どうにもなりゃしない

 僕はバーを出るとタクシーを拾い、東林寺の場所を告げてシートに身を沈めた。

 美蘭みらんの奴、笹目ささめと話をつけに行ったに違いない。まあ、笹目は例によって面倒くさいの一点張りだろうけど。

 面倒くさいのは僕だって同じで、ミント一号のことで美蘭が何をしようが、どうでもいいはずだった。でも何故だか、あの猫をあやさんから引き離すのはよくない気がするのだ。

 タクシーはあと十分もしないうちに東林寺に着くだろう。僕は目を閉じると、先に様子を探るため猫のソモサンに接触した。


 ソモサンは相棒のセッパとこたつに入り、団子になってまどろんでいた。聞こえてくるのは、女の人の声。うるさいという程ではないけど、緊張したトーンが耳障りで、それが深い眠りを妨げていた。僕はソモサンを起こすと、こたつから頭だけ出した。

 声の主は六十ぐらいのおばさんで、髪をひっつめにしているせいで、高い頬骨がよけいに目立つ。ヨモギ色のセーターの上に割烹着姿で、とても慌てた様子で電話の子機を握りしめていた。

「だからとにかく早く戻ってくれないと。そうよ、あたしが帰った時にはカルタ大会の片付けも終わってたんだけどね、あの子ったら悲壮な顔して、宇多子うたこさん、僕は今すぐ家に帰らなきゃいけない、お母さんが死んじゃうかもしれないって繰り返すのよ。そう、七福神めぐりね、ちょっと寄り道してカラオケ行ってたから、遅くなったんだよ」

 僕とソモサンは耳を立てて受話器から漏れた声を拾う。相手は黙如もくじょだった。

「わかったわかった、すぐに帰るから。とにかく滅苦めっくが出て行かないように引き留めて。今はどうしてる?」

「荷造りしてるよ。一体何がどうしちゃったんだろうね。でも、お年玉を住職が預かっといてくれてよかったよ。あれでお金持ってたら、すぐにでも飛び出してたろうから。最初はあたしに貸してくれってさ、普段そんなこと言う子じゃあないだろう?」

「まさか貸してないよね」

「当たり前だろう。お金の事はあたしじゃ判んないから、住職が帰るまで待っとくれって、そう言ってるの」

「わかったよ。あと、笹目さんは戻ってないかな」

「あの人は湯治だろ?とにかく早く帰ってきとくれよ。あたしの手にはおえないからさ」

 どうもこのおばさんが、ふだん食事の世話なんかをしている宇多子さんらしい。彼女は「はーあ、参ったねこりゃあ」と溜息をつくと、電話の子機を置いてこたつに入り、僕とソモサンの頭を無造作に撫でた。僕らはそれをすり抜けると廊下に出て、滅苦の部屋へと向かう。セッパもいつの間にか後に続いていた。あたりには美蘭が送り込んだハクビシンの匂いが残っていて、嫌でも背中の毛が逆立ってくる。

 階段を上がり、襖の桟に爪を立てて引っ張る。開いた隙間から顔を出すと、滅苦の背中が見えた。彼は何かぶつぶつ言いながらスポーツバッグに着替えを詰めている。

 前に回り込んだ僕とソモサンがニャアと鳴いてみせると、彼は手をとめてこちらを見た。そして思いつめたような顔つきで「お母さんが大変なんだ」と言った。

「僕には判る。お母さんは死んじゃうかもしれない。お父さんたちの集まりに誰も来てくれなかったから、がっかりしたんだよ。最初の頃はみんなあんなに励ましてくれたのに、だんだんと人が減って、今年は誰も来てくれなかった。ただでさえ頑張りすぎて心が折れそうなのに、そんなの悲しすぎるだろ?」

 滅苦の目には憑りつかれたような昏い光があって、普段の無邪気な彼とは別人のようだった。

 

「お客さん、着いたよ」

 運転手の声で我に返る。いつの間にかタクシーは東林寺の前に停まっていて、僕は急いで支払いを済ませると車を降りた。敷地内にコインパーキングがあるので、開いたままの門を抜け、本堂の方へと向かう。

 本来なら会うべき相手は笹目なんだけど、宇多子さんの話だと留守。だったらこの寺に来る意味などないのに、僕は滅苦のことが気になるのだった。

 でも、こんな時間からどんな口実で会うべきか、自分が何をするべきなのかも判らない。バッテリー切れみたいに立ち止まってしまったところで、「不審者発見」という声が聞こえた。

「警察呼んじゃおうかな」と言いながら、美蘭は墓地に続く通路の方から現れた。ようやくモヒートの酔いが回ってきたらしくて、妙に座った目をしている。

「笹目は、いないらしいよ」

「そうね。忘れてた。あのババア、毎年正月明けに山形の温泉で湯治なんてしゃれた真似してるんだった。全身がフリーズドライ化してるからさ、たまにお湯かけて戻さなきゃいけないんだ」

 そう言って、美蘭は飛んできたスズメバチを指先にとまらせた。どうやら彼女も中の様子を探っていたらしい。

「なんかさ、滅苦がおかしいみたいだけど」

「ふだんいい子にし過ぎたせいで、爆発したんじゃない?」

「放っといて大丈夫かな」

 彼女はそれには答えず本堂に向かうと、躊躇なく勝手口のインターホンを押した。しばらく間があって「住職かい?」という宇多子さんの声が聞こえる。美蘭は無言で目配せしてきて、仕方がないから僕はできるだけ低い声で「鍵、忘れたんだけど、開けてくれる?」と言った。

 慌てた様子の足音が近づいてきて、ドアのガラスに人影が映る。「待たせるねえ、本当に。急いどくれよ、もう」という声とともにドアを開けた宇多子さんは、そこにいる僕を見て「あら、どちらさん?」と、固まってしまった。

 その隙に美蘭は彼女の背後に回り込むと、「宇多子さん、後ろの正面誰だ?」と両手で目隠しをする。

「ちょっと上がらせてもらうね」

 それだけ言うと、彼女は宇多子さんから離れ、「何でこんなの履いてきちゃったんだろ、面倒くさい」と文句を言いながらブーツを脱ぎ、それを片手に提げて上がり込んだ。僕もそれに続き、後には「住職かと思ったのに、ただのいたずらかね全く」と呟いている宇多子さんだけが残された。


「滅苦ちゃん、遊びに来ちゃった!」

 美蘭は勢いよく滅苦の部屋の襖を開けた。彼は驚いた様子でこちらを振り返ると「お姉さま」と言った。後ろの僕には気づいてないかもしれない。

「何やってるの?明日の始業式の準備?にしちゃ荷物が多いわね」

 美蘭は畳の上にブーツを放り出すと、膝をついて滅苦の手元を覗き込んだ。荷造りは終わったらしくて、中味のつまったスポーツバッグにはソモサンとセッパがのっている。

「お姉さま、ちょうどよかったです。僕はこれから急いで福島の家に帰らないといけないんです。でもお金が千円しかなくって。お年玉は黙如さんに預けてるんですけど、まだ帰ってこないし。もう時間がないから、お金を貸してほしいんです。夜行バスの片道分だけで大丈夫ですから」

 滅苦の様子はさっきと変わりなかった。彼とは別のものがしゃべらせてる感じ。いや、もしかするとこっちが本当の滅苦なんだろうか。美蘭はそんな彼に「バスの片道分なんて、しみったれたこと言わないで」と優しく微笑みかけた。

「可愛い滅苦ちゃんのためなら、お小遣いも込みで五万円貸してあげる。十万でもいいわよ。でも私、基本的にカードと電子マネーしか使わないのよね。今つけてるリップグロス一本買うのもムサシドラッグでカード払いよ。でも見ただけじゃそんな事わかんないでしょ?どう?」

 そう言いながら彼女は滅苦に思いきり顔を近づける。

「でも滅苦ちゃん、こんな遅くから可愛いあんたを一人でバスに乗せるなんて心配なの。だから車で送ってあげる。あんたの百万分の一も可愛くない亜蘭あらんに運転させてね。今からレンタカー借りて来させるから、少しだけ待ってくれる?」

「本当ですか?嬉しいです!」と、滅苦は目を輝かせてるけど、美蘭は本気だろうか。

 とりあえず指示待ちって事みたいなので、僕はそろそろと廊下へ後退する。そこへ聞き覚えのある足音が、すごい勢いで階段を駆け上ってきた。

「滅苦!」

 飛び込んできた黙如は、いるはずのない僕にぶつかり、バランスを崩して倒れ込んだ。

「うっわ!最低!」

 酔ってるせいか、美蘭は黙如をよけきれず、下敷きになって怒り狂った。彼女は奴の肩を蹴り上げると腕をとってひっくり返し、そのまま関節技に持ち込む。

「あだだだだだ」という呻き声とともに、黙如は空いた手を伸ばして無意識にロープを探している。情けないなあ、と思いながら僕はそれを見ていたけれど、滅苦は「お姉さま、やめて下さい!時間がないんです!」と止めに入った。

 ようやく美蘭が力を緩めると、黙如は肩で息をしながら「何?君たちいつ来たの?美蘭、プロレスやった事ある?」と質問を連発した。しかし滅苦が「黙如さん、僕、今から家に帰ります」と言ったので、彼も慌てて戻った理由を思い出したらしい。

「いや、滅苦、君の家のことはお父さんがちゃんとやってるから、帰らなくても大丈夫だよ」

 黙如はどこか嘘くさい感じでそう言ったけれど、滅苦は「違う!僕には判るんだ。お母さんが死んじゃうかもしれない。早く帰らなきゃ」と食い下がる。黙如は「どうして急にそんな」と言ったきり、後が続かない。

 彼の顔にはありありと「困った」という表情が浮かんでいて、ほぼ思考停止だ。しびれを切らした滅苦が「もういい。お姉さま、早く行きましょう」と美蘭に向き直ったその時、彼女は猫のセッパの背中をつかみ、スポーツバッグから彼の膝に移した。

「滅苦、井戸のまわりでお茶碗欠いたの誰?」

 唐突なその質問に、滅苦は答えなかった。

 正確には答えられなかったのだ。彼の目は膝の上のセッパを見てるけど、焦点は微妙にぼやけてる。

「あんたは今から猫のセッパだ。私がいいって言うまでね」

 そう言って美蘭は滅苦の手をとり、その掌をセッパの背中においた。セッパはセッパで、目を閉じたままじっと動かない。呆気にとられてそれを見ていた黙如は、「滅苦?」と小声で呼びかたけれど、返事はなかった。

「変なちょっかい出さないでくれる?せっかく私が蓋をしたのに」と美蘭が割って入ると、黙如はようやく彼女の方を見て「一体どうなってんの?」とたずねた。

「それはこっちの台詞よ。とにかく今、滅苦は猫のセッパと同調してるから、勝手に出ていったりはしないわ」

「同調、って、猫と?滅苦が?」

「そうよ。うちの馬鹿な弟が、昔よく猫を抱えたままフリーズしてたんだけど、それの応用って奴」

「な、何だかよく判らないけど」と、黙如は僕と滅苦を交互に見た。

「ねえ黙如さん、どうして滅苦はこんなに大騒ぎしてるわけ?お母さんが死にそうって、だったら早く行くべきでしょ」

「いや、何ていうか、色々事情があって」と、黙如はしどろもどろ。「ちょっと、五分だけ待ってくれる?」と、部屋を出ていった。その後を美蘭の放ったスズメバチが追い、僕は僕でソモサンを使って尾行した。

 黙如は茶の間をのぞくと、こたつに入っていた宇多子さんに「とりあえず落ち着いたよ。心配かけてすいません」と声をかけた。それから廊下を回って縁側に出ると、携帯を取り出してしばらく触っていたけれど、「あれ?笹目さんの泊ってる旅館の名前、きいてなかったっけ」と頼りない声をあげた。

 僕はそこでソモサンを離れ、美蘭は「駄目だこりゃ」と、自分の携帯を手にした。それから一瞬考えて僕に差し出す。

「あんたかけて」

 ディスプレイには玄蘭げんらんさんの番号。

「嫌だ。そもそもなんで電話なんか」

「笹目の居場所よ。あのババアは携帯なんて気の利いたもの持ってないから、宿に連絡しないと」

「自分できけよ」

「百パーセント宗市そういちさんがとるから大丈夫よ。百円あげるから」

「十万円もらっても嫌だ」

「けっ!一円でもやるか!」

 美蘭は自分で電話をかけたけど、出たのはやっぱり宗市さんらしかった。それが判るのは、彼女の表情が一瞬で和らいだからだ。ちょうどソモサンが戻ってきたので、僕は猫の耳を借りた。

「美蘭、どうしたの?こんな時間に」

「ちょっと笹目に急ぎの用があるの。あの人がいつも湯治に行ってる山形の温泉、なんていう宿だっけ」

「玄蘭さんに聞いてみるよ。少し待って」

 永遠とも思える待ち時間の後で、宗市さんは「あのね、三万円払えって言ってる」と、ためらいがちに告げた。美蘭はおおげさに溜息をつくと「相変わらず強欲ね」と言った。

「いったん断って、後でまた聞いてきたら五万円だって」

「わかったってば。払うから。来月の生活費から引いといて」

 全くもって僕らの後見人、玄蘭さんは偏屈な上にケチで欲深い。まあそれが夜久野一族の特徴なんだからしょうがないんだけど。そして奇妙なことに、ふっかけはするんだけど、対価さえ払えば必ず正確な情報を与えてくれる。それはあの人なりの矜持って奴かもしれない。

 ともあれ、美蘭は温泉宿の名前を聞き出すとすぐに検索して電話をかけた。

「はい、鈴乃屋でございます」

 もう寝静まっているのか、ずいぶんと長い呼び出し音の後で、甲高い声の女性が出た。美蘭は「夜分にすみません。そちらに泊まっている夜久野笹目につないでいただけませんか?家族の者ですが、急用で」なんて、超よそ行き音声でしゃべってる。

「少々お待ち下さい」という返事があって、保留の音楽が流れる代わりに、「お父さん、内線どうやるんだっけ」などという間延びした声が聞こえ、それから思い切り不機嫌そうな「いい加減にしとくれ」という声に替わった。

「もう寝てたあ?」と美蘭が能天気に呼びかけると、「あんた、滅苦の事で電話してきたんだろう。玄蘭に口止め料つかませとくんだった」と、切り返してくる。

「何よ、判ってるんなら話は早いわ。とりあえず、どうやったら滅苦が正気に戻るか教えてもらえる?」

「悪いけど無理だね。あんた自分で結界を破っといて、よくそんな事が言えたもんだ」

「結界を破った?私が?」

「まあ正しくは、あんたの操ってる変な獣たちだ。今日、あいつらが滅苦の部屋を荒らしただろう」

「まあ、荒らしたっていうか、ちょっと中に入ったかな」

 いきなり矛先が自分に向いてきたので、美蘭は少し慎重な口ぶりになった。

「私が手間暇かけてめぐらせた結界を、あの獣たちが汚い足で破ったんだよ。そのせいで今までずっと遠ざけてたものが、滅苦のところに戻って来たんだ。今更どうにもなりゃしないよ」

「そんな言い方されると責任感じちゃうじゃない。何とかならないかな。これまで通りの、明るくて可愛い滅苦に戻ってほしいの」

「あんた、自分の弟が死にかけた時も、こっちが死にたくなるほど大騒ぎしたけどね、無理なんてそうやすやすと通るもんじゃないんだよ」

「無理を通す気はないわ。ただ、笹目なら何とかしてくれるって」

 美蘭は妙にしおらしい感じでそれだけ言うと、口をつぐんだ。すぐにやり返してくるはずの笹目も無言で、回線でもおかしいのかと思えてきた頃に「だったら連れといで」という返事があった。

「ただし夜が明ける前にだよ。こっちはおとといから雪だから、道中何が出るかお楽しみってところだ」

 それだけ言うと笹目は電話を切ってしまった。美蘭は苦々しい顔つきで「あのババア」と呟いたけど、僕の方を見るなり「車借りてこい。スノータイヤ履いてる奴」と言った。




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