今夜どこで寝るの
「本当に人懐っこい野良猫だな。ま、ただの女好きかもね」
キジトラの平衡感覚によると微妙に南東へ傾いてる、古いアパートの二階。六畳の和室と形ばかりのキッチンと和式のトイレ。これが綾さんの住まいで、風呂はない。
いま僕らのいる和室には、ハワイアンキルトのようなラグが敷かれていて、折り畳みのローテーブルが食卓だ。壁際にシングルベッドが置かれ、他に目立つものといえば窓際にある猫用のケージとヒーターぐらい。雑多なものは襖の代わりにカーテンをかけた押し入れにしまってあるらしく、とてもすっきりした部屋だ。ここで目障りなのは、我が家のように寛いでいる黙如だけ。
僕と野良のキジトラ猫は、彼に便乗してこの部屋に入った。綾さんは「外の子は来ちゃ駄目よ」なんて言ってたけれど、猫を飼ってる人間は野良猫だって邪険に扱えない。こういう時はむしろ、我が物顔にふるまった方が歓迎されたりするのだ。
部屋に上がるなり、僕らは綾さんの足元をすり抜けて奥へと進んだ。予想的中、ロシアンブルーのミント一号はヒーターの真ん前で無防備に寝ていたけれど、突然現れた他の猫の気配に首をもたげた。全身銀色の被毛に包まれた青い目の猫。子猫というには大きいけれど、大人と呼ぶにはまだ線が細い。
僕の操るキジトラもまた、初対面のミント一号を警戒していた。でも、向こうの健康状態をチェックする必要があるので、強引に接近させる。
まずは鼻面を突き合わせて匂いを確認。病気にかかっている気配なはい。毛艶はよくて目が澄み、ヒゲもぴんと張っている。しかし問題は、と思ったところで、ミント一号はいきなり「ブシャア!」と叫んで猫パンチを繰り出し、僕とキジトラが一瞬身を引いた隙にベッドの下へと潜り込んでしまった。
ともあれ、ひとまず安否確認はできたんだから、そこでキジトラとの接触を切ってもよかったんだけど、「ごめんね、ジャコちゃん怖がり屋さんなの」と綾さんに抱き上げられたので、僕はもう少し居座ることにしたのだ。
「ねえ、野良猫なんかずっと抱いてたら、ジャコに嫌われるんじゃない?」
パスタを食べ終えた黙如はグラスに入っていた烏龍茶を飲み干すと、胡坐をくずしてベッドにもたれた。
「大丈夫、ジャコはうちの子だし、あとでちゃんとフォローするから。でも今夜どこで寝るの?うちに泊まってく?」
そう言って綾さん耳の後ろを撫でられると「お言葉に甘えて」、なんて答えたくて、ついつい喉を鳴らしてしまう。
「本当に図々しい猫だな」と呆れ顔の黙如に、綾さんは「今の、そっちに聞いたのよ」と返した。
「え?ああ、俺?」
黙如はにわかに表情を緩めて、「そうだなあ」なんて勿体つけている。まあ、彼が現れた時点で二人がつきあってるとはわかったけど、面白くない。
「やっぱり今日は帰るよ。
おや、と僕はキジトラの耳を立てる。ここで滅苦の名前が出るとは思わなかったからだ。
「そうなの」と答える綾さんの手は一瞬止まった。心なしか指先が冷たくなったような気がする。
「あの子、ちゃんと学校行ってる?友達とか、大丈夫?」
「ああ。ちょっと真面目過ぎると思われてるみたいだけど、なんせフレンドリーな性格だからね。学校じゃリアル一休とか呼ばれてるらしいよ」
「そうなの。だったらいいけど。でも、色んな事、思い出したりしてないよね。まだ忘れたままだよね」
「それは、心配しなくていい」
「でも私、怖いの。あの子が何もかも思い出して、本当の事を知ったらどうしようって。もちろん謝らなきゃいけない。でも、ぜったい許してくれないに決まってる」
綾さんの手は僕とキジトラの背中におかれたまま、止まってしまった。二人はいったい何の話をしてるんだろう。首をもたげて綾さんの顔を見ると、青ざめて、眼には涙がうっすらと膜をはっている。
「そんな風に自分を責めても意味がないよ。滅苦の両親のことは、綾たちのせいじゃないんだから」
「でも全く無関係とは言えないでしょう?私、今でも夢に見るの。ああ、今日は
いつの間にか、綾さんの冷たい指先は震えていた。
「綾はもう十分すぎるほど後悔してる。でも、いくら後悔したって、変えられない過去は置いて行くしかない。変えられるのは未来だけなんだから」
綾さんは何も答えず、静まり返った部屋にヒーターの音だけが低く響いた。
黙如は身を乗り出し、綾さんの顔をのぞきこむと、「やっぱり泊まっていこうか?」と訊ねた。彼女は強く首を振って、こぼれ落ちた涙が僕とキジトラの耳を弾いた。
「大丈夫さ、滅苦は何も思い出さない。
綾さんは黙ってうなずく。
「前みたいに薬とアルコールを一緒に飲んじゃ駄目だよ」
「わかってる」
自分に言い聞かせるみたいに答えると、綾さんは僕とキジトラの背中を何度かゆっくりと撫でた。
「今はもう大丈夫、ジャコが一緒にいてくれるから。ジャコはね、私が落ち込んでるとすぐに判るのよ。何も言わなくても、じっとそばにいてくれるの。元気にしてる時はそっけないぐらいなのに。猫ってテレパシーがあるのかもしれないわ」
「どうだかね。少なくともこの野良猫にはないよ。俺が邪魔だと思ってるの、全然伝わってない」
黙如は綾さんの膝から僕とキジトラを片手で抱え上げると、少し離れた場所におろした。よからぬ気配に振り向くと、奴の胸元に綾さんが顔を埋めている。
出家して煩悩と戦ってるとか、偉そうなこと言ってたくせに。
奴の偽善者ぶりに腹が立ってきて、僕はキジトラをベッドの下に潜らせた。もちろんそこには先客、ミント一号ことジャコがいて、僕らが近づくとありったけの勢いで威嚇してくる。
狂暴な気分の僕はそのまま距離を詰め、緊張に耐え切れなくなったジャコは、ベッドの下から飛び出す。僕とキジトラはすぐさまその後を追って、綾さんと黙如の周囲を駆け巡り、グラスや食器を蹴散らし、カーテンによじ上ってからダイブした。
「ちょっと!野良ちゃん!乱暴しないで!」
綾さんは立ち上がってオロオロするばかり。黙如は呆れ顔で座ったままだ。僕とキジトラは彼の背中を駆け上がると肩を踏み台にして跳び、ケージの上に着地する。その隙にジャコは再びベッドの下へ逃げ込んでいた。
さてこれからどうしてやろう。
ケージの上で背中の毛を思い切り逆立て、尻尾をふくらませていた僕とキジトラだけど、いきなり誰かに脛を蹴られた。
我に返った僕はバーの窓際席に座っていた。
山桃ビネガーのソーダ割りは、氷がすっかり融けている。他の客が通りすがりに足でもぶつけたんだろうか、そう思ってまたキジトラのところに戻ろうとすると、目の前に誰かが腰を下ろした。
彼女はライダージャケットにジーンズとロングブーツの黒づくめ。石榴色のマフラーだけが、開いた傷口のように目を惹く。
「見つかったみたいね、ミント一号」
当然のようにそう言うけど、どうして僕がこの店にいると判ったんだろう。その質問をする前に、彼女はほとんど聞こえない高さの口笛を短く吹き、それに答えるようにスズメバチが一匹、僕の背後から彼女の指先へ飛び移った。
我ながら呆れるんだけど、僕はずっとこいつに尾行されていたのだ。たぶん東林寺を襲ったハクビシンの群れについてきた奴。美蘭は指先を首筋にそえて、スズメバチを耳の後ろへと移動させた。
「ここは奢ってあげるからさ、早くミント一号を回収して来なさいよ」
美蘭にしては信じられないほど気前が良い。でも僕は返事をしなかった。
「ちょっと、あんた何か隠してるでしょ」
「別に」
「あらそう」
美蘭は冷たい目で僕を睨んで腕を組む。先に頼んでいたらしいモヒートが運ばれてきて、彼女はそれを一口飲んでから「これでサバエちゃんともお別れね」と言った。
「え?」
「だって、ミント一号を探すために彼女とつきあってたんだから、もうその必要ないじゃない。お望みならさっさと
そして美蘭はまたモヒートを飲む。僕はあえて話を元に戻した。
「ミント一号のこと、あきらめた方がいいよ」
「はあ?何よ今更。結局は死んでたとか言いたいわけ?」
「いや、生きてるけど、子猫増やすのは無理。あの猫、もう去勢されてる」
僕がそう言った途端、美蘭は少しだけ眉間にしわを寄せ、モヒートを一気に飲み干した。そして空のグラスを勢いよくコースターに叩きつけると「今から乗り込む」と言った。
「だから無理だって」
「飼ってるのは女だろ。ちょっとばかり撫で回してもらったからって、変な義理立てするんじゃないよ」
「乗り込もうと何しようと、今更どうしようもないだろ。もう飼い猫になってるんだよ」
「だとしても猫代は払わせる。最低でも四十万。ひとんちの猫を勝手に着服したんだから」
僕はついさっきまでいた綾さんの部屋を思い出していた。どう考えても四十万なんて無理そうな生活ぶり。
「とにかく今の飼い主に責任はないよ。だってミント一号は、サバエが笹目に預けて、そこから渡ったんだ」
「もういい。屈折した思い入れで、飼い主のこと庇いたいなら勝手にすれば。猫に憑りつかないと女の人に構ってもらえないんだから、本当に空しいわよね」
そして美蘭は立ち上がり「モヒート、ごちそうさま」と言い捨てて出ていった。
僕は長い溜息をつき、ホットレモネードとハンバーガーを注文した。猫を操ると、とにかくお腹が空く。坊主カフェでの定食なんてとっくに消化した感じで、僕は一瞬でハンバーガーを平らげ、再び椅子に身を沈めてキジトラに接触してみた。
どうやらさっきの大暴れが災いして追い出されたらしく、キジトラは駐車場に停められた車のエンジンルームに戻っている。お休みのところ悪いけど、僕はもう一度この猫を連れ出し、綾さんの住むアパートの外階段を上る。
しかしそこへ、何か奇妙な足音が聞こえてきた。
動物、しかも一匹や二匹じゃない、もっとたくさんの。思わず振り向くと、階段の下に褐色の獣が十匹ほど集まっていた。奴らは僕たちを追うように、一段また一段と上ってくる。長い尻尾に顔の白い模様。そしてその後ろ、闇に潜んでいるのは美蘭だ。
僕とキジトラは全身の毛を逆立てて唸り、先頭のひときわ大きいハクビシンを威嚇した。この動物がどのくらい好戦的なのか知らないけど、美蘭が操ってるんだから極めて狂暴に決まってる。案の定、向こうは何の前触れもなしに飛びかかってきた。
間一髪で身をかわしたけれど、ハクビシンの爪はキジトラの脇腹を引っ掻き、むしられた毛がふわふわと宙を舞う。こいつとやり合っても埒が明かない。僕とキジトラは壁際のわずかな隙間をすり抜けてハクビシンの群れを突破し、狙いを美蘭に定めて大きく跳んだ。
問題は、左の目だけとはいえ、美蘭には人間離れした動体視力があるって事。おまけに暗さなど関係ない。案の定、彼女は右目を閉じて左目だけでこちらを見ると、わずかに身体をそらせる。まずい、見切られた。
目標をそれて着地した僕らの腹を、美蘭のブーツの爪先が引っ掛ける。そのまま高く蹴り上げられ、舌打ちする思いで僕らは身体を反転させ、足から着地する。
振り向いた時にはもう、美蘭はアパートの階段を上り切っていた。そしてハクビシンたちは影のように階段に貼りつき、動かずにいる。
ややあって、綾さんの部屋のドアが少し開いた。ドアの隙間に逆光で浮かんだ人影は背が高い。黙如だ。彼が「何の音だろう。さっきの猫かな」と一歩踏み出したその背中に、美蘭は音もなく近づくと両手で目隠しをした。
「黙如さん、後ろの正面誰だ?」
美蘭は女の子にしては背が高いから、黙如の耳元に囁くのもそう難しくない。
「この部屋の中に、銀色の猫がいるでしょう?あれは私のものよ」
低い声で諭すように美蘭は語りかける。このままじゃまずい、僕とキジトラは全速力で階段を駆け上がると、黙如の脛にがっぷり食いついた。
「いったああああ!」
彼は僕らを脛にぶら下げたまま飛び上がる。美蘭はすぐさま身を翻し、小さく舌打ちすると階段の手すりを越えて地面に飛び降りた。そこへ綾さんが「どうしたの?」と顔を出す。
「猫!さっきの!食いついてきた!」と、黙如が騒いでる隙に、僕とキジトラは階段を駆け下りる。ハクビシンたちは美蘭の後を追ったのか、影も形もない。
でも、このまま彼女が引き下がるはずがない。行くとしたら、たぶんあそこしかないはず。
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