住職はインテリだ
「起床!」
そう叫んで誰かが上に乗ってきた瞬間、僕はすり抜けて低い姿勢で間合いを取った。
よく見ると相手は作務衣姿の
とりあえず挨拶はしておくべきだと思って、「おはようございます」と言うと、黙如は布団を抱えたまま「君、何か武術やってる?」と訊ねた。
「いいえ」と僕は首を振る。そんな面倒くさいもの、やるわけない。
「だったら、是非やるべき。センスあるから。寝込みを襲われてこんなに素早く反応するなんて、普通は無理だからね」
何を大袈裟な。そう思いながら枕元のスマホを手に取る。やけに外が明るいと思ったら、もう十二時過ぎだった。
「別にいつまで寝ててもいいんだけど、さすがにお腹が空くだろうと思って起こしにきたんだ。放っといたら君は、二日ぐらい眠ってるタイプじゃない?」
「どうして判るんですか?」
「ただの当てずっぽう。いいじゃない、寝る子は育つ。昼ごはん食べよう」
布団をたたみながら、僕はどうして自分がこの場所、東林寺にいるのかを思い出していた。
昨日、ミント一号の首輪を手に入れて、すぐに
その判断が甘すぎたと気づいたのは、家に帰り、部屋の明かりをつけた瞬間で、僕を待っていたのは、またしてもハクビシンだった。今度の奴は肝が据わっていて、逃げもせずに部屋の真ん中でこっちを見ている。
背筋に嫌な汗が浮かぶのを感じながら、
もともと彼女は、下らない嫌がらせほど気合いを入れる。この調子だとたぶん、僕が何度ハクビシンを駆除しても、サバエに頭を下げて自分の非を認めない限り、同じことの繰り返しに違いない。
でも僕は断じてサバエに謝る気はなかったので、そのまま自室を出て東林寺へと引き返し、滅苦の部屋に泊めてもらったのだった。
一階に降りてゆくと、キッチンの脇に六畳ほどの和室があって、こたつの上に食器が出ている。いつもここで食事してるんだろうか。ぼんやりと覗き込んでいると、大きなフライパンを両手で捧げ持った
「亜蘭さん、おはようございます!お餅がたくさんあるから、お昼は餅ピザですよ」
「いつも君が食事を作ってるの?」
「ふだんは
「へーえ」と、彼が差し出したフライパンを覗こうとしたら、いきなり後ろから首に腕を回して絞められた。即座に身を沈めてかわし、間合いをとって振り返る。また黙如だ。
彼はわざとらしく両腕を広げて「お見事」と笑ってみせた。
「お見事って、亜蘭さんがどうかしたんですか?」
「彼はね、不意を襲われてもすごく上手に逃げるんだよ」と答えきらないうちに、黙如は僕の腕をつかみにかかる。僕はもちろん、身体を反転させて離れた。
「本当だ。なんか忍者みたい」
「だろ?ちょっと二人がかりでやってみない?」
黙如が誘うと、滅苦はためらうどころか「はい!」と答え、フライパンをこたつの上にあった鍋敷きに置いて飛びついてくる。同時に黙如も腕をとりにくるから、僕は夢中で彼らをかわして廊下に逃げた。
こっちの当惑などお構いなしに、二人は大はしゃぎで「ほらね?」「すごいです!」と盛り上がっている。
「亜蘭さん、猫みたいに早いですよね」
「だって猫なら当然だもの」
僕がそう答えた途端、黙如は爆笑した。
「いやいやいや、君は猫じゃなくて人間だから。面白い子だねえ」
黙如はしばらく笑いが止まらず、それが僕を白けた気分にさせた。一方、滅苦は「早く餅ピザ食べましょう」と、皿を配り始める。黙如は「おっと、タバスコ!」と言ってキッチンに消えた。
滅苦はフライパンの中味を皿に取り分けながら「黙如さんはね、大学ではプロレス同好会だったんです。だからいつも技の研究とかしてるんですよね」と、説明とも弁解ともつかない事を言った。
僕の前に置かれた皿には、何やら赤い物体がのっている。餅ピザって何かと思ったら、ピザ生地の代わりに切り餅を並べ、そこにトマトソースを塗って、チーズと輪切りのゆで卵とカニカマをのせて焼いたものだ。一口かじってみると結構いける。
「ねえねえ、タバスコかけない?」
キッチンから戻った黙如はこたつに入ると、自分の皿に勢いよくタバスコを振ってから、僕に差し出した。嫌いじゃないので、遠慮なく使う。
「残念ながら滅苦はお子様だから、辛いの駄目なんだよね」
「はい。あと、酢の物とか、酸っぱいのも苦手です」
「俺はさ、酸っぱいのもおっぱいも大好きだもんね」
黙如は自分の冗談らしきものに自分で高笑いし、僕と滅苦が無言でいても平然と餅ピザに食いついた。いつもこういう寒いギャグを連発しているんだろうか。そう考えると少し滅苦が気の毒になる。檀家のおばさん達には受けるのかもしれないけど。
あっという間に餅ピザを三切れ平らげ、湯呑みの番茶を勢いよく飲み干すと、黙如はまた口を開いた。
「ねえ亜蘭、さっきの技だけど、人に教えてみない?あれは十分に護身術として使えると思うんだ」
「護身術?」
「そうそう。子供とか女の人とか、変な奴にいきなり襲われても、あれならすぐに逃げられるだろ?別に攻撃はする必要ないんだから、とにかく相手から離れて逃げることが目標。ぴったりだよ」
「でも、わざわざ教えるほどの事じゃないし」
「いやいやいや、よく思い出して。さっき俺が何と言ったか」
「さっき?酸っぱいのもおっぱいも大好き?」
「それはちょっと戻り過ぎ。俺が言ったのは、子供とか女の人、って言葉。つまり子供だけじゃなく、女の人も生徒になる。そしたら君」と、彼は僕に身体を寄せてきた。
「こーんな近くで、手取り足取り、教えられるんだよ」
至近距離の黙如は暑苦しい以外の何物でもないけど、これが女の子、たとえば真柚だったりしたら。そう考えると、僕の気持ちは少しざわついた。しかしそれを見透かしたように滅苦が、「黙如さん、もしかしてそれは、煩悩じゃないですか?」と指摘した。
「おっしゃる通り!本当にね、俺は煩悩が百八の二乗あるから、こういう話にはすぐ飛びつくんだけどな」
「でも、黙如さんは出家してるのに、煩悩が多いっておかしくないですか?」
僕がそう言うと、彼は満面の笑みを浮かべた。
「あのね、煩悩が多い人ほど、それをどうにかするために出家するんだよ。煩悩がなけりゃ、そもそも出家する必要ないし。とはいえ、出家したらいきなり煩悩消滅ってわけでもないんだよね。たぶん死ぬまでなくならないし」
「じゃあ出家ってつまり、無駄なこと?」
「無駄、とは言わないけどね」
黙如はいたって真面目な顔つきになり「俺は自分のことを、煩悩と戦うドン・キホーテのようなものじゃないかと考えてる」と言った。
「ドン・キホーテ?」
「そう」と頷く黙如を見上げて、滅苦は「こういう話をするから、檀家さんが住職はインテリだ、とか言うんですよ」と、うっとりしてる。美蘭が見てたら「本当にやだよね」とか言いそうだ。
もう面倒だから話にはつきあわず、餅ピザに集中していると、うまい具合に黙如のスマホに着信があった。
「はいはーい、しゅうちゃん?かるたは二時からだよ。うん、早く来ても大丈夫。お友達連れてきてもいいよ。待ってるからね」
黙如は手早く通話をすませると、「さあ、お昼も済んだし、かるた大会の準備開始だ」と宣言した。
「かるた大会?」
「毎年冬休みの最後の日に、小中学生を集めてやるんだよ。中学生は百人一首だけどね。お菓子も出るし、優勝者には豪華な賞品もあるし。今日は亜蘭がいてくれて本当によかった。ボランティアの子がノロウィルスで来れないって、今朝いきなり連絡がきて困ってたんだ。これも仏縁だね。ありがたいありがたい」
子供って、どうしてあんなに大騒ぎできるんだろう。
ようやく最後の一人が帰ったというのに、僕の耳には彼らのきんきんした叫び声だとか、やたら大きな足音だとか、豪快に鼻水をすする音だとか、色んなものが反響し続けていた。
かるた大会に集まった子供の数は三十人ほどで、そこへ母親だとか、まだ参加できない小さな子も入り乱れての阿鼻叫喚。はしゃぎ過ぎて転んだ上にジュースをぶちまけたり、勝った負けたで取っ組み合いの喧嘩になったり、一瞬たりとも静かにならない。
そして何の因果か、僕はかるたを読み上げる役を任され、生意気そうな女の子二人組に「メリハリがない」だの「切るとこが変」だの、文句ばっかりつけられて散々だった。
黙如は賞品を配り終わると、さっさと坊主カフェに出勤してしまい、後片付けも僕と滅苦。手伝おうって子供もいたけど、そこから次の遊びが始まったりして、いつまでも終わらない。
結局、最後の一人が帰った頃にはすっかり日が暮れて、猫のミントは探せずじまい。滅苦が夕方のお勤めをするという隙に、僕は自分で淹れたコーヒーを手に、彼の部屋へと退却した。
こんな風に気持ちが収まらない時は、毛づくろいをするに限る。
クッションにもたれ、濃いめのコーヒーを一口飲んで、ベッドの上で寝そべっているソモサンに接触する。二匹の猫はかるた大会の喧噪を嫌って、ずっとここに隠れていたのだ。
軽く伸びをして、前足と後ろ足、全ての指と爪を思い切り広げる。そして座り直すと、まずは背中の毛を一通り舐める。それから脇腹や後ろ足も丁寧に舐め、胸元も前足も舐めて、左右の肉球もきれいにする。そして最後にゆっくりと顔を洗い、ヒゲも整える。
これだけやると、撫でつけた毛並みと同じように、僕の気持ちも穏やかに落ち着くというわけ。僕はソモサンとの接触を切り、毛づくろいの間に少しぬるくなったコーヒーを飲みながら、この後のミント捜索をどうしようかと考える。
その時、いきなり誰かが襖を開けた。
顔を上げるとサバエがそこに立っている。いつものピーコートにマフラーを巻いて。
せっかく撫でつけた毛並みが、一気に逆立つような緊張。
「ここで何してるの?」と思わず尋ねると、「そっちが呼んだんじゃない」とぶっきらぼうに返される。
「ちょっと話があるから東林寺に来てって、呼び出したよね」
するわけないし。
また美蘭のなりすましだろうけど、もう限界。僕は全てを暴露する覚悟で「悪いけど、それは僕じゃない」と言おうとする。でも言葉が出る前に、とても奇妙な物音と気配が僕の神経を激しくざわつかせた。
それは静かに低く、一定のリズムを刻みながら近づいてくる。知らないものではないのに、思い出せない。
次の瞬間、丸くなっていたソモサンがいきなり飛び上がり、すごい勢いでベッドの下に隠れた。セッパも慌てて後を追う。
「何?どしたの?」
サバエは僕の顔と、猫のいた場所を交互に見て質問したけど、僕が答えを出す前に、奴らは姿を現した。
「わ、な、亜蘭!何これ!何これ!」
廊下から、サバエの開けた襖を通って、次々入り込んでくる褐色の獣。猫より一回り大きくて、尻尾が長くて、顔には極太の白いラインの、ハクビシン。ざっと見て十匹は下らない。
奴らは人間への警戒心なんか全く見せずに進む。気圧されたサバエは一歩、また一歩と後ずさりを続けた。そして、思わず立ち上がった僕をつかまえて盾にする。でも足がもつれたのか、転んでしまい、僕も彼女に引っ張られて倒れこんだ。
ハクビシンたちはお構いなしに、僕を踏みつけて進み続けた。
猫よりも発達した肉球の、ぷにぷにとした感触が僕の背中を移動し、尻尾がその後を軽くなぞってゆく。とりあえず、攻撃の意思はないらしい。
奴らは一匹また一匹と僕を踏み越え、更に高いところへ上がろうと、棚をよじ登ってるみたいだった。
ようやく最後の一匹が離れたところで顔を上げると、棚の上の天井が破られ、暗い口を開けているのが目に入った。最後の一匹は今まさにその穴から、屋根裏へ姿を消そうとしている。僕は思わず「待て!」と叫んでいた。
奴はほんの一瞬だけこちらを向き、すぐに姿を消したけれど、僕はその丸い耳から、スズメバチが顔をのぞかせていたのを見逃さなかった。
「ああああ亜蘭、今の一体何なの?」
サバエは僕にしがみついたまま離れようともしない。僕は覚悟を決めて「美蘭の仕業だ」と言った。
「ちょっと、ここ見てくれる?」
一番説得力のある証拠はこれだと思って、僕はサバエに左の後頭部を見せる。耳の後ろから、少し上にいったところ。
「ほら、毛が生えてないだろ?子供の頃、美蘭に引っこ抜かれたんだよ。一緒に寝てた時に僕がおねしょしたら、完全にブチ切れちゃって、一瞬で。死ぬかと思うほど痛かった」
「あ、本当だ、十円、ていうか一円ハゲになってる」
「美蘭って、そういうひどい事を平気でやるんだよ。過激すぎるんだ。だからさっきのハクビシンも」と、僕が説明しているのに、サバエは「ありがとう」と言った。
「一円ハゲなんて、そんな恥ずかしい秘密を教えてくれるのは、私のこと信じてくれてるからだよね。嬉しいよ」
いや別に、そういう話じゃないんだけど。
どう軌道修正しようか考えていると、「何かありましたか?」と、滅苦が慌てた様子で駆け込んできた。そして「あ」と言ったきり固まっている彼を見てようやく、僕は自分とサバエがベッドで横になっている事に気がついた。
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