けっこうな目方がある
「
「豚汁じゃなくて、焼肉定食とかがよかったんだけど」
僕の訴えはスルーして、美蘭はトラックばかり並んだ駐車場に誰もいない事を確かめると、聞こえないほど高い音の口笛を短く吹いた。
すぐに、僕の背筋をざわざわとした感覚が這い上ってくる。それと呼応するように何か黒いものが、少し離れた場所に停まっている四トントラックの下からあふれ出してきた。それは流れる水のように広がったかと思うとまた集まって、こちらへと移動してくる。
近づいてきたのは、生き物の群れだった。暗褐色の被毛に包まれたしなやかな身体と長い尻尾。小さな耳を立てた丸い頭の真ん中には、ひときわ目を引く白いラインが入っている。
「なんで?ハクビシン?」
思わず後ずさりした僕の足元をかすめるように、奴らは整然と歩み続ける。そして美蘭が車のトランクを開けると、次々と飛び上がってその中へもぐりこんだ。全部で十数匹はいるだろうか。
「いい子にしててね」
そう声をかけるとトランクを閉め、美蘭は後部座席にいるソモサンとセッパを覗き込んだ。
「あの子たちは何もしないからね。心配しなくていいわよ」
猫たちにもハクビシンの匂いや気配は伝わってるだろうけど、二匹は落ち着いた様子でじっとしている。
「あのハクビシン、東京にいた奴?」
「そうよ」
美蘭は左手で車のキーを弄びながら、食堂へと歩き始める。
「どうやって来たの?歩いて?」
「まさか。こっちに来るトラックに便乗させたの」
「でも、何のために?」
「あんたじゃ頼りないからね。黙如がいつ狼にならないとも限らないし」
美蘭はそう言って薄く笑った。
食堂の豚汁定食はおいしかったけれど、僕らは更にレバニラ炒めと唐揚げと餃子六人前を追加した。仕上げはかなり薄いコーヒーと砂糖をまぶしたドーナツを二つずつ。さすがにそれだけ食べると、もうしばらくは大丈夫という気になる。
休憩もそこそこに僕らはまた出発し、引き続き黙如がハンドルを握った。僕はまた助手席。美蘭は後ろで、早々に眠り始めたみたいだった。
彼はかなりとばしていて、それは道路が除雪されているから、という理由だけではないようだった。
「黙如さん、この道走ったことあるんですか?だるま食堂の事も知ったけど」
そう質問しても、彼は「まあね」と曖昧に答えるだけだ。心なしか険しくなったその横顔の向こうには、薄曇りの空と、雪に覆われた山と冬木立。道はいつのまにか二車線へと狭まっていた。
かさついた色の田んぼに、畑に、時おり現れる建物。流れてゆく景色に共通しているのは、不思議なほどの人の気配のなさだった。
だからといって、家の集まってる場所に来ても、やっぱり人が住んでるという感じはしない。誰も歩いてないのはまあ、寒いからかもしれないけど、美容室だとかクリーニング店だとか、そんな看板の上がっている場所も、暗くひっそりしていた。
それに、何だかどの家もくたびれた感じだと思ったら、門が壊れてたり、植木が伸び放題だったり。他にも、網戸が外れていたり、閉められたカーテンが破れている家もあって、まるで撮影後に放置された映画のセットみたいだった。
「人がいない」
何となく僕が呟くと、黙如は「戻れないんだ」と言った。
「みんなどこかに行ってるんですか?」
「だから、戻れないって言ってるじゃん」
後ろで寝てると思った美蘭の、少し苛立った声が割り込んできて、僕はようやく、ここが福島である事を思い出した。
「もしかしてみんな、原発事故のせいで出ていった?」
「そうだね」
外の景色は再び雑木林になっていた。車はしばらく走ってから川を越えて、上りの緩やかなカーブを抜ける。その向こうにちょっとした集落があった。
点在する家の周囲には田んぼが広がり、少し離れた丘のふもとに小学校らしい建物も見える。僕らの乗った車はそこへ向かう細い一本道を進んでいった。これまでと少し違うのは、たまに車が停まっていたり、洗濯物が干してあったりするところ。でも誰も外を歩いていないのに変わりはなかった。
車はやがて小学校を通り過ぎ、消防倉庫と、さらに何軒かの家の前を通った。オオノヤと看板の出ている店があったけど、シャッターは降りたままだ。カーナビを確かめると、僕らはもうほとんど目的地まで来ていた。
「あのお寺?」
美蘭の声に目線を上げると、右前方に門らしいものがある。それは東林寺とは比べものにならないほど小さく、柱も扉も古びて白くなっている。しかし黙如はカーナビを切るとそこを素通りした。
「スルーしちゃうわけ?」と美蘭が突っ込んでも返事はない。
車はやがて三叉路にさしかかり、彼はもう何軒か家があるのとは反対の方向へハンドルを切った。そっちは細い坂道で、どんどん山の中へと入ってゆく。
「もしかして、私のこと誘拐しようとか思ってる?」
美蘭はセッパを抱えたまま身を乗り出すと、その前足を使って「ねえってば」と黙如の肩をつついた。
「ご心配なく。そんな事はしない」
黙如はそれだけ言うと、もうしばらく坂を上って、道路わきの小さな空き地に車を停めた。
「ここが終点ってわけね」
美蘭は猫たちを残して車を降り、伸びをしている。寒そうではあるけど、僕もやっぱり手足を伸ばしたくて外に出た。風はないものの、空気は刺すように冷たく、日陰には根雪が分厚く残っている。
木立の間からは、さっき通ってきた集落が見わたせた。まるで箱庭みたいだ、と眺めていると、「置いてくわよ」という声がした。
振り向くと、美蘭と黙如は道を隔てた斜面の石段を上り始めていた。僕も急いでその後を追いかける。
石段は一度折れ曲がるとなだらかな坂に姿を変え、上り切った先には墓地が開けていた。
並んでいる墓石はそう多くはないけれど、くすんで字も読めないようなものから、けっこう新しいのまで色々だ。
「ここ、お墓じゃない」
見ればわかるのに、美蘭はそんな事を言いながら黙如の後をついて行く。彼は迷う様子もなくどんどん墓地の中を歩き、とある墓石の前でふいに立ち止まった。
他と比べて変わったところもない、灰色の墓標。黙如はそちらに視線を向けたまま、「
「ここ、お墓じゃない」
言ってしまってから、僕は美蘭と同じ事を口走ったことに当惑した。腕組みして立っていた美蘭は、「つまり、もう亡くなってるってこと」と呟いた。
「そうだ。二人とももういない」
黙如が低くそう答えた時、「やっぱり、あんたか」という声が聞こえた。
振り向くと、作務衣の上からベンチコートに足元は長靴という格好の男の人が、こちらへ歩いてくるのが見えた。頭にはくたびれたニットの帽子をかぶっていて、年は六十代半ばってとこだろうか。美蘭が社交モードで「こんにちは」とにこやかに挨拶したので、僕もぼんやりと頭を下げる。
「見慣れない車がこっちの方に入っていくから、誰かと思ったら」
やっぱり集落に人はいて、僕らはちゃんと見られていたのだ。黙如は「すいません、挨拶なしで」と謝ったけれど、男の人は「それは構わないんだ」と首を振る。
「ただね、最近あちこちに空き巣が入るんで、皆が心配してるんだよ。一時は収まったのに、人が戻ったらまた出始めたって。まあさすがに、日が暮れる前からはないと思ったが、あんただったとはね。お連れさんは、東京から?」
彼は美蘭と僕を交互に見て、皺の刻まれた顔に親しげな笑みを浮かべた。
「この辺りは初めてかな?」
「ええ」と、美蘭は素直に頷く。
「うちのお寺で一服していかないかな?まだまだ行き来する人間が少なくて、わしはかなり退屈してるんだよ」と笑いかける。
「お寺ってことは、お坊様ですか?」と美蘭が訊ねると、彼は「そう。黙如と同じ、クソ坊主よ。荒れ寺を一人で守っておる、
お寺の住職、ということは滅苦の父親だろうか。でも僕らの目の前にあるのは、滅苦の両親のお墓だという。僕は何だかわけがわからず、美蘭の方を見た。彼女は「黙ってろ」という視線を送ってよこし、「どんなお寺か見てみたいわ。少しだけお邪魔していいですか?」と、はしゃいだ声を上げた。
「では一足先に戻って、座敷を暖めておくよ。あまり冷えすぎないうちに来るんだぞ」
彼はそう言って軽く手を振ると、元来た道を戻っていった。その姿が見えなくなった途端に、美蘭は「どういう事?」と黙如に問いかける。
「滅苦はお寺の子だって聞いてたけど、あの人は滅苦のお父さんじゃないよね」
「まあ、そう。つまり」
黙如は上を向いたり下を向いたり、落ち着かない様子だったけど、一つ溜息をついてから「滅苦がお寺の子ってのは、嘘だ」と言った」。
「滅苦って名前も?」
「いや、名前は本当。名付け親はあの住職なんで、お寺の子って話にまとめたけど、実は農家の子だ」
美蘭も黙如もお互いの顔は見ず、冷たく静まった墓石の方を向いたまま話をしている。
「あの原発事故が起きて、この村の人たちは全員避難することになった。滅苦の家族は県内の避難所をあちこち移って、最後にようやく千葉の親戚の近所に落ち着いた。
ここの避難勧告が解除されたのはそれから三年後だ。その間に、おじいさんは認知症が進んで施設に入ることになったし、おばあさんは足を悪くして出歩けなくなった。それでも両親は滅苦を千葉に残したまま、村に帰って農業を再開した。とにかく誰かがやらないと、何も始まらないからって。
もちろん、事はそう簡単じゃなかったけど、二人は頑張ったよ。彼らの他にも村へ戻った人たちはいたし、千葉にいた時に知り合ったボランティアも、農作業を手伝ったり、あちこちのイベントでこの村の作物は安全ですってアピールしたり、熱心に応援してたからね。
そうやって地道に努力を続けるうちに、色んなことが少しずつ動き始めた。ニュースやなんかで紹介されたり、即売会で野菜を売る機会が増えたり。だから、彼らを支えていたボランティアの人たちはもう大丈夫だろうと考えて、活動は下火になっていった。
でも、村の人は一部しか戻っていないし、学校も診療所も再開できないままだ。ある角度から見れば村は元に戻り始めていたけれど、見方を変えれば解決していない問題だらけだった。でもボランティアの目標は農業の再開を応援する事であって、行政の問題は管轄外だったんだ。
そうやって、村にいる人たちと、外から応援してる人たちの間に少しずつ距離が開いて、それはある日、決定的になった。
毎年秋の連休にやっていた収穫祭のイベントがあってね、滅苦の両親はボランティアのメンバーに声をかけて招いたんだ。みんなは「楽しみにしてます」とか答えてたらしいけど、実のところは、誰かが行くだろう、でも自分は別の用事もあるし、ちょっと今回はパスかな、なんて考えていたんだ。
でも滅苦の両親はみんなが来るだろうと思って、ごちそうを準備して待っていた。ところがいつまで待っても、誰も来ない。何かあったのかとメールすると「ごめんなさい、ちょっと都合がつかなくて。でも来年は絶対」なんて返事ばかりが来る。
気の滅入る話だよな。なんだよお前ら、来ないなら最初からそう言えよ、バカヤロー。それくらい怒ってもよかったかもしれない。でも滅苦の両親は誰にも文句を言わず、わかりました、また次の機会はよろしく、なんて答えていたんだ。
そんな中でたった一人、みんな盛り上がってるかな、なんて呑気に考えながら、すっかり暗くなった頃に訪ねていった奴がいた。でも家の明かりは消えて、人の気配がない。不思議に思って誰かいないか探してみると、ガレージに停めた車のエンジンがかかったままだ。切り忘れかと思って中をのぞいたら、滅苦の両親がいた。二人は排ガスをを引き込んで自殺を図ってたんだ」
「滅苦がいるのに?あの子を残して?」
「これは俺の考えだけど、二人はどこかおかしくなっていたんだと思う。疲れました、ごめんなさいって、台所のホワイトボードにそれだけ書いてあったらしい。幸い、発見が早かったおかげで、お母さんは命を取り留めた。でも意識は戻らなくて、郡山の病院に入院することになった」
「滅苦は?」
「すぐに親戚と一緒に村に戻ったよ。でも斎場の都合がつかなくて、お父さんのお葬式は隣町で出すしかなかった。その後でまた色んな事が起きたんだ。両親のどっちが死のうと言い出したかで、互いの親戚の争いになったり。そこにお金や介護の問題なんかも絡んでね。
泉岳さん、さっき会ったお寺の住職も何とかとりなそうとはしたけど、一度こじれたものは簡単に戻らない。それで、滅苦をこれ以上親戚にあずけておくのはよくないからって、回り回ってうちのお寺に来たんだよね。
俺と初めて会った時の滅苦は、とにかく大人しかった。すごくいい子で礼儀正しくて、行儀もいいし、学校にもちゃんと行く。要するに、全く心を開いてない距離感だったなあ。打ち解けてたのは猫のソモサンとセッパだけだもん。
それでもどうにか冬が過ぎて、三月の初めだったな。お母さんの容態が急変したんだ。もう時間の問題だって連絡があってね。詳しい病状は伏せたままで、俺が郡山の病院まで送ってくことになったんだけど、ふだんあれだけ大人しい滅苦が、まるで別人みたいになってさ。一昨日のあんな感じがもっと激しくなった、というか」
「錯乱状態」
美蘭が乾いた声でそう言うと、黙如も「錯乱状態」と繰り返した。
「お母さんが死んじゃう。そんなの嫌だ、絶対嫌だって、椅子投げたり本棚倒したり荒れ狂ってさ。何かが憑りついたのかと本気で思う程で、俺はすっかりうろたえてしまった。そしたらお寺の
「笹目は偉くなんかないけど」
「でも実際のところ、何とかしてくれたよ。宇多子さんに呼ばれてきた笹目さんは、俺が取り押さえてる滅苦を見るなり、さて住職、あんたはどうしたい?ってたずねた。俺としてはとにかくあの子を落ち着かせてほしかったんで、そう頼んだよ。
でも笹目さんが言うには、滅苦は普通じゃないほどの怒りや悲しみを溜め込んでいるから、このまま落ち着かせるなんて無理な話で、やるとしたら記憶を塗り替えるしかないって。
いきなりそんな事言われても、俺は半信半疑だった。本当の記憶を封じ込めて、新しい記憶を吹き込むだなんて、まるでパソコンのファイルの上書きじゃないか。でも他にあてはないし、滅苦をずっと押さえ続けてるわけにもいかなくて、俺はその、記憶の塗り替えってやつをお願いしたよ」
「なるほどね、笹目はずいぶんと手の込んだことをやったんだ」
「仕事に取りかかる前に、笹目さんはこう言った。住職、嘘ってのは見えないものだが、けっこうな目方がある。その重さをあんたはこれから何年も背負うんだからねって。俺はただ頷くしかなかった。そして笹目さんは本当に滅苦の記憶を塗り替えてしまった。どんな事をしたのかは判らないけど、とにかくうまく行ったよ」
「その間に、滅苦のお母さんは亡くなったわけね」
「ああ。でも俺は後悔してない。だって滅苦はすごく元気になったし、ずっと幸せそうだから。お父さんとお母さんだってきっと、あの子にそうあってほしいと願うはずだ」
黙如は墓石に向かって合掌し、軽く一礼してから、妙に明るい調子で「冷えてきたな。そろそろ行こうか」と、踵を返して歩きはじめた。確かにここは寒いな、と思いながらその後に続いた僕の背中に、美蘭がそっと指先で触れた。
警戒して振り向くと、その手はすぐに引っ込み、美蘭はそっぽを向いたまま「本当にいるのか、確かめただけ」と言った。
僕は本当にいるんだろうか。
小さい頃に死にかけて助かったなんてのは嘘で、とうの昔に死んでいて、美蘭の記憶の中にいるだけじゃないんだろうか。
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