無理しなくていいよ

「だからさ、僕が君の家に連れていった猫は、迷子になったミントじゃないんだ」

「ふーん」

 納得したのかどうか、はっきりしない口調でサバエは頷く。

 夜気は冷たく冴えて、西の空にはオレンジの三日月が低く光っている。僕と彼女はそれを目指すように歩いていた。

 東林寺に現れたハクビシンの群れは、滅苦めっくの部屋の天井を破って屋根裏に入り、そこからまた出て行ったみたいだ。滅苦も最初は信じてなかったけど、外壁に残された大量の足跡を見て「うわあ、本当だ」と息を呑んでいた。

 とにかく、もうこれ以上ハクビシンの襲来に耐えるのは無理。なので僕は、一切合切をサバエに打ち明け、ショートカットで全て終わらせようと心を決めた。

「あの猫はミントの兄弟なんだよ。だからまあ、見た目はそっくりだし、値段的には同じだし、同じ猫が戻ってきたと考えても不都合はないと思う」

「ミントじゃなくて、そっくりな別の子猫でいいから連れてきてって、そう真柚まゆちゃんが頼んだわけ?」

「うん。仕事を受けたのは美蘭みらんだけど」

「じゃあ、亜蘭あらんたちは何のためにいなくなったミントを探してるの?」

「お金になるから。そのまま売ってもいいし、子猫を増やしてもいいし。ミントは父親がグランドチャンピオンだから、子猫にもいい値段がつくよ」

「うちのお父さん、ミントをいくらで買ったの?」

「三十九万」

「さんじゅう、きゅう、まん」

 ゆっくりと復唱してから、サバエはペットショップのオウムみたいに甲高い声で笑った。

「そっかあ。やっちゃったな、私」

「やっちゃったって、何を?」

「捨てたの。ミントを」

 彼女はまだ笑いが収まらない、という様子で息を弾ませている。

「捨てたって、迷子になったんじゃなくて?どうして?」

「真柚ちゃんが困ってたから」

「困ってた?」

「だからさ、真柚ちゃん、猫とか好きじゃないんだよ。口では言わないけど、見てれば判るもん。なのにお父さんは、真柚ちゃんのためにミントを買ってきちゃったでしょ?有難迷惑って奴だよね。だから私が捨ててあげたの」

「はあ」

「でもまあ、いきなり道端とかに捨てるのはミントが可哀想だから、笹目ささめさんにあげたんだよね。あの人は犬のブチを飼ってるし、動物好きみたいだから」

「笹目がすんなり受け取ったの?餌代とか請求されなかった?」

「うん。仕方ないねえとかって、面倒くさそうにはしてたけど。だから、見つかったって聞いた時には、やっぱり近所に捨てたんだと思ってた。でも結局、真柚ちゃんはミントにいてほしかったんだね。なんか私、余計なことして、馬鹿みたい」

 サバエの言葉は、僕に聞かせているというより、自分と対話しているみたいだった。僕はただ黙って、頭の中でカードをあちこち移動させ続けていた。ミント一号、サバエ、真柚、ミント二号、父親、サバエ、笹目、真柚。どう並べても変な感じ。

「ねえ、ミントに会ってく?まあ、本当はミントじゃないけど」

 気がつくと、僕らはサバエの家の前まで来ていた。

「今日はお母さん新年会で遅くなるし。お父さんは来週まで出張だし、真柚ちゃんは毎日補講だからね。ゆっくりしてっても大丈夫だよ」

「じゃあ、ちょっとだけ」

 

 ところが、サバエの後についてリビングに入ると、いないはずの真柚がいた。

 ジーンズにトレーナー姿で、猫のケージの前にしゃがんでいた彼女は、僕に気づくと立ち上がり、少し笑みを浮かべて「いらっしゃい」と言った。

「あれえ、真柚ちゃん、試験までずっと補講じゃなかった?」

「エアコンが故障しちゃって、今日はお昼で終わりだったの」

「何それ。だったら速攻帰らせてくれたらいいのにね。亜蘭、何か食べたりする?冷凍の讃岐うどんとか」

 そう言いながら、サバエはキッチンに姿を消した。束の間、僕は真柚と二人きり。でも彼女は視線をケージの中に向けたままで、そこではミント二号がお得意の一人遊びに興じていた。

 何か気の利いた事を言いたい。僕は必死であれやこれや考え、やっとの思いで「猫、元気そうだね」と言った。実にありきたり。当然、真柚はミント二号の方を向いたまま「とても元気よ」と答える。

 いや、猫じゃなくて君について知りたくて、もっと親しげな笑顔なんか見せてほしくて。でも僕に見えるのは真柚の白い輪郭と、肩まで流れるストレートの黒髪だけ。

「亜蘭、納豆いっぱいあるから、納豆ごはんとか食べる?」

 キッチンから顔をのぞかせたサバエの声で、僕は我に返った。

「いや、お腹空いてないんで」

「そう?讃岐うどんもいっぱいあるから、遠慮することないよ」

 サバエが戻ってくると、真柚は僕の顔を見ずに「ごゆっくり」とだけ言って、リビングを出ていった。

 僕に興味なし、全く。

 判ってはいたものの、空しいというか何というか。

 僕はぼんやりとしゃがんで、ケージに指を入れ、ミント二号をじゃらしにかかった。サバエも僕の隣にしゃがみ、しばらく無言で子猫が前足でパンチを繰り出すのを眺めていたけれど、小さく溜息をついてから「真柚ちゃんのこと好き?」と言った。

 それは「讃岐うどん好き?」と同じくらいさりげない質問で、僕は思わず頷きそうになるのを抑えて、「え?」と、聞き返した。

「無理しなくていいよ。誰だって私より真柚ちゃんの方を好きになるから。別に男子だけじゃなくて、女子もそう。ていうか、真柚ちゃんがいると、私は消えちゃうんだ」

「でもさっき、彼女も一緒でここにいたよね」

「だからさ、消えるってのは、文学的表現だよ」

 妙に淡々としたサバエの声が、却って不安を呼び覚ます。僕はただひたすらミント二号をじゃらしていた。

「誰だって私より真柚ちゃんの方が好き。でも私は絶対に真柚ちゃんを嫌いにならないように、努力だけはしてる」

「別に、嫌いになってもいいんじゃないかな。僕は美蘭のこと大嫌いだし、向こうもそれ以上にこっちを嫌ってるよ」

「それはさ、本当のきょうだいだから安心して嫌いって言えるんだよ。私と真柚ちゃん、そうじゃないし」

「きょうだい、じゃない?」

「違うよ。だって普通、いないじゃん。同じ学年で四月生まれと三月生まれの姉妹なんて。おまけにうちら全然似てないし」

「もしかして、親どうしが再婚とか?」

「それも違う。あのね、真柚ちゃんはお父さんのいとこの子供なの。何て呼ぶか知らないけど、親戚。でもきょうだいって事にしたら、四月と三月生まれもネタとして十分ウケるでしょ」

 確かに、美蘭もそこに反応してたっけ。でもウケるという言葉とはうらはらに、サバエは物憂げな表情をしていた。

「真柚ちゃんの本当の家族は群馬に住んでる。お父さんとお母さんと、まだ小学生の弟。でもね、真柚ちゃんは中二の時に男子とトラブったんだ。真柚ちゃんに片想いして、告って断られた奴が、ネットでひどい噂いっぱい流したせいで、学校行けなくなっちゃったんだよ。

 引っ越して学校変わったりしたんだけど、やっぱり噂がついてきてさ。でもお父さんの仕事の都合で群馬を出れないから、一人だけうちに来ることになったの。だから真柚ってのも嘘の名前。本当の名前は、悪いけど亜蘭にも教えられない」

「そうなんだ」

「それで、真柚ちゃんは中三の春からうちの子になったんだよね。うちは元々浜松に住んでてさ、ちょうどお父さんが東京に転勤になって、単身赴任の予定だったのを、家族みんなで引っ越したんだよね。

 中三で転校なんて嫌だったけど、しょうがないし。新しい学校で真柚ちゃんと私の同学年姉妹デビューだよ。クラスの子とか「マジで?」みたいな顔したけど、まあ、ひとんちの事なんか基本どうでもいいからさ、すぐに「へえ~、そっか」って納得してくれたよ。

 私はいつも成績中の下だけど、真柚ちゃん優等生でね、中学の時は色々と比べられてへこんだよ。でも真柚ちゃんは、とにかく目立たないようにしてた。男子とはほとんど口きかなかったし。

 まあ、高校は別になって、お互い楽になったよ。真柚ちゃんは女子だけの進学校で、受験頑張ってるのは、法学部に入って弁護士になりたいからなんだ。

 真柚ちゃんは家のこともよく手伝うし、親の言う事きくし、すごくいい子。私には優しくしてくれるし、お風呂の順番とかも譲ってくれて、ケーキとか先に選ばせてくれて、喧嘩とかした事ないんだよね。だから何ていうか、私より真柚ちゃんが好かれるのは当然だし、もし嫌いになったりしたらこっちが悪いって感じなんだよ」

「なるほど」と僕は頷く。ミント二号はいつの間にか遊び疲れて、寝床で丸くなっていた。

「お父さんもお母さんも、真柚ちゃんのこと大好きだと思うよ。だって私よりも全てにおいて上だし、家族と離れて寂しいのに、甘えたりわがまま言ったりもしないし。だからうちのお父さんは、真柚ちゃんが喜びそうな事ばっかり探してる」

「君の事は?」

「私は心配ないよ。いつもわがままで勝手でうるさいし。ご飯のおかずだって私しかリクエストしないし。

 まあとにかく、亜蘭が私より真柚ちゃんを好きでも、別に怒ったりしない。それは自然の成り行きって事だから。でもさ、もし最初からそう思ってたなら、私と付き合ってほしくなかった。そっちの方が、ずっと落ち込むから」

 うん。僕は最初から真柚の方が好きで、君とは付き合うふりをしてただけ。

 全てぶちまける決意をしたはずだったのに、僕は肝心の事を口にできなかった。ただ、「もう少し、お寺の辺りでミントを探してみるよ」とだけ言って、杉田家を後にしたのだ。


 結局、僕は安きに流れようとしていた。

 サバエとは、表向きは仲直りを装っておく。これでハクビシンの襲撃はいったん収まるはずだ。そしてさっさとミント一号を見つけて美蘭に引き渡す。あとはサバエの前からフェードアウトすればいいのだ。

 しかし東林寺の周辺にはまだハクビシンがいそうで戻る気になれず、僕は別の場所へ向かっていた。

「いらっしゃい!よく来たね!」

 坊主カフェのドアを開けるなり、黙如もくじょの大声が出迎えた。カウンターには女の人がひとり座っていて、振り向くと軽く会釈してきたので、僕も頭を下げた。

あやちゃん、彼がさっき話してた亜蘭だよ。今日のかるた大会、彼がいたおかげで本当に助かったんだ」

 そう持ち上げられると居心地が悪い。僕はうつむき加減に、綾ちゃんと呼ばれた女の人が白いフェイクファーのジャケットを置いている席にもう一つあけて座った。

「日替わり定食ください」

 サバエにはお腹空いてない、なんて言ったけれど、本当はとても空腹だった。昼の餅ピザから後、ほとんど何も食べていないのに、色々な事がありすぎて。

「了解。隣の定食屋さんから出前だから、ちょっと待ってね」と黙如は電話を手にした。僕はその隙に綾さんの方を盗み見る。

 常連らしい彼女は、肩まである髪を明るい色に染めていて、ハイネックのラベンダーのセーターにデニムのタイトスカート、ムートンのショートブーツを履いている。年は二十代後半ってとこだろうか。親しみやすい笑顔が印象的で、こんな人が姉だったら僕の人生はずっとましだったに違いない。

「日替わり、生姜焼きらしいけど、それでいい?」

「お願いします」

 僕はそれだけ言ってスマホをカウンターに置き、動画なんか見てるふりをする。でも左手はパーカーのポケットの中で、そこにはサバエが放ってよこした子猫の首輪が入っていた。

 指先で触れると、ほんの少しだけ銀の子猫の気配を感じるけれど、いかんせん時間がたちすぎてる。他に頼りになるものといえば、笹目が前に言いかけた「猫といえば、住職に任せたよ」という言葉ぐらいか。でも今、他の客がいる前で黙如に話は切り出せない。まあしかし、綾さん一人だったらいいか。

 僕が「あの…」と口を開いたその時、店のドアが開き、ダウンジャケットにニット帽のずんぐりした男が入ってきた。

 彼は慣れた様子で「遅なってごめん。綾ちゃん久しぶりやね。俺のシフトの時、なんか避けてへん?」と声をかけ、そのままカウンターの中へと回り込んだ。

「避けてませんよ。岳峰がくほうさんこそ、最近お店に出るのが減ってない?」

「そやねん。年末からこの方、お葬式やら法事やら立て続けで、えらい忙しかってな」

 どうやら彼もこの坊主カフェの一員らしい。ダウンジャケットを脱ぐと、その下は作務衣だった。綾さんは「じゃあ、会えただけでもラッキーって事ね。ゆっくりしててよかった」と立ち上がった。

「もう帰んの?やっぱり避けてるやん」

「だって、九時までに晩ごはん食べないと太っちゃうから」

 そう言って財布を取り出した彼女に、黙如は「晩ごはん、今日は何にするの?」と訊ねた。

「キノコのスパゲティかな。お醤油とバターで炒めて」

「ガーリックも入れた方がおいしいよ」

「じゃあそうする」

 綾さんは支払いをすませると、バッグを肩にかけてドアに向かった。しかしすぐに振り返ると、「やだ、ジャケット忘れてる」と笑った。

「ごめん、亜蘭くん、だっけ、取ってくれる?」

 戻ってきた彼女が手を差し出したので、僕はスツールに軽くたたんで置かれていたジャケットに手をかけた。

 その瞬間、僕の視界に金色の格子が立ち上がった。目の前の全てがモザイク状に分割され、金属的な輝きを放つ。その明るさに眩暈がして、思わず目を閉じる。指先から伝わる、まだ大人になりきっていない活発な雄猫の気配が、頭の片隅にほの白く灯る。

「亜蘭?」

 黙如の声が遠い。僕は自分に落ち着けと言い聞かせて、ゆっくり目を開いた。

 さっきの映像はもう消えていて、僕はまだ綾さんのジャケットに片手をのせたままだった。

「どしたの?いきなりぼんやりして」

「いや、なんかお腹が空きすぎて」

「あれだ、電池切れ。腹が減ると俺もよくなるよ。なーんにも考えられなくなるよね」

 黙如の言葉に、さっき来た岳峰さんが「あんたが何も考えてへんのは、いつもの事やろ」と突っ込みを入れる。

「俺は普段、少しは考えてるよ。少し、と何にも、の差は大きいよ。有と無、だからね」

「そんな上等なもんかいな」

 坊主二人が言い合っている間に、僕は何とか落ち着きを取り戻し、綾さんにジャケットを渡すことができた。

「定食、早く来るといいわね」

 そう言って笑った彼女がジャケットに袖を通す間、僕はバッグを預かった。「気がつくのね」なんて言ってもらえたが、目的はそこじゃない。パウダーピンクのショルダーバッグからも、猫の気配がはっきりと伝わってくる。

 間違いなく、綾さんはミント一号を飼っている。あるいは、とても頻繁にこの猫と触れ合う機会がある。


 綾さんが帰ってから五分もしない内に、僕の日替わり定食が運ばれてきたけれど、のんびりと味わっている場合ではなかった。空腹にかこつけて一気に平らげると、僕はすぐさま坊主カフェを後にした。

 私鉄の駅に近いけど、夜はかなり早じまいの商店街。僕は自分の頭の隅に瞬く小さな光をたよりに、それが明るさを増す方向へと歩き始めた。

 寒さは夕方よりも厳しく、風がきつい。診療所やケーキ屋はもう明かりを消していて、シャッターを半分下ろした音楽教室や、店の奥だけ明るいヘアサロンなんかが目につく。

 しばらくまっすぐに進んで、コンビニの角を曲がるとその先は住宅街だ。といっても一戸建てより集合住宅、それもちょっと古めのアパートが多くて、時々貸しガレージがあったり、間口の小さなスナックがあったり。

 道はだんだんと細くなり、やがて車一台がようやく通れるほどの路地になった。その突き当りに、「みはな荘」と冗談みたいな名前の、古びたアパートがあった。その前に立つ頃には、僕の頭の中の明かりは輝きを増して、たどるべき道筋が夜光塗料でもひいたみたいに浮かび上がって見えた。

 そのラインは外階段を上がって三つ目の部屋まで続いていて、どうやらそこが綾さんの部屋らしかった。 

 僕は外階段の下に立ち、部屋まで行ってドアをノックするところを想像してみた。

 無理。

 さっき坊主カフェでほんの一瞬会っただけで、いくら何でも突然すぎる。警察を呼ばれても文句は言えない。でも間違いなく、あの部屋のにはロシアンブルーの雄猫、ミント一号がいるのだ。

 いつまで待っても、今の状態では勝算がない。といって美蘭に助けを求めるのは何だかむかつく。じっとしている内に寒さがつのってきて、僕は外階段の下でぐるぐると歩き始めた。五回ほど回った時、何かが視界に入った。

 猫だ。模様はキジトラ。こちらを見て警戒する様子もなく、路地の真ん中で立ち止まっている。

 僕はすぐにしゃがむと、舌を鳴らして人差し指を伸ばした。猫はためらわずに近づき、鼻面を触れてくる。

 こいつは使えそうだ。

 僕は猫の頭を何度か撫でてから引き寄せると、大急ぎで「回路」を開いた。

 このアパートを中心に縄張りを持つ若い雄の野良。健康状態は良好で、あまり人間を恐れていない。今夜の食事は近くの公園で振る舞われたキャットフードで、ほぼ満腹。これなら食べ物に気をとられず、言う通りに動いてくれるだろう。僕は猫を操る場所を確保するために、いったんその場を離れた。


 来た道を最初の商店街まで戻ってみる。一人で静かに過ごせる場所だから、喫茶店でもネットカフェでもいいんだけど、もう閉まっているか、存在しない。せめてコンビニのイートインでもないかと歩いていると、ビルの中二階に明かりのついている店があった。明かり、といっても薄暗く、看板から察するにバーらしい。

 高校生が一人でバーに入るのは、似つかわしくないかもしれない。でも今は、どこか静かで暖かい場所に身を落ち着けることが必要だ。目的のためには手段を選ぶな。何故か美蘭の説教が耳によみがえり、僕はためらわずに階段を上がって店のドアを開けた。

 中はこじんまりとした空間で、ほどよく古びていた。先客の女性二人連れがカウンターでバーテンダーと話し込み、窓際の席にはスーツ姿の男が三人いた。僕はその隣、二人掛けの席に陣取り、メニューを手に取ると、何となく目についた自家製山桃ビネガーのソーダ割りを頼んだ。

 窓越しの冷気がじんわりと迫ってくるものの、店は十分に暖かい。運ばれてきた山桃ビネガーのソーダ割りを半分ほど飲むと、さっきのキジトラを探すべく、僕は目を閉じ、池に落ちた小石が波紋を広げるように、意識を薄く伸ばしていった。

 一分と経たないうちに、僕はキジトラの波長を捉える。猫は狭い場所でまどろんでいた。そこは暖かくて快適だったけれど、匂いからすると車のエンジンルームらしい。悪いけど、僕は猫を目覚めさせた。


 エンジンルームから外に出るとそこは駐車場で、すぐ目の前にさっきのアパートが見えた。

 冷え切った夜気の中、キジトラと僕は軽く伸びをして、小走りで駐車場を横切る。アパートの外階段を駆け上り、綾さんの部屋へと向かう。

 換気扇から流れてくるのは、パスタを茹でる湯気と、茸とバターと醤油、ガーリックの匂い。さらに食べ物とは別に、猫の匂いもはっきりと感じ取れる。

 僕は思い切って、キジトラにドアを引っかかせようと考えていた。耳慣れない音がすれば綾さんも様子を見にくるだろうし、少しでもドアが開けば一気に入り込む。

 そしてまさにドアをガリガリやろうと前足を伸ばした時、外階段を上がってくる足音が聞こえた。

 けっこう体重のある、たぶん男。軽い足取りから察するに、かなり体力がありそう。見つかって蹴られたりするのは嫌だな、と思いながら、僕とキジトラは姿勢を低くして壁際に蹲った。残念ながら廊下には身を隠すものが何もない。

 足音は階段を上り切ると、どんどん近づいてくる。そしてジーンズにスニーカーをはいた二本の足が僕とキジトラの前で止まった。

「おう、野良よ、何してんだ」

 聞き覚えのある声に頭を上げると、黙如がこちらを見下ろしていた。




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