その泣きっ面

 僕は普段ほとんど実感することのない、幸せというものを満喫する。

 黄身の盛り上がった桜卵を溶いて醤油をたらし、湯気をたてている白いご飯にかけ、いい具合にかきまぜたら、一気に食べ始める。途中でちょっと一息ついて、海苔なんかのせてみるけど、それがご飯になじむのも待たずにまた食べる。

 食卓にはこの他にも豆腐の味噌汁、鯵の開き、ほうれん草の胡麻和え、玉こんにゃく、そして白菜の漬物が、僕に食べられるのを待っている。部屋の隅にある石油ストーブは青く燃え、その上で古びたやかんが絶え間なく蓋を震わせている。

「お兄さん、見かけない顔だけど、いつお見えになったの?」

 毛糸の帽子をかぶり、蛍光ピンクのフリースを羽織ったおばあさんが、ポットのお茶を湯呑に注ぎながら声をかけてくる。

「今朝、着いたところです」

「ああらそう。元気そうに見えるけど、どこが悪くてこんな辺鄙な宿まで湯治に来なさった?」

 美蘭みらんがいたら「性格が余命三か月なんです」とか言いそうだけれど、僕は「ちょっと親戚に会いに」と正直に答えた。おばあさんは「道理でねえ。ここには病人と怪我人と年寄しか来ないからねえ」と納得しながら、フリースのポケットから蜜柑を取り出した。

「よかったら食べてちょうだい。ここは本当に温泉以外に何もないところだから、若い人には退屈でしょう」

「ありがとうございます」と蜜柑を受け取り、僕はまた食事を続ける。たとえここに温泉すらなくても、別に構いはしない。後はもう眠りたいだけだから。


 雪だまりに突っ込んだレンタカーを乗り捨て、僕らが歩いてこの旅館にたどり着いたのはかろうじて夜明け前。玄関は開いてなかったけど、朝食の準備は始まっていて、厨房から声をかける事ができた。

 といっても、中に入れたのは美蘭と黙如もくじょ滅苦めっくと猫二匹。僕は車を回収するため、旅館の人が運転する四駆に押し込まれた。

「いま食べ物なんか与えたら、眠りこんで二度と起きてこないから」というのが美蘭の主張で、それはまあ、外れてはいなかった。幸いなことに、車はすぐに引っ張り出せて、僕は今、こうして朝食をとっているわけだ。

 もらった蜜柑も食べ終え、少し落ち着いて周囲を見回す。

 外から見たこの旅館はずいぶん古びた木造建築だったけれど、この食堂は改装したらしく、壁や床材にテーブルと椅子、全てがなじみの浅い明るさを保っていた。

 部屋は十分に暖かくて窓ガラスは白く曇り、外の雪景色は輪郭を失って滲んでいる。僕の意識も輪郭を失い始めて、圧倒的な眠気が襲ってくる。でも寝るならちゃんと横になりたい。僕は気力を振り絞って立ち上がった。

 食堂を一歩出ると、時間の断層をくぐり抜けたみたいに、古い世界が始まる。太い柱や梁は煤けたような色で、奥へ奥へと伸びる廊下は薄暗く、朝か夜かも定かではない。

 たしか「椿の間」だったよな、と思いながら、僕は廊下の左手に並ぶ部屋の木札を確かめながら歩いた。番号の方がずっと簡単なのに、桔梗、竜胆、木蓮、と脈絡なく植物の名前が現れては消え、もしかして記憶違いかと思い始めたところへようやく、「椿」の文字が目に入る。

 下が格子になった引き戸を開けると、ちょっとした板の間の向こうにまた襖。「入るよ」と、一応ことわって、僕は襖を開ける。中はカーテンを閉め切って薄暗く、笹目ささめが一人でこたつに入っていた。

「みんなは?」と訊ねると、黙ってあごをしゃくる。開いた襖の向こうにある次の間で、布団にもぐっている美蘭の髪が見えた

「滅苦と黙如は?」

「あんたの姉さんが追い出した。嫁入り前だから殿方と同じ部屋じゃ寝られないだとさ。どこまで自分に値打ちをつけるんだか。気位の高いところは母親そっくりだね」

「それ、美蘭には言わない方がいいよ。ぶち切れるから」

「本当のこと言って何が悪い」

 笹目は細い目を思いっきり見開き、湯呑に入っていたお茶をすすった。

「滅苦は?元に戻った?」

「そうでなけりゃ、こんな呑気にしてるはずがないだろう」

 まったく、いちいち嫌味で返さないと気が済まないのも夜久野一族ならでは。とにかく、問題は解決したみたいだし、僕は眠くて仕方ない。

「こたつで寝ていいかな」

「邪魔だからやめとくれ。布団敷いて寝るんだね」

 あくびを連発しながら、僕は押し入れから布団を出した。美蘭のそばは危険だけど、今から黙如の部屋まで行くのも面倒くさいし、こっちの部屋で寝よう。

「何時に引き上げるとか言ってた?」

「知らないね。こっちは今すぐにでも帰ってもらいたいんだよ」

 そう言って笹目が座り直すと、こたつの中から猫のソモサンとセッパが出てきた。どうも僕の布団を狙ってるみたいだけど、まあいいか。二匹ともいい具合に暖まってるし。

 寄って来たソモサンを毛布の下に入らせ、少し離れたところにいるセッパを抱き上げようとしたその時、笹目の声が聞こえた。

「おやめ」

 たしかそう言ったと思う。でも確信はない。何故ならその瞬間、僕の指先で何かが炸裂したからだ。

 その衝撃は乾いた冬の日、不意打ちで襲ってくる静電気を何倍にもした激しさで、僕ははっきりと髪の毛が逆立つのを感じた。でもそれも一瞬のことで、すぐに視界は真っ暗になり、何かの警報みたいな甲高い耳鳴りが頭の中で膨れ上がった。

 身体の自由がきかない。僕は自分の手足を邪魔な荷物のように感じながら、布団の上に倒れ込んでいた。


 僕は泣く。

 涙はとめどなく溢れてきて、抑える術がない。胸の真ん中に重く冷たい、石のような塊が居座っていて、そいつが僕を押し潰すせいで、全身の細胞に蓄えられた水は、残らず涙になって流れてしまうのだ。

 今まで大切にしてきたものが何もかも失われて、これからも続くと思っていたものが、何もかも断ち切られて、ずっと一緒にいられると思っていた人たちが、誰もいなくなる。目の前に続くのは果てしない闇で、振り向いた先にかろうじて見える懐かしい世界は、光の速さで遠ざかってゆく。

 怒りと、悲しみと、憎しみと、寂しさと。恐怖と、絶望と、不安と、焦りと。憐みと、後悔と、疑いと、裏切りと。

 それらは炎のように足元から這い上がってきて、僕を焼きつくす。なのにその後も、僕はまだ存在して、全ての苦しみを感じ続けている。消えてしまう事もかなわず、重い塊に押さえつけられて、どこへも逃げられずに。

 そして僕は問いかける。何故?どうして?それから呼びかける。誰か助けて。

 でも助けてくれる相手なんて、もうどこにもいない。

 僕が求めているのは、時間を戻すこと。あの日あの瞬間の前、全てが完璧に調和して満ち足りていた時まで戻って、そこに留まること。それ以外の何も、僕は求めていない。


「本当に馬鹿だねえ」

 気がつくと、笹目の仏頂面が僕を見下ろしていた。

「猫がいれば見境いなく撫で回す癖がまだおさまらないとはね。その調子じゃ、寝小便もまだやってるんだろう」

 何か言い返してやりたいけど、言葉が出てこない。笹目の向こうにぼんやり見えるのは天井の木目で、僕は仰向けに寝ているらしい。

 視線を動かして周囲の様子をさぐっても、薄暗い部屋の中、特に何も変わったものはなさそうだ。ただ、僕の内側、あの重い塊の居座っていた場所が、大きな石をひっくり返した後みたいな、暗く湿った穴になっているだけだ。

 そこにいるのはミミズやハサミムシといった地中の生き物じゃなくて、僕自身の記憶の底にある、忘れてしまいたい出来事ばかり。いきなり明るい場所に引きずり出されて、奴らは跳ねたり捻じれたり、まだ命を失っていないことを存分に見せつける。

 真冬の夜中にパジャマ一枚で、裸足のままベランダへ締め出されたり、こっちは二日間飲まず食わずなのに、目の前で焼きたてのチョコレートケーキを食べられたり、身体を押さえつけられ、指と爪の間に太い針を刺されたり、死ぬほど眠いのに、少しでも目を閉じると煙草の火を押し付けられたり。

 飢えや痛みの記憶と絡み合ってよみがえるのは、あの女の罵声と哄笑。そして時おり、気味悪いほどに優しい愛撫。

 僕はそいつらが闇を求めて穴の底に戻るのを、ただじっと待った。目を閉じると残っていた涙が頬を伝って流れてゆく。でも、どうして僕は泣いているんだろう。


 しばらくしてもう一度目を開くと、少しだけ気分がましになっていた。

「いま、何時?」

 ようやく声が出せたけど、別の誰かがしゃべってるみたい。笹目が相変わらず馬鹿にした調子で「もうとっくに夜だよ。全く、猫みたいに一日中眠りこけて」と答えるのが聞こえた。

 僕は手足の感覚が戻っているのを確かめ、ゆっくりと動かしてみてから身体を起こした。あちこち油が切れたみたいに軋むのは、夜通し車を運転していたせいだろう。

「さっき、何か変な感じがしたんだけど、僕は普通に寝てた?」

 こたつに座っている笹目は僕の質問を鼻で嗤った。暇つぶしに編み物をしていたらしくて、麻みたいな糸玉が畳の上に転がっている。

「変な感じ、かい。私の仕事を台無しにしといて、本当に呑気だね」

「仕事を台無し?どういうこと?」

「どうもこうもない。私がわざわざ滅苦の記憶を猫に封じ込んだのに、何の考えもなしにその猫を触るんだから。あんた、自分が猫と響くってのは百も承知だろうが」

「猫に、滅苦の、記憶?」

「そうだよ。ここは滅苦の住まいじゃないから、結界を張るわけにもいかないし、とりあえず猫に封じ込んで貧乏寺に持って帰らせるつもりだったんだよ。それをあんたが触ったせいで、全部そっちに流れ込んじまった」

「流れ込んだって、じゃあ、さっきのあれは、滅苦の?」

 そう言った途端に、あの重い塊がまた戻ってきたような感じがして、胃のあたりに鈍い痛みが広がる。涙が勝手に溢れてきて、視界がぼやけた。

「全く厄介な事だよ。けどご心配には及ばない。あんたに今残ってるのは滅苦の記憶の、そのまた記憶って奴さ。楽しいもんじゃあないだろうが、じき消えるよ」

「じゃあ、滅苦の記憶はどうなったの?」

「また猫に戻すわけにもいかないし、うちの子がひと働きしてくれたよ。礼を言ってもらいたいね」

「うちの子、って、まさか」

 嫌な予感がして、僕は慌てて布団をはいだ。そこには胴の太さが人の腕ほどもある、白蛇がとぐろを巻いていた。僕はそれが何なのか考える前にもう飛びのいていたけれど、勢い余って襖に突っこみ、外れた襖ごと次の間に倒れ込んでいた。

「何をやるにも騒々しいねえ」

 笹目は心底うんざりした口調でそう言うと、こたつを出て白蛇の傍に腰を下ろした。彼女の節くれだった手が近づいただけで、蛇はルビーの目を光らせて頭をもたげ、縄がほどけるようにするすると移動してその腕に絡みつくのだった。

 僕はもう、見ているだけで全身が総毛立つ。小さい頃から死ぬほど苦手だった、笹目が一番可愛がっている白蛇。

「この子があんたにとりついた滅苦の記憶を全部呑み込んでくれた。どうやったか、なんて野暮は言わないよ。せいぜいがまあ、こんなとこさ」

 そう言って笹目は鱗を光らせた白蛇を腕に絡め、首に這わせて、新月のような目を更に細めて笑う。僕は自分の身体に白蛇が触れたという事に思い当たって、冷や汗が滲んできた。

「いいかい、この子はじきに卵を産む。滅苦の記憶はその中だ。あんたはその卵を私の言う場所まで運ぶんだよ。わかったかい?」

「そんなの美蘭にやらせればいい。あいつが結界を破ったんだから」

「うるさいね。あんたが猫から記憶を引き抜いたんだから仕方ないだろう。判ったらさっさと風呂でも入って、その泣きっ面を何とかしてくるんだね」

 僕は途端に、笹目の前で小さな子供みたいに涙を流していた事が腹立たしくなってくる。とにかくこの部屋を出よう。そう思って立ち上がり、倒れた襖を起こしてみると、大きな穴があいていた。

「そうそう、壊したものは自分でまどうておくれよ。私は玄蘭とは違って、あんたらの尻ぬぐいを買って出るほど物好きじゃないんだ」

「玄蘭さんも、喜んでやってるわけじゃなさそうだけど」

「そうと判ってるんなら、もう少し迷惑かけずにいられないのかい?あの性悪鴉の愚痴はさんざん聞き飽きたよ。姉さんにもそう言っときな」

 それ以上相手をするもの面倒で、僕は黙って破れた襖を元の場所に戻す。隣の部屋はもぬけの殻。美蘭にさっきの騒ぎを知られずにすんだのは、不幸中の幸いだった。


 湯あたりってこういう事かと思いながら、僕はぼんやりした頭でふらふらと大浴場を後にした。力が入らないのはきっと空腹のせいだ。夜食とか頼めないかと、人のいそうな場所を探してみる。

 食堂に続く廊下は真っ暗で静まり返っている。玄関は明かりがついているけど無人。建物に暖房が入っていても、外の冷気が壁ごしに沁み込んでくるのがはっきりと判る。日本家屋ってどうしてこんなに寒くできてるんだろう。

 足元で甲高い悲鳴を上げる廊下を、笹目の部屋とは反対の方へと曲がってみる。先には六畳ほどの板の間があって、そこに据えられた卓球台では、黙如と滅苦が浴衣をはだけてラリーに興じていた。

「おーっと、待ってたんだよ」

 黙如は手元にきた打球の勢いを殺し、高く跳ね上げてつかみ取ると、僕の方に向き直った。

「眠り姫、ようやくお目覚め。運転長かったもんねえ」

「みんな、もっと早く起きてたの?」

「あんまり大差ないかな、晩飯まで寝てたし」

「僕もそんな感じです」と寄ってきた滅苦は、いつもの彼らしい屈託のない笑顔だ。昨夜の取りつかれたような目つきの少年と、同一人物だとはとても思えない。

「どうしたんですか?僕の顔に何かついてます?」

「いや、そうじゃないけど」

 でも、本当の滅苦は一体どちらなんだろう。

 そう考えるうち、僕はつい、自分を打ちのめして通り過ぎた、あの重苦しい塊を思い出してしまった。途端に胸がつまり、視界が涙でぼやけて、思わずその場にしゃがみこむ。

「亜蘭さん、どうしたんですか?さっきから何だか変ですよ?」

「風呂でのぼせたんじゃない?冬場の脱水は危ないんだよ。ちゃんと水飲まなきゃ」

 滅苦と黙如が覗き込むけど、泣いてるなんて絶対に気づかれたくない。僕はうつむいたまま、「お腹すいて倒れそうなんだけど」と誤魔化した。

「やっぱり、お姉さまの言った通りだ」

「美蘭の、言った通り?」

「亜蘭さんが後で起きてきたら、腹減ったとかギャーギャー言うから、って、お姉さまが旅館の人におにぎりを頼んだんです。黙如さんの部屋に置いてありますよ」

「ギャーギャーなんて言ってないけど」

「でもお腹すいてるでしょ?おにぎりの他にも、湯治のお客さんから、色んなものもらったんですよ。ビスケットに干し柿に羊羹に濡れおかきに芋けんぴ。あと、松露ってわかります?海坊主みたいな形の」

「なんとなく」と答えながら、僕はほっとしていた。涙もおさまったし、何より、朝まで空腹を我慢せずにすむ。先に立って廊下を歩き出した滅苦に続こうとしたら、黙如が「亜蘭」と小声で引き止めた。

「ちょっと話があるんだけど」

「おにぎり食べてからでいい?」

「ああ、そりゃもちろん」

 何だか言い難そうな顔をしてるけど、今の僕に大切なのは胃袋の問題だった。







 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る