この人たちから奪えるもの

「よかったらこれも持っていきなさい。途中で腹も空くだろうし」

 泉岳せんがくさんはそう言いながら、一口羊羹と干し芋をこたつの上に並べた。

「これ以上もらったら、和尚さんの分がなくなるわ」

 普段は死ぬほどがめついのに、美蘭みらんは取り澄ました様子で「お気持ちだけいただいて」なんて言葉を返している。


 墓地の帰り道に寄った村で唯一のお寺、石油ストーブが赤々と燃える部屋でこたつにあたりながら、知り合いであるはずの泉岳さんと黙如もくじょは互いの近況報告すらせず、この冬は雪が少ないけれど、春先にどかっと降るかもしれない、なんて話をしている。

 そして泉岳さんは僕と美蘭にお茶やお菓子を勧めながら、学校はどうだとか将来は何になるのだとか、そんな質問ばかりしてきた。

「大学は法学部に進むんですけど、何かボランティアをしたいんです。法律の知識が無くて困ってる人をサポートするとか」なんて、美蘭は口から出まかせもいいとこ。なのに泉岳さんは「そりゃ頼もしい」とか、すっかり騙されている。でもまあ、おかげで僕はほとんど発言しなくてよかったけど。

 とはいえ、僕らにはあまり時間がなくて、ものの半時間ほどこたつにあたっただけで、黙如は「そろそろ引き上げないと」と立ち上がった。


 外は日が落ちたばかりで、辺りは目に見える速さで暗くなっていた。風は強まり、わずかに明るい西の空を、ちぎれた雲が幾つか流されてゆく。

 泉岳さんは僕らを見送りに出て来ると「あんたら、五月の連休の頃にまた来なさい。冬場はこんな調子で寂しいとこだが、春は本当に素晴らしいから」と言った。

「春も素敵でしょうけど、今だっていいところだと思います。どうも、ごちそうさまでした」

 そう言った美蘭に続いて、僕も「お邪魔しました」とだけ挨拶して車に乗る。黙如はやっぱり「それじゃ」ぐらいしか言わず、頭だけ下げると、慌ただしく車を出した。

 バックミラーの中に遠ざかるお寺の門と、その前で手を振る泉岳さんの姿が見えなくなった頃、後部座席の美蘭は「ねえ、ちょっと寄り道したいんだけど」と黙如に呼びかけた。

「寄り道?」と答えたのとほぼ同時に、彼は突然ブレーキを踏み、僕らは皆、前につんのめった。

「何よもう!いきなり停まれって言ってないでしょ!」

「いや、これはまずいな」

 そう言った黙如の視線の先、車のライトが照らし出す光の輪の中に、奇妙なものが動いていた。一瞬、野良犬かと思ったけど、それにしては妙に大きくて分厚い。

「イノシシだ」

 言われてみると確かにその通りで、大小とりまぜて五、六頭いる。そいつらが立ち塞がり、一斉にこちらを睨んでいるのだ。背中の毛を逆立てて、明らかに威嚇している。

「亜蘭、トランク開けて」

 それだけ言うと、美蘭は後ろから身を乗り出し、黙如に目隠しした。

「黙如さん、後ろの正面誰だ?」

 もちろん彼は何も答えない。僕はその隙に運転席へ手を伸ばし、トランクを開ける。

 美蘭は目隠しを続けたまま、短い口笛を吹いた。

 助手席から振り向くと、トランクの蓋がわずかに浮きあがるのが見えた。それは何度か揺れたかと思うと、ゆっくり持ち上がる。

 がさがさと、トランクの中で何かが移動している気配が伝わってくる。美蘭の脇に座っていた猫のソモサンとセッパは、少しだけ警戒した様子で、耳をあちこちに向けながら低い姿勢をとった。

 やがてトランクの蓋は静かに降りて、何かが移動する気配も消える。その直後、車の前に立ち塞がっていたイノシシたちに変化が起こった。僕らの乗った車ではなく、他のものに気をとられている。それは小さく黒い影で、イノシシたちを囲むようにじわじわと近づいて行く。

 黒い影の正体は、ここへ来る途中で積み込んだハクビシンの群れだ。

 美蘭の唇から再び、高く細い口笛が流れると、イノシシを囲んでいたハクビシンはいっせいにその距離を詰めて飛びかかり、あちこちに噛みついた。イノシシも怒り狂って反撃するけれど、小回りのきくハクビシンは素早くそれをかわして、また次の攻撃に移るのだった。

「あの子たちが頑張ってるうちに車を出して。滅苦めっくの家に行く」

 美蘭がそう耳打ちすると、黙如は車を発進させた。イノシシたちを避けて急ハンドルを切ると、アクセルを踏み込む。バックミラーの中では、イノシシとハクビシンがもつれあったまま、脇の田んぼへと移動してゆく。

「放っといていいの?」

「大丈夫よ。あの子たちお利口だもの。適当なとこで切り上げるわ」

 美蘭は何事もなかったかのようにシートに身を沈めると、傍らのセッパを抱き上げ、自分を落ち着かせるかのように何度か撫でた。

 五分も走らないうちに、僕らの乗った車は村の外れにある家の前で停まった。建てられて半世紀は経過しているであろう、二階建ての大きな母屋と、物干し場をはさんだ先にある土壁の納屋。真っ暗で人の気配はなく、少し離れた街灯の青白い光だけがその輪郭を浮かび上がらせている。

 美蘭は車を降りると、母屋の方へと歩いていった。黙如も無言で続き、僕もその後をついて行く。美蘭は玄関の鍵がかかっている事を確かめると、こんどは家の周囲を歩き始める。軒下に停められた子供用自転車には「河合滅苦」とマジックで書かれていた。

「今は誰も住んでないのね」

 暗い窓を見上げた美蘭がそう言うと、黙如は「たまに泉岳さんが風を通しに来てる」と言った。

「でも、家ってのは人が住まないとどんどん傷んでしまう」

「そうね。それに、ほら」

 美蘭が指さしたのは、家の裏手にある台所の窓だった。誰かが割ろうとしたらしく、錠の近くにひびが入っている。

「泉岳さんの言ってた通りだな」

 黙如はガラスのひびを指先でなぞりながら「もうこれ以上、この人たちから奪えるものなんかないのに」と呟いた。

「ここにいつか、滅苦は帰ってくるの?」

 気がつくと、僕はそう質問していた。黙如はガラスから手を離すとゆっくりこちらを向き、「いつかはね」と答える。

 僕はまた、自分の中を通り抜けていったあの、重苦しいものの感覚を思い出していた。刺すように冷たいのと同時に焼けるように熱い、どうしようもない絶望の塊。とたんに全身から冷や汗が出て、息が荒くなる。駄目だ、考えては。

 暗闇に顔をそらし、溢れてきた涙をこっそりと拭う。僕の深い吐息は街灯の明かりをうけ、冷え切った夜の中を人魂みたいに漂ってゆく。

「来たわ」

 美蘭の声で僕は我に返った。彼女の視線の先には、こちらへと歩いてくるハクビシンの群れがいる。見たところ一頭も欠けず、イノシシをまいてきたようだ。彼らは美蘭の短い口笛に答えるように、その足元に集結する。そんなものを見ても黙如が何も言わないのは、きっとまだ「目隠し」されたままだからだ。

 もう一度美蘭が口笛を吹くと、一番大きなハクビシンの耳からスズメバチが顔を覗かせた。

「今日からお前たちはここに住むのよ。この家に害をなすものは、それが何であろうと決して近づけては駄目。そしてあの子が戻ってくるまで、これを守りなさい」

 そう言って美蘭がライダージャケットの胸元から取り出したのは、麻紐で編んだ小さな袋だった。中に何か白いものが入っている。

「何それ?」

 思わず覗き込むと、美蘭は面倒くさそうに「あんたがやらかした奴よ。滅苦の記憶。笹目の白蛇が呑み込んで卵に封じたの」と答える。白蛇と聞いて、僕は反射的に後ずさりしていた。

「あのまま猫のセッパが背負ってくれてたら、まっすぐ東京に戻れたのに。あんたのおかげでとんだ遠回りよ」

 滅苦の記憶をセッパに背負わせるのと、白蛇の卵に封じるのと。どっちがどうだか僕にはいま一つよく判らないけど、とにかく今はこの卵をしかるべき場所に収める必要があるらしくて、美蘭はまた家の周りをゆっくりと歩き始めた。

 後に続くのはハクビシンの群れと、黙如と僕。彼女は腰をかがめ、落とし物でも探すように地面のあたりに視線を投げていたけれど、「ここだ」と呟いてしゃがみ込んだ。

 僕らはいつの間にか母屋をほぼ一周して、南向きの縁側まで来ていた。美蘭が「おいで」と声をかけると、一番大きなハクビシンが彼女の傍へと歩み寄る。よくあんなの近寄らせるよ、なんて僕の呆れた気持ちは伝わるはずもなく、美蘭は手にした袋を小さな獣の鼻面へ持っていった。

 ハクビシンは大人しく袋をくわえると、縁の下へつるりと消えた。美蘭はその空間を覗き込んだまま「そうね、そこの石の上に置きなさい」と命じる。僕らにはただの暗闇だけど、美蘭の左目には全てが見えているのだ。

 一度だけ闇の中でハクビシンの目が光り、奴はそれからまた這い出してくる。美蘭は「いい子ね。じゃあ頼んだわよ」と言うと立ち上がり、宙に向かって腕を伸ばす。その指先に、ハクビシンの耳から這い出してきたスズメバチが飛んできてとまった。

「お行き。後で仲間を送るから」

 彼女がそう言って軽く息を吹きかけると、スズメバチは低い羽音をたてて浮かび、僕らの頭上を一度だけ大きく旋回してからどこかへ飛び去った。

「これでとりあえず片づいたって事ね。ここからは私が運転するわ」

 そう言って美蘭は足早に車へ戻り、僕と黙如が乗るのも待たずにエンジンをかけ、「男どもは後ろ」と宣言した。

 急発進して方向を変えた車の窓ごしに、僕はもう一度滅苦の家を見る。あの真っ暗な家に、もう一度明かりが灯ることはあるんだろうか。僕の疑問なんかお構いなしに、美蘭はアクセルを深く踏み込み、主人を見送るかのように群れていたハクビシンたちの黒い影は一瞬で遠ざかった。


 それから東京に戻るまで、美蘭のスピードの出し方は半端なかった。まるで何かに追われてるみたいに、とにかく前へ、前へと追い越しをかけてゆく。こんな強引な運転、黙如が許すわけないんだけど、彼はまだ「目隠し」されたままで、車に乗ってからずっと、猫と眠りこけているのだった。

 右へ左へと繰り返す車線変更に振り回されながらも、僕は恐怖など感じてはいなかった。美蘭の左目には人間離れした動体視力があって、いま目の前にラクダが飛び出して来たとしても、余裕でかわせるからだ。ただ不思議なのは、何をそこまで急いでるかって事だった。

「トイレならサービスエリアにもあるけど」

 とりあえずそう進言したけど、「はあ?」としか言われない。

「いや、なんか急いでるなと思って」

「早く小梅に会いたいの」

 美蘭はそう言っただけで休憩も入れずに走り続け、次に口を開いたのは東京に戻り、東林寺に着いてからだった。

「私ここからタクシーで帰るから。車は返しといて」

 そして僕は素直にレンタカーを返し、お腹が空いたので牛丼を食べたりしてから、美蘭と住んでいる古い洋館に戻った。日付なんてとっくに変わった後だ。


 玄関には桜丸さくらまるのスニーカーが脱いであった。僕らが留守にしていた間、小梅の世話をしに来てくれたのだ。

 そしてもちろん美蘭も帰っている。でも家の中は静まり返っていた。

 僕はとりあえず居間をのぞいてみた。冷え切って誰もいない、がらんとした空間。

 キッチンも応接室も無人だし、ピアノとオーディオセットの置かれたアトリエも真っ暗。

 そして僕はできるだけ足音をたてずに階段を上がり、美蘭の部屋の前に立った。彼女が起きてる時は、ドアの下から明かりが漏れてるけど、今はそれもない。

 家の中は静かすぎて、外を走る自転車の、緩んだチェーンの音が聞こえてくるほどだ。一瞬、ドアに耳を押しあてて、中の物音を確かめたい気持ちになる。でもその一方、「何をうろちょろしてんのよ」と、美蘭が出て来そうな予感もして、僕は動けなかった。


 それからすぐだったのか、ずいぶん経ってからなのか、僕は自分の部屋に戻り、枕元のスタンドだけつけて、着替えもせずベッドに寝転んでいた。

 漆喰塗りの天井に映るぼんやりした影を眺めながら、美蘭と、彼女の傍にいるであろう桜丸の事を考える。そして二人と一緒にいる、三毛猫小梅の事も。

 誰にも煩わされず、一人でいるのは快適なはずなのに、今はこの部屋にハクビシンが現れても歓迎してしまいそうだ。この世の全ては、何光年も隔てたように遠く離れていて。僕に一番近いのは、福島の山あいにひっそりと建つ、滅苦の家だった。

 何だか、サバエに会いたい。


 





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