気がついたらここにいて
「それであんた、私に泣きつこうって魂胆かい?」
「泣きついてるわけじゃない。取引したいんだ」
僕はテーブルの上でもう一つの卵を弄びながら、彼女の出方を待つ。
「取引ってかい。まあ、切羽詰まるのも仕方ないか。今日のあんたはハクビシンの匂いがするからね」
笹目は薄い唇に皮肉っぽい笑みを浮かべた。僕の不運を喜んでいるのだ。
「せっかく姉さんが連れてきてくれた獣だ。仲良くしておやりよ。猫とそんなに変わりゃしないだろう」
「ここにハクビシンが出たら、僕の気持ちも少しは判ると思うよ」
「そりゃあないね。ブチのこと、見くびらないでおくれ」
そして笹目はゆっくりとゆで卵を食べ、お茶を飲む。
未明の騒動のせいで、僕は眠くて仕方ない。逃げ回るハクビシンをどうにか毛布に丸め込み、車で遠くに捨ててきたのだ。近所で逃がしたら、
「でもねえ、首尾よくそのロシア何とかの子猫を見つけて売ったとして、姉さんはすんなり分け前をくれるのかい?」
「なんとか交渉する。僕の取り分は全部、笹目にやるよ。とにかく、急いでどうにかしないと、また何かされる」
「なるほどね。とはいえ後払いは信用ならない。手付は先にもらいたいね。別に現金じゃなくていいんだよ」
手付金の代わりに笹目が要求したのは勤労奉仕だった。彼女の住まいである東林寺の離れへ行き、こたつの周囲にそびえるガラクタの山を、多少は秩序ある状態へと積み直す。好きでカオス的な環境に住んでるのかと思ったら、少しは居心地が悪かったらしい。
「うどの大木でも使えるもんだ。
「力仕事なら
「残念ながら住職は引く手あまたでね。それに、ああいう賑やかな人間は暑苦しくていけない。夏だろうと冬だろうと、蛇みたいにひんやりしてるのが一番さ」
そんな事を言いながら、笹目は僕が積み直している箱や包みの中をあらためていた。固めた枯草みたいなものもあれば、螺鈿細工の鏡や、鼻緒の切れた草履も出てくる。和綴じ本の間にフロッピーディスクが入っていたり、「団結 第五十一回メーデー」と染められた日本手拭が出てきたり、要するに全部ゴミだ。
とりあえず全ての山を並べ替えると、床面積が三割ほど広くなり、笹目は「片付けすぎると却って不便だ」と作業を打ち切った。後はまとめた新聞紙や雑誌のたぐいを、墓地の脇にある物置まで運ばされる。
三往復して最後のひと山を運んだところで、滅苦に出くわした。ヒーターの灯油を入れに来たらしい。
「こんにちは。笹目さんのお手伝いですか?檀家さんからいただいたお菓子が沢山ありますから、召し上がっていきませんか?」
相変わらず妙に大人びた誘い文句。笹目のとこじゃ水の一杯も出ないので、僕は「できたらコーヒーも飲みたいんだけど」と彼について行った。
「
何度か僕を呼ぶ声がして、誰かが肩に触れる。気がつくと僕は横になっていて、毛布がかけられていた。
「おやすみのところ、すみません」
声の主は滅苦だ。確かさっきお茶に誘われたはずなのに、どうなってるんだろう。起き上がってみるとそこは、前にも通された座敷だった。
「もしかして僕、寝てた?」
「はい。コーヒーを持ってきたらすごく気持ちよさそうに眠っておられたので、起こさなかったんです」
「三十分ぐらいたってるかな」
「三時間です」
「ごめん、昨日よく寝てなくて」
「ここで寝るのは全然かまいませんよ。でもさっき、笹目さんのところにサバエさんが来られたんです。こっちに寄っていただきましょうか」
その一言で僕の眠気はすっかりさめた。
「駄目。僕がここいるって絶対に言わないで」
「何か都合の悪いことでも?」
「彼女とはもう何の関りもない。ていうか、最初っから何でもないから」
僕がそう言うと、滅苦は心底いぶかしげな顔になって「でも、サバエさんにメロメロなんでしょ?」とたずねた。
「それは嘘。事情があって、つきあってるふりしてただけだから。昨日寝られなかったのも彼女のせいだし」
「眠れないって、好きだからじゃないんですか?」
「違うよ。彼女のせいで美蘭がハクビシンを、っていうか、とにかく絶対に会いたくないから」
そう言う間にもサバエが現れそうな気がして、僕は立ち上がった。
「ちょっと別の場所に避難していい?ここじゃ危ない気がする」
「だったら僕の部屋へどうぞ」
滅苦の部屋は本堂裏の階段を上がったところにあった。四畳半の半分をベッドが占め、あとは本棚代わりの収納ボックスと小さな折り畳みのテーブルだけ。
「よければここで寝て下さい」と言われたけど、さすがにもう寝る気はない。僕は滅苦が淹れてくれたコーヒーを飲み、ずっしり重い最中を食べながら、この寺の猫、ソモサンとセッパの居場所を探った。
二匹の白黒猫は台所の冷蔵庫脇に置かれた段ボールの中で寝ていた。まずソモサンを起こすと、セッパもつられて目を覚ます。僕とソモサンは床に降りると大きく伸びをして、勝手口についた猫ドアから外に出た
僕らは暗くなった墓地を横切ると、墓石を踏み台に塀を飛び越え、笹目の住まいである離れへと近づく。中の様子を探るには裏手の窓の下が一番。僕とソモサンが重ねて置かれたスチロールの箱の上に乗ると、セッパも後からついてくる。
窓に向かって首を伸ばし、耳を立てると、サバエの「でもさあ」という溜息まじりの声が聞こえた。
「謝るどころか、なーんにも連絡してこないんだよ。亜蘭、本気で怒っちゃってるのかな」
「放っておけばいいのさ。男なんてのは犬と同じ。相手が逃げたら、頭が考える前に体が追いかけてる」
「それって、けっこう馬鹿ってこと?」
「馬鹿じゃない男なんて見たことないね」
「そっかあ」
「ついでに言うと女も馬鹿だよ。この世は馬鹿と馬鹿でできてる。大体あんた、世の中の半分が男なのに、亜蘭みたいな粗悪品にこだわる事もないだろうよ。さっさと次の馬鹿をあたればいい」
「でもさあ、うちら女子高だから、出会いなんてないし」
「何をお言いだ。毎日家を出てから帰ってくるまで、何人の男とすれ違うか、一度数えてごらん」
「そんなの、誰でもいいってわけじゃないし。そりゃ黙如さんみたいにカッコいい人ならいいよ。でも、亜蘭だってそう悪くないと思うんだけど」
そこまで言って、ふいにサバエは黙った。笹目も何も言わないし、一体どうしたんだろう。誰かが歩いてるような音だけが聞こえる。もう少し何か聞こえないかと、僕とソモサンがさらに伸び上がったその時、いきなり窓が開いてサバエが顔を覗かせた。
「ニャンコにゃーん!笹目さんすごいね、どうしてニャンコが来てるって判ったの?」
そう言いながら彼女は腕を伸ばしてくる。笹目の奴、猫と僕に気づいていたのだ。なまじ視覚に頼ってないせいで、異様に勘が鋭い。
即座にソモサンとの接触を切ったものの、僕の動悸はなかなか収まらない。猫と一緒なら毛づくろいでもして気持ちを立て直すとこだけど、一人だとそうもいかない。仕方ないからぬるくなったコーヒーを飲んでいると、滅苦が戻ってきた。
「ばたばたしてすみません。ヨガ教室の準備をしてたもので」
「ヨガ教室?ここでやってるの?」
「はい、本堂で毎週夜七時から。他にも色々ありますよ。詩吟に座禅にマインドフルネス。東林寺は地域密着型の開かれたコミュニティを目指してるんです。さらば葬式仏教、生きた教えを暮らしの中に、がモットーです」
「それ、もしかして黙如さんが提案してるの?」
「はい。他にも防災訓練を兼ねた炊き出しとか、野菜の即売会とか。夜のパトロールと一人暮らし見守り隊もありますし、あとは節分やバレンタインみたいな、季節のイベントでけっこう忙しいです。ボランティアの人が手伝ってくれますけどね。亜蘭さんも何か参加してみませんか?」
「悪いけど、そういうの苦手なんだ」
ていうか、考えるだけでも面倒くさい。
「修行か何か知らないけど、こんなとこにいるより自分の家でのんびりしたいとか思わないの?」
「僕はイベントが沢山ある方がいいかな。楽しいから。それに、自分の家にはまだ帰れないんです。うちのお寺は福島にあって、避難解除されたばっかりだから」
「それって、原発事故の?」
「はい。両親はもう村に戻ってますけど、他の人たちが帰ってないからお寺も開店休業なんです。学校もまだだし」
こういう時、何て言うべきなんだろう。それは大変だったね、とか、ありがちな台詞も浮かんだけど、口にはできず、僕はただぼんやりと滅苦の言葉を聞いていた。
「でも僕は、どういう風に東林寺に来たのかよく憶えてないんですよね。気がついたらここにいて学校に通ってたって感じで」
彼は自分自身に呆れたような、少し寂しげな顔つきになった。
「でも黙如さんは、そうそう俺も!酒飲んだ次の日は何も憶えてないし、そんなのしょっちゅうだよ!って言うんですよね」
「確かに僕も、昔のことってあんまり憶えてないよ。気がついたら高校生になってた」
正直なところを述べると、滅苦の顔つきが明るくなった。
「そっか、やっぱり普通の事なんですね」
「でも、美蘭はすごく細かい事まで憶えてるから、僕が忘れっぽいのかも」
「それはきっとお姉さまの記憶力が特別なんですよ。とっても頭が良さそうだし。あんな素敵な人がお姉さんで、亜蘭さんは本当に幸せですね」
「いや、むしろ逆。美蘭のせいで不幸続きだから」
僕がそう言うと、滅苦は「そんなあ!」と声を上げた。
「いいですか、亜蘭さんは自分の幸せに少しも気づいていない。毎日お姉さまがそばにいて、お話ししたり、食事をしたり」
「だからそれが嫌なんだ。いくら説教されても僕の気持ちは変わらないから。はっきり言って、美蘭よりソモサンとセッパの方が…」
僕がそこまで言った時、「きっとここにいるよ」という太い声が聞こえた。
「滅苦、お客さん」と襖を開けたのは黙如で、その後ろから顔をのぞかせたのはサバエだった。
僕も滅苦も固まっていたけれど、サバエも何も言わない。黙如だけが「ほらね!じゃあごゆっくり。俺は坊主カフェ行くから、またあっちにも顔出して」と能天気に立ち去り、僕ら三人は沈黙のうちに取り残された。
「あのう、最中、召し上がりませんか?檀家さんからいただいたんですけど」
ようやく口を開いたのは滅苦で、サバエはにこりともせず「いらない。お正月に食べ過ぎちゃってブタ警報だから」と言った。
「じゃあ、お茶だけでも。っていうか、七時からのヨガ教室に参加されませんか?ダイエット効果もあるって女性に大人気ですよ。ワンレッスンのトライアルだったら無料です」
「一回だけじゃ痩せないから、やらない」
とりつく島もない彼女の態度に、滅苦も困った様子でこちらを盗み見る。でもそもそも僕を切ったのはサバエの方なのだ。こっちには何も言うことなんてない。ただ睨み合いが続いて、サバエの足元をすり抜けて来たソモサンとセッパがいなければ、本当に時間が止まったかと錯覚するほどだった。
いきなり、サバエが僕の前に何か放ってよこした。
「笹目さんから」とだけ言うと、彼女は襖も閉めずに踵を返し、大きな足音をたてて階段を駆け下りる。滅苦は長い潜水を終えたような溜息をついてから「追いかけないんですか?」と非難めいたことを言った。
「だからさ、つき合ってないから」
あらためてそう念押しして、僕はサバエが投げたものに手を伸ばす。
僕が拾ったのは、赤い首輪だった。サイズからみて猫用、それも大人じゃなくて子猫。少しだけ使った痕のある穴に指を滑らせると、僕の頭の隅に小さな明かりのようなものが灯った。それはほとんど消えそうで、しかもちらちらと定まらないけれど、その首輪をつけていた猫の波長を伝えてくる。
替え玉のミント二号によく似た、でも更に活発な気性の雄猫。ミント一号。
笹目の奴、やっぱり最初から知ってたんだ。
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