、落としちゃった。ごめんなさい」と屈んで抜け殻を拾い上げた。

「大丈夫よ。じゃ、そろそろ行こうか」と、美蘭はサバエから受け取った抜け殻を手早く巻き取り、笹目が一緒に置いていったらしい寄木細工の箱にしまうと鞄に放り込んだ。


 なぜ笹目はいきなり消えたのか。

 一番の理由は僕と美蘭だろう。夜久野やくの一族は互いのことが大嫌いだから、居場所を知られただけでも不愉快なのに、湯治先の温泉まで押し掛けられたのが我慢ならなかったに違いない。

 まあ僕だって、笹目はもちろん、彼女の操る蛇なんか一生関わらずに過ごしたいと思ってるから、この状況は大歓迎だ。

 せいせいした気分で墓地の脇から本堂へ向かう小道を歩いていると、先をゆく美蘭とサバエの悲鳴みたいな笑い声が聞こえてきた。

「ヤバいヤバい」と連呼しているのはサバエで、美蘭はその横ですかしたような笑みを浮かべている。二人のそばには学校帰りらしい制服姿の滅苦めっくがいて、僕に気づくと「亜蘭さんもご一緒でしたか」と、にこやかに声をかけてきた。

「亜蘭、ヤバいよ。ヤバ過ぎ。黙如もくじょさん結婚するんだって!なんか急すぎるのは、もしかしてデキ婚?」

 サバエの剛速球に引き気味の滅苦は「いえ、あの、宇多子うたこさんが辞めちゃうんです。息子さんが伊豆でやってる食堂を手伝いたいからって。それで、新しい人を探さないとって話になったら、黙如さんがいきなり、じゃあ俺、結婚しちゃおうかな、って」と、説明した。

「何、その軽いノリ」と美蘭は失笑し、サバエは「なんて言ってプロポーズしたんだろうね。指輪とかは?見せてもらった?奥さんになる人きれい?」とぐいぐい食いついている。

「黙如さんは今日の五時から坊主カフェですから、詳しいことは直接きいてみて下さい」

「わかった、ぜったい後で行く。でもさ、なんで亜蘭は少しも驚かないの?」

「だって、こないだ山形に行った時に、婚約してる人がいるとか言ってたし」

 僕は綾さんの住む傾いた部屋と、彼女の膝の心地よさを思い浮かべる。

「はあ?山形?何それ」

 突っ込んできたのは美蘭だった。彼女は心底うさんくさい、といった目つきで僕を見ると「出たよこいつの白昼夢が」と言った。

「亜蘭さんの白昼夢、って何ですか?」

「あれよ、夢ん中の出来事と現実がごっちゃになってんの。嘘つきは自分で嘘ついてるって自覚あるけどさ、こいつは本気で思い込むから始末が悪いのよ」

「でも、山形は滅苦も行ったし、温泉でお年寄りに大人気だったよね」

「まさか!温泉どころか、僕と黙如さんは先週、インフルエンザで三日も寝込んでたんですよ。黙如さんなんか、記憶飛んでるんだよね、とか言ってます」

「それって、熱が高すぎて頭がどうにかなっちゃったの?」

「あの人はさ、たぶん元から脳の回線に不具合あるのよ」

 滅苦とサバエ、そして美蘭の会話がとても遠くに聞こえる。

 僕はやっぱり山形から福島経由で、別の世界に戻ってきたんだろうか。一体どこが境界線だったんだろう。

 何だか眩暈というか耳鳴りがしてきた、と思ったら、虫の羽音だ。僕の頬をかすめるようにスズメバチが飛んでいる。奴はそのまま僕の頭にとまると、髪に潜り込んで左耳の後ろまできた。

「こんど山形の話したら、ベッドに蛇入れるからね」

 スズメバチは美蘭の苛立った声を伝えてくる。

「せっかく笹目が全部消したのに、なんで判んないのよ」

「消した?笹目が?」

 僕のほとんど声にならない言葉を、スズメバチは拾って美蘭に伝える。傍目には馬鹿話で盛り上がるふりをしながら、美蘭は「だから、笹目なんて最初っからいなかったって事。雑居ビルで占いやってるだとか、お寺の離れにブチ犬と住んでるだとか、そんなババアはいなかったの。滅苦の記憶を封じたのはヒーラーの九重さんて人だからね」と言葉を送ってきた。

「とにかく、こっちは後片付けだけでもうんざりしてるんだから、これ以上邪魔しないでくれる?」

「後片付けって、いくらもらったの?蛇の抜け殻だけってはずないよね」

「さあね。あんたに教える筋合いないし」

 美蘭の言葉が途切れると同時に、スズメバチは僕の耳元を離れてふわりと浮かび、冬の空へ吸い込まれていった。

「亜蘭さん、猫見ていきませんか?」

 滅苦の声で僕は我に返る。

「猫って、ソモサンとセッパはもう何度も見てるけど」

「そうじゃなくて、新しいニャンコがいるんだってよ。黙如さんのフィアンセが飼ってるニャンコ!」

 フィアンセ、をことさら強調しながら、サバエはもう軒先で靴を脱いでいる。美蘭は「よその猫の匂いつけて帰ると、小梅こうめが不機嫌になるから」と、あっさり消えてしまった。

 仕方なくサバエたちについて行くと、座敷の隅にキャリーケースが置かれている。

「ソモサンやセッパと仲良くできるかどうか、昨日からお見合いしてるんです」と言いながら、滅苦はキャリーケースを開けて声をかけた。

「ジャコ、出てきてみんなに挨拶しようよ」

 とはいえ、猫が出て来る気配はない。慣れない場所で当然のリアクションだけど、サバエは「亜蘭が声掛けたらぜったい出てくるよ」と、僕の腕を引っ張った。

 でも、中にいるジャコの正体は、サバエが捨てたミント一号。こんなところで再会しても大丈夫なんだろうか。ためらいながらキャリーケースを覗き込むと、奥にへばりつくようにして、こちらを睨んでいる猫には縞模様があった。

「気をつけて下さいね。黙如さんは今朝引っ掻かれましたから」

 そりゃ当然だろう。中にいるのは野良のキジトラなんだから。でもどうしてこいつがジャコで、ロシアンブルーのミント一号がいないのか?正解は猫に聞くしかない。

 キャリーケースの奥へ腕を伸ばすと即座に前足が飛び、爪が食い込む。まあ、美蘭の暴力に比べたら軽いご挨拶ってことで受け流し、僕はキジトラを抱きとって記憶を探ってみる。

 古いアパートのそばの駐車場。ゴミ箱、残飯。雨でふやけたキャットフード。雀、寒さ、暖かい場所。

 次々と浮かんでは薄れてゆく、空間と匂いと音の記憶。警戒と安心。飢えと渇きと、自分で捕らえた獲物の、命が溢れる味。雨がヒゲを湿らせ、冬の日差しが毛皮を暖める。そして僕はモザイクのような断片の中に、知っている匂いを嗅ぎわけた。

 美蘭。

 別に不思議ではない。僕の操るキジトラは美蘭と一度戦っているから。でもそれとは別に、彼女が親猫の使う優しい声で何やら話しかけたり、とびきりいい匂いの餌をくれたり、そんな記憶が残っている。

 きっと、美蘭がキジトラを捕まえて、綾さんのところにいたジャコ、ことミント一号とすり替えたのだ。ご丁寧に去勢までして。そして綾さんの記憶は笹目が細工し、ロシアンブルーのミント一号は美蘭のもの。転売して稼ぐに違いない。結局、美蘭のひとり勝ちだ。


「亜蘭、手は大丈夫?」

「手?なんで?」

「なんでって、さっきニャンコに引っかかれたじゃない。血が出てたし」

「別に何ともないよ」

 明かりの灯った街を、僕とサバエは並んで歩いていた。空はわずかに青味を残しているけれど、じき夜の色に染まるだろう。僕らの目的地は坊主カフェ。電撃婚の黙如への質問をあれこれ考えているのか、サバエの口数が妙に少ない。

 まあその方がいいか。

 無理やり絞り出しでもしない限り、話すことなんて思いつかない僕は、黙って歩き続ける。ただ、あんまり早く歩き過ぎないように、気をつけるけど。

「私、やっぱり決めたよ」

「決めたって、何を?」

「亜蘭とつきあうのを、続ける」

 ふーん。

 正直な気持ちはそうだったけど、僕の中の多少は社会的な部分が、それを口にするなと告げていた。だから敢えて何も答えずにおく。

「初めて会った時のこと憶えてる?」

 僕にはこの手の質問がいちばん難しい。でも返事は不要だったらしくて、サバエは一人で話し続けた。

「ミントがシューズラックの下に隠れちゃって、それを亜蘭が引っ張り出したでしょ?あの時も手を引っかかれて血が出てたよね。でも亜蘭は怒ったりしてなくて、優しい人なんだなって思った。だからつきあってって言ったんだよ」

 そうだっけ。

 これも言うべきではなさそう。僕は黙ってサバエの言葉を待った。

「でもこないだからさ、亜蘭もきっと真柚まゆちゃんの方が好きなんだろうと思って、自分からお別れしようって考えてたんだけど、さっき亜蘭が手を引っかかれても怒らないの見てたら、やっぱりそういうとこが好きだと思ったの」

 気がつくと僕の心臓は猫並みの速度で打っている。サバエはまっすぐ前を向いたまま、「亜蘭はそれでも嫌じゃないかな」と言った。

「嫌、じゃ、ない」

 まるで他人の声みたいに聞こえるけど、やっぱり僕の声がそう返事する。多少、裏返り気味で。

「それはどうして?」

 だからさ、と僕は思う。それこそどうして、あれこれ理由が必要なんだ。でも意外なことに、答えは簡単に出てきた。

「きみのこと好きだから」

 ふう、と大きく息を吐き、「よかった」と呟く声が聞こえる。

 そして僕は思う。やっぱりここは前とは別の世界だ。彼女が僕を、僕が彼女を好きな世界。

 その見知らぬ世界を迷わず歩いてゆくために、僕はとりあえず彼女と手をつないでおくことにした。

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冬景色銀猫取替譚 双峰祥子 @nyanpokorin

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