見返りもない行軍

 闇の中を近づいてくる、「積雪注意」の文字そのものが、舞い散る雪で見えにくい。

 路面は除雪されてるけど、それも高速を降りるまでの話。先はどうなってるのか、考えると気が滅入る。

 前を走るトラックのテールランプはほとんど幻で、バックミラーに映るのは暗闇だけ。

 助手席では美蘭みらんが気持ちよさそうに寝息をたて、後ろの席では滅苦めっくが猫のセッパを抱いたまま眠り、その隣では黙如もくじょがこれまた眠りこけている。一緒に連れて来たソモサンも、彼の膝の上で眠ってるはずだ。

 夜の奥から湧き上がる雪は、僕をからかうように渦を巻いてぶつかってくる。ワイパーの動きは頼りなくて、いつ止まってもおかしくない気がする。そろそろ休憩して、何か甘いものでも食べて、熱いコーヒーを飲みたいんたけど。


 乱心、とでも言いたくなる変調を来した滅苦を正気に戻すため、僕らは笹目ささめのいる山形の温泉宿に行かなくてはならない。夜が明ける前に。

 事の原因は美蘭にあるはずなのに、彼女は平然と「あんたがサバエちゃんと素直に仲直りしなかったせいよね」と、僕に責任転嫁した上に、運転まで強要してきた。

「だってモヒート飲んじゃったしさ。こんな事だと判ってたらシラフでいたんだけど」なんて心にもない事を言う。さらに面倒なのは、黙如までくっついて来たことだった。

 美蘭はそれを追い返しもしない代わりに、「ねえ、滅苦の事と笹目と、どういう関係があるのよ」と探りを入れたけれど、黙如は「そこはまあ、個人情報だからね」とごまかしてしまった。この男、普段はうるさいほど喋るのに、変なところで口が堅い。

 いきなり大きな欠伸が出て、僕は時計を確かめた。

 深夜とも未明とも呼ぶべき時間。目の前の闇と、ヘッドライトに照らされた道路と、渦を巻いてぶつかってくる雪は途切れることがない。

 今この時、綾さんと猫のジャコ、ことミント一号はどうしてるだろう。

 僕はキジトラ猫を通じて味わった、あやさんの膝の温もりを思い出していた。暖かくて、いい匂いがして、柔らかいんだけど、しっかりと存在感がある。ミント一号はきっと綾さんと寝てるだろうけど、ベッドのどの辺りにいるだろう。布団の上か、中にいるのか。中だとしたら、綾さんの身体の、どの辺りにくっついてるだろう。滑らかな鎖骨に頭をのせているか、白いふくらはぎに前足をかけているか。それとも・・・

「なんか怪しげなこと考えてるだろ」

 いきなり美蘭の声がして、僕は我に返った。横目で盗み見ると彼女は右目だけ開いてこちらを睨んでいる。

「コーヒー飲みたいと思ってただけだ」

 平静を装うけど、わずかに揺れた車体がハンドルのぶれを物語る。

「あらそう。四年生の時に清掃ボランティアやらされて、エロ本拾ってきた時とおんなじ顔してたけど」

「くっだらない!」

「まあ、居眠りするぐらいなら、妄想ふくらませてる方がましだけど」

 それだけ言うと美蘭は身体を起こし、伸びあがって、後部座席にいる黙如の様子をうかがった。

「俺は滅苦の保護者だから一緒に行かなきゃ、なんて偉そうなこと言ってた割に爆睡か」

 彼女は座り直すと、高速に乗る前に寄ったコンビニの袋に手を突っ込み、飴玉を取り出して舐め始めた。安っぽいサイダーのフレーバーが車内に広がる。

「あげようか」と勿体ぶった台詞を無視していると、「手」と命令してくる。犬じゃあるまいし、と苛立ちながら出した左の掌に、うずらの卵ほどもある飴玉がのせられた。口に放り込むと、こちらはオレンジのフレーバー。馬鹿みたいな勢いで炭酸が弾けまくって、舌が痛いくらいだ。

「何これ、罰ゲーム用?」

「小学生の間で流行ってるらしいよ。ガキって変なもん喜ぶよねえ」

 そういう自分が食べてるくせに。僕は頭に響くパチパチという音を聞きながら溜息をついた。

「もうちょっとスピード上げらんないの?」

「これ以上は無理かな」

「いくらこの季節は日の出が遅くても、夜明け前はけっこう厳しいわね。笹目ってば、滅苦の何を封じこめてるんだと思う?」

 珍しく、美蘭は僕の見解を求めているらしい。

「たぶん、滅苦一人の問題じゃないんだよ。黙如とか、あと、ミント一号を飼ってる綾さんって人とか」

「ああ、あのクソ女。ひとんちの猫を着服しやがって。黙如は坊主のふりしてるけど、きっと犯罪者だね。なんかヤバいことしてて、それを滅苦に知られちゃったのよ。でさ、ばれたらお母さんを殺すとか、脅してるんじゃないの?」

「それにしては、滅苦と仲が良すぎるけど」

「後ろめたさがそうさせてるのよ。イベントとかやってるのも、世間の目を欺くためだね。イケメン和尚とか言われてるけど、すっごい腹黒そうだし」

 そう言う美蘭こそ、桁外れに腹黒いのに。僕はまだそこまで黙如を疑う気になれないな、と思ううち、サービスエリアの標識が現れた。当然のように指示器を出すと「やめろ馬鹿」と叱責される。

「この状況で、なんでのんびり休憩できると思うのよ」

「コーヒーぐらい飲んでもいいだろ。お腹も空いたし」

「寝言はやめて。この飴いっぺんに三個ぐらい食べれば、いま必要なカロリーは補給できるわよ」

 無理に車を停めたら殺されかねない。僕は再びアクセルを踏んだ。


 幸運なことに、高速を降りた頃から雪は小降りになり、やがて止んだ。といっても空は鉛色の雪雲に閉ざされて、いつまた降り出すか判らない。融雪設備のある道なんて市街地だけで、笹目が湯治をきめこんでいる温泉に向かう道は雪また雪だ。

 僕はもちろん、こんな雪道を走った経験なんかない。ただ、ハンドルの手ごたえだとか、タイヤごしに伝わる路面の感覚を頼りに、手探りみたいにして進むだけだ。おかげで眠気を感じる暇もないけれど、神経を張り詰めているせいで肩だの首だの、悪い霊にでも憑りつかれたような重さだ。まあ、霊の存在は全く信じてないんだけど。

 美蘭は再び眠り込んでいて、黙如と滅苦も相変わらず夢の中。この闇夜の底で僕ひとりだけが、何の見返りもない行軍を続けている。

 ここにサバエがいてくれたら、退屈しないのに。

「えっ?」

 気がつくと僕は声を上げていた。今、何か変なことを考えなかったか?自分の考えじゃないような、起きたままで夢を見てるような。

 僕はたぶん疲れ切っていて、だから奇妙なことを考えてしまうのだ。車内の空気が悪くて、酸欠なのかもしれない。

 何度か首を振って、真柚まゆの優しげな笑顔を思い浮かべる。せっかくミント一号を見つけたんだから、僕はもうサバエから解放されるのだ。そして、まずはとりあえず、ミント二号を通じて真柚との距離を縮める。いや待て、それよりもキジトラ猫を使って、綾さんのところに泊まりに行こうか。

 ハイビームにしたヘッドライトの先は、白と黒、無限のグラデーション。こんな風に雪が降りしきる夜なら、綾さんは絶対にキジトラを追い返したりしない。ああ、でもまたハクビシンがぞろぞろと現れたらどうしよう。

 美蘭の奴、いつの間に蜂を使ってあんな獣を操れるようになったんだろう。しかも群れで動かすなんて。同じ操るにしても、僕は猫一匹で手一杯なのに。しかしまあ、他の技なんかできたところで、押しつけられる仕事が増えるだけだ。そんなの面倒くさい。

 僕はいつだって美蘭の後ろに隠れてて、美蘭がいなければとっくの昔に死んでて、大人になっても美蘭の稼ぎをあてにして生きる。

 もちろんそれで構わないのだ。だってそれこそが、自堕落この上ない夜久野一族の生き方だから。でも、そのせいで美蘭に偉そうにされるのは我慢ならない。

 もし僕が猫で、猫だ、というその理由だけで誰かが飼ってくれたなら、大きな顔して暮らせるのに。僕は人生に多くを求めたりしないから、暖かな寝床と食事さえあれば十分だ。他のことなんて面倒くさいだけ。

 でも僕は猫ではないし、あと少しで大人になる。大人になってまで、美蘭に見下されていたくない。僕はどうして、猫の大人になれないんだろう。

 ああ、ここにサバエがいてくれたら、気が紛れるのに。

 そう思った次の瞬間、車は大きく揺れて停まった。

「何やってんのよ」

 美蘭の不機嫌生絞り百パーセントみたいな声が聞こえて、僕はようやく我に返る。目の前は真っ白な雪の壁。突っ込んでしまったのだ。

「だから飴玉舐めろって言ったのに」

「嫌ってほど舐めたよ。舌なんかもうザラザラだから」

 とりあえず反論だけしておいて、ギアをバックに入れる。エアバッグが作動してなかったのが不幸中の幸いだ。後ろからは黙如の「あ、どうしたあ?」という寝ぼけた声がする。

「馬鹿ドライバーがやらかした」という美蘭の嫌味を聞きながら、僕はアクセルを踏んだ。しかしタイヤは空回りするだけで、動く気配がない。

「あーあ、はまっちゃった。早く降りて、車押して」

 美蘭は当然のように僕と黙如を外に出すと、自分は運転席におさまった。ずっと同じ姿勢でいたから、動けるのはありがたいんだけど、二人がかりで押したところで、雪だまりにはまった車は全く動かなかった。

 美蘭は窓から顔を出して「もうちょっと気合い入れてよ」と文句をつける。黙如は息をはずませ、「滑るんだよね。タイヤの下に何かかませないと無理だよ」と言った。

「だったら亜蘭でも突っ込んどいて」

 美蘭はいったん頭をひっこめ、苛立ちのこもった勢いで何度かエンジンをふかしたけれど、その後急に静かになった。どうやらカーナビだの、スマホだの見ているらしい。

 身体を動かすのを止めるとすぐに冷えてきて、黙如もそれは同じらしかった。彼はフロントガラスを叩いて「やらないの?」と身振りで示した。すると美蘭は再び窓から顔を出し「時間がない。歩きましょう」と宣言した。


 カーナビによると、僕らは目的地まであと二キロほどの場所まで来ていた。普通なら歩ける距離だけど、雪道は勝手が違う。でも他の選択はなかった。

 辺りは真っ暗というわけではなく、ほんのわずかにだけれど明るくなってきていて、それはつまり、持ち時間が残り少ない事を意味していた。

 山あいを走る県道の、路肩に寄せられた雪は僕の胸のあたりまであって、その真ん中に一車線の空間が確保してある。もちろん路面なんか見えなくて、夜の間に降った雪が膝近くまで積もっている。

 先頭に立つのは黙如で、これは彼の大人かつ保護者としての意地って奴だろうか。その後に美蘭がセッパを抱えた滅苦と並び、彼の背中を押すようにして進んでゆく。滅苦は眠ってはいないけれど、セッパと同調した放心状態であることに変わりはなかった。そして最後についた僕はソモサンを肩にのせ、頭の中の地図と現在地を重ねながら歩いた。

「あーあ、まるで修行だな。でも俺、こんなハードな修行したことないけどさ」

 黙如は無理やりテンションを上げようとしているのか、やたら口数が多い。

「ねえ美蘭、君の関節技、すごく綺麗に決まったけどさ、レスリングやった事あるの?」

「あるわけないし」

「じゃあ、何であんなに一発で決められたわけ?」

「あのくらい誰だってできるわよ」

「いやそれ、おかしいって。亜蘭もそんな事言ったけど、きみたちどう考えても普通じゃないから」

「私のこと、そこの地球外生物と一緒にしないで」

「うーん、確かに違いはあるんだよね。美蘭は守りより攻撃だから。ねえ、来月なんだけど、うちのお寺で仮設リング作ってプロレスの節分マッチやるんだよね。鬼軍団VSちびっこ軍なんだけどさ、君も出ない?ちびっこ軍を率いるプリンセスで」

 美蘭が返事する前に、僕は軽く失笑していたけれど、辺りが静かすぎるせいで、笑い声は予想外に大きく響いた。

「あんた何がおかしいのよ」

「どう考えても鬼軍団のボスだから」

 率直な見解を述べると、美蘭は振り向きざま強烈なタイキックをぶちかましてきた。逃げる間なし。黙如はこちらを振り向きながら歩いていたけど、「頼む。絶対に盛り上がるから」と繰り返した。

「リングマネー次第ね。マネージャーの宗市そういちさんの連絡先教えるから、事務所通して」

 なぜか美蘭はタレント気取り。黙如は真に受けたらしくて「判った。商店街がスポンサーだから相談してみるよ」と前のめりだ。

 どうせ最後には「面倒くさい」でドタキャンされるに決まってるのに。黙如は美蘭がプロレスに参戦すると思い込んだのか、さっきにも増して勢いよく雪を踏み分けて進んでゆく。

 いつの間にか、辺りは少し明るくなっていた。分厚い雪雲のせいでよく判らないけど、もう日の出が近いのだ。

 僕らはただ、前に進むしかなかった。

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