すっかり世話になってる
「それじゃ、お先に失礼します。皆さん、たいへんお世話になりましたぁ」
「新学期だってのに二日も休んでるし、早く戻らないとね」というのが
年寄ばかりの湯治宿、滅苦はわずか一日でアイドルとなり、お菓子や果物はもちろん、タオルや小銭入れなど様々なものを贈られ、はち切れそうな紙袋を両手に提げて帰ることになった。
うわべは笑って手を振りながら、
「これはもう活仏レベルね。春休みに布教ツアーで連れて来よう。色紙一枚三千円に生写真つけて、あと法話のDVD。ファンクラブも作って、年寄相手だから会報は紙媒体がいいかな」
そう言う美蘭も男性客に、そして黙如は女性客に、それぞれ人気だったけど、総合点では滅苦に遠く及ばない。そして僕はもちろん圏外。
後ろ向きになっても手をふり続けている、滅苦を乗せたワゴン車が雪深い坂を下ってゆくと、湯治客たちは口々に「いい子だったねえ」などと言いながら、建物の中へと引き上げた。もちろん笹目はその中にはいない。彼女は夜久野一族らしく、人が集まる場所を極端に嫌うから。
そして女性客たちは滅苦が去った空白を埋めようと、こんどは黙如の周囲に群がっていた。
「和尚さんはまだしばらくいるよね。せっかくだから、何かためになる話でも聞かせてちょうだいよ」
「どうかなあ、俺って駄目になる話しかできないんだけど」
この程度の受け答えでも笑いがとれるんだから、刺激に飢えている湯治客というのはありがたい。しかし実際のところ、そんな話をしている時間などなかった。僕らにはまだ行くべき場所があるのだ。
昨夜、ようやくおにぎりを食べ終えた僕を、黙如は卓球に興じていた板の間まで連れ戻した。
青白い蛍光灯に照らされたその場所は、束の間のうちに寒々とした雰囲気になっていて、卓球台はまるで解剖台のように見えた。黙如が壁際に並んだ籐椅子に腰を下ろしたので、僕も空いた椅子に座り、滅苦にもらっていた干し柿を食べ始めた。
「今回は本当に、色々とお世話になっちゃって」
いきなりそんな言葉を発して頭を下げ、黙如は浴衣の上に羽織った丹前の前をかき寄せると「湯冷めとか、大丈夫?」と訊ねた。
でもまあ、それは本題に入る前の安全確認みたいなものらしく、黙如は両手で顔を撫でてわざとらしい溜息をついてから、「滅苦の事なんだけどさ」と口を開いた。
「あの子はちょっとその、わけあって両親と住めないんで、うちのお寺で預かってるんだよね」
「お寺経営について、黙如さんから学んでるって聞きましたけど?」
「まあそれはつまり、そういう事にしておけば、収まりがいいからって理由で」
黙如の言葉は、いつになく歯切れが悪い。
「俺なんてのはただの雇われ和尚で、坊主カフェだの何だの、やってる事は試行錯誤の繰り返しだよ。偉そうに人に教えられる事なんてないから」
「じゃあ、どうして滅苦は黙如さんのところにいるんですか?」
「うん、知り合いが滅苦の両親と親しくて、その関係で」
「知り合い」
「知り合いというか、女友達というか」
「女友達」
「女友達というか、俺はその人とつきあっている」
「つまり彼女?」
「まあ彼女と言うか、結婚前提だから婚約者だな」
まるで出世魚みたいに肩書が変わるけど、僕はようやく、その婚約者というのが
キジトラ猫を通して味わった彼女の膝の心地よさと、泣く彼女の肩を抱いていた黙如の姿が甦ってくる。黙如なんかで妥協しなくても、綾さんにはもっとふさわしい男がいるだろうに。まあ、それが僕ではない事も確かだけど。
僕が無言なのを別の理由だと思ったらしく、黙如は「あのさ、坊主が結婚しないなんての、実際問題として無理な話だからね」と言い訳めいた事を口走った。
「もし一生独身の坊主がいたとしても、その理由は一般の結婚しない人とほぼ同じだから。戒律守ってるなんてごくごく、ごく一部」
僧侶の妻帯の是非はどうだっていい。僕は「そうですか」と答えて話の続きを待った。
「ええと、それでだ、俺は婚約者とボランティア活動が縁で知り合った。彼女のサークルでは福島の農家を支援しててね、何ていうか、原発事故の後で農産物の風評被害ってのがあったのは、わかるかな」
「放射能に汚染されてるんじゃないかってやつ?」
「そう。出荷前にちゃんと検査を通ってるのに、それでも福島から出荷されたってだけで買い手がつかなかったり。それで困ってた農家の人を支援するサークルだ。即売会を開いたり、検査機関が出した数値をネットで公表したり、勉強会を開いたり、産直野菜を使った移動レストランや交流ツアー。色んな事をやってた。それでさ、うちのお寺も即売会に場所を貸したりして」
「ふーん」と生返事をして、彼がどんな風に綾さんを口説いたか考えてみる。まあどうせいつものように、図々しい上に軽いノリでいったんだろう。面白くもない。
「けど、滅苦の家はお寺でしょう?どうして農家を支援するサークルと関係あるんですか?」
「それはさ、ボランティアのメンバーが行くときはお寺に泊めてもらったり、色々と世話になって」
「でも、風評被害って、最近そんなの聞かないように思うけど」
「そうだね、かなり収まってはきたね」
「だったら、それでいいんじゃないのかな」
「いや、そういうわけでもなくて」
言いかけて、黙如はまた顔を撫でると、運勢でも読もうとするように掌を見る。僕は僕で、一体何がどう滅苦と関係するのかさっぱり見えなくて、だんだん面倒くさくなってきた。
ようやく、黙如がまた口を開こうとしたその時、「ここにいたんだ!」という滅苦の声がした。
「何をそんなにびっくりしてるの?」
文字通り飛び上がりそうになっていた黙如を不思議そうに見ながら、滅苦は「せっかくコーヒー淹れたのに、冷めちゃいますよ」と言った。
「いやちょっと、亜蘭から恋愛相談を受けちゃって」と、黙如は口から出まかせ。「はい、じゃあそういう事で、がんばってね!」と僕の肩を叩いた。
「そんな相談してないから」という反論はもちろんスルーされ、全てはうやむや。部屋に戻った僕らはその後なぜかプロレス技の研究を始め、いつの間にか眠っていたのだ。
「ああ、かったるい。もうちょっと勢い出してくんない?」
後部座席の美蘭は、僕が座る助手席の背を蹴りながら伸びをした。彼女の膝には猫のソモサンが乗っていて、その隣ではセッパが眠っている。
「といっても雪道だからねえ。高速に入ったらパーっと行くから我慢してよ」
ハンドルを握る黙如はかなりの低姿勢で、美蘭の暴言に耐えている。
来る時に突っ込んだ雪だまりも通り過ぎて、僕らの乗ったレンタカーは元来た道をずっと引き返していた。でも、まっすぐ東京に戻るわけではなく、目指すのは黙如がカーナビに入れた住所だ。
「私はとにかく早く帰って、
「小梅?君の彼氏は
「何の話?小梅は三毛猫よ。二日も顔見てないから、拗ねちゃってるかもしれない。すっごく大事に育てられたせいで、女王様気質なの」
「女王様気質か。君と一緒だね」
「判ってるんなら、もっと気遣い見せてよ」
「だからさ、節分の鬼プロレスで、ちびっこ軍団のプリンセスをオファーしてるじゃない。俺は本気だからね」
たぶん退屈しのぎだろうけど、二人の会話は途切れない。美蘭は黙如のことを「やだよねえ」とか言ってたくせに、やっぱり本当は三十代が好みなのかもしれない。
まだ昼前だというのに、どんより曇った空はのしかかるように薄暗い。そう感じるのは気持ちのせいだろうか。
あれから一晩が過ぎたのに、僕の中にはまだ、滅苦の記憶の、そのまた記憶という奴がしっかりと居座っていて、忘れかけていた口内炎みたいに、ふとしたはずみで刺すように痛むのだった。
痛み、とそれを呼ぶのは正確じゃないかもしれない。
一瞬で全身をきつく締め上げるような苦しさで、自分の周囲だけ空気がなくなってしまうような恐怖を伴う。そして、もう何もかも取返しがつかないのだという、絶望的な冷たさと虚しさが身体中に浸み込んでくるのだ。
そいつが襲ってくるたび、僕は意識をソモサンに飛ばした。
美蘭の膝の上で、もうちょっと身体がしっくりくる場所を探して、前足を伸ばしてみたり、頭の位置を変えてみたりしていると、少しずつ気が紛れてくる。
「なんかこの猫、妙に甘えてくるね」
まずい、ばれたら後でどんな報復を受けるか判らない。僕はソモサンとの接触を最小限に絞り、助手席で眠ったふりを続けた。
「そう?ふだんは二匹とも、俺にはそっけないんだけど。心の優しい女の子には甘えるのかもね」
「どうだか」と言いながら、美蘭はソモサンの耳の後ろを指先でゆっくり掻いた。僕と猫が思わずごろごろと喉を鳴らしていると、黙如が「ところでさ、ちょっと質問していいかな」と、あらたまった声を出した。
「君たちと笹目さんって、どういう関係なの?親戚とは言ってたけど、どのくらいの?」
「私まだ、質問していいかどうか答えてないわよ」
「いやまあ、個人情報だし、答えたくないなら仕方ないけど」
ふん、と鼻をならして、美蘭は「同じ苗字を名乗ってるんだから、同じ一味と見做されるかもね」と、他人事のように答えた。
「でも、どのくらいの親戚ってのは、よくわかんない。少なくともおじさんおばさんとか、そんな近いもんじゃないわね」
「それでも親戚づきあいってのは、あるんだ」
「誤解のないように言っとくけど、私達はできるだけ関わり合わないようにしてるの。お互いに嫌いだから。ただ、必要最小限の業務連絡はするってだけよ。それより、黙如さんはどうしてあんな偏屈ババアと関わってんの?」
「いやまあ、俺が東林寺に来た時には、笹目さんはもう離れに住んでたんだよ」
「でもあいつ絶対、挨拶すらしなかったでしょ?」
「そうだなあ。家賃はいつも郵便受けに入ってるし、最初の頃はほとんど見かけたことなかったな。ただ、
「有難い」と、美蘭はちゃかした口調でその言葉を繰り返した。
「そうだよ。失くした物はどんなに小さくても見つかるし、心霊現象はもちろん、ストーカーまでお祓いしてくれて、お寺の檀家さんより客層が広いって話だったなあ」
「でも、まともな宗教法人の敷地に、そんな怪しげな人を住ませちゃ駄目でしょ?」
「どうなんだろうね。俺もその辺の事情は全く知らないけど」
「きっと、いい加減な嘘ついて住み着いちゃったのよ。家賃もただ同然じゃない?」
「うーん、あの辺の相場よりは安いかもね」
「絶対みんな騙されてる。来月から大幅に値上げしなさいよ」
美蘭はそう言ってまたソモサンの耳の後ろを掻く。黙如は彼女を諭すように「笹目さんの事、そんな風に言うもんじゃないよ」と言った。
「少なくとも、俺はすっかり世話になってるんだから」
ふと気がつくと、辺りの景色は一変していて、車は寂しげな山あいの道路を走っていた。僕はどうやら眠っていたらしい。
身体を起こし、ドアポケットに入れていたペットボトルの水を少し飲む。
カーナビの画面から察するに、車はもう福島に入っているのだ。黙如は少し疲れた横顔でハンドルを握っていて、美蘭は眠っているらしい。
雪雲こそないけれど、空は薄曇りで、ぼんやり発光する午後の太陽はかなり傾いている。両側から道路を見下ろす山肌のほとんどは雪に覆われ、路肩にも灰色がかった根雪が延々と残っていた。
「ねえ、その先の、つるや食堂ってとこでちょっと停めてくれる?お腹空いたのよね」
眠ってたはずの美蘭が、いきなり前に身を乗り出してきた。
「ああ、了解」
黙如は指示器を出して車を左に寄せる。その先に大きな横長の看板が出ていたけど、「つ」の字が消えかけて「るや食堂」としか読めない。駐車場がサービスエリア並みに広く、そのせいで平屋の店舗がひどく頼りなげに見えた。
「美蘭、この店のことよく知ってたね。トラック野郎には人気の店だけど」
確かに、この山あいのどこから現れたんだろうかと、不思議になるほどのトラックが駐車場に停まっている。僕らのレンタカーはまるで象の群れに迷い込んだ羊だった。
「そんなの、検索すればすぐ出てるし」
「俺はどうも、そういうの使いこなせなくて」
車を停め、外に出た黙如は軽く伸びをしてから歩き出す。美蘭はその後ろに回り込むと、いきなり目隠しした。
「黙如さん、後ろの正面誰だ?」
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