隠してることない?

 結局、僕の煩悩は「劣等感とそれに伴う嫉妬心、ひがみ根性」と定義された。

 自分で考えずにすんだからいいか、と思いながら、僕はそれをノートの切れ端に書き、サバエに連れて行かれた東林寺のカウントダウンパーティーで燃やした。

 しかし噂によると人の煩悩は百八つ。僕にはまだ多くの煩悩が残ってる。だから素直にそれに従い、杉田家の飼い猫、ミント二号に接触することにした。

 

 今日は新年明けて三日、時間は夜の十一時。ロシアンブルーのミント二号は明かりの消えたリビングのケージで一人遊びに興じている。僕はそんな彼の意識をおもちゃから引き離し、ケージの隙間から前足を伸ばすと、ロックを外して脱出した。

 壁際を走り、ドアノブに飛びついてぶら下がる。まだ体重が軽いので少し心配だったけれど、なんとかドアノブは回転し、僕とミント二号は廊下に出る事ができた。

 誰かが一緒に寝てくれれば、こんな脱出しなくていいんだけど、この家では誰もそこまで猫に入れ込んでないらしい。

 暗く冷えた廊下を抜け、階段を一段ずつ跳んで上がる。サバエによると、二階の一番手前が彼女の部屋で、その次が姉の真柚まゆ、つきあたりが両親の部屋らしいから、僕らは迷わず真柚の部屋へ向かった。

 ここでいきなり猫が自分でドアを開けて入るのは、少しホラーな展開なので、あざとい方法を選ぶ。ドアに爪をたててひっかくのだ。

 世間一般の猫好きな飼い主なら、この程度であっさり陥落する。うまくすれば今夜から一緒に寝てもらえる。哀れっぽく声を上げてもいいけど、サバエや両親に気づかれたくないから、ここは無言で。

 ドアを何度かひっかくうち、中で人の気配がして、足音が近づいてきた。ドアノブの回る音がしたので、僕らは少し後ろに下がり、ドアが開くと同時に中へ入り込んだ。

「やだ!どうしたの?」という真柚の声を聞きながら、とりあえずベッドに飛び乗って振り向く。彼女は髪を後ろでまとめていて、淡いブルーの部屋着姿。

 初めて会った時から、猫にあまり関心なさそうなのは気づいてたけど、飼ってるうちに情が移ったという事もありうる。僕らは煩悩を込めた声で、何度かニャアニャアと呼びかけてみた。それから、期待をこめてベッドの上で転がってみせる。

 しかし真柚は「駄目!毛がついちゃうから降りて!」と言うなり、本棚から大判の青いファイルをを抜き取り、それで僕とミント二号を追い立てた。

 手ですらなく、ファイル、というこの拒絶感。

 僕らはいったんベッドから跳び下り、ボアのスリッパを履いた彼女の足元にすり寄ってみたけれど、「だからやめてってば」と、かわされてしまった。

 真柚はそのまま青いファイルで僕らを廊下に追い出すと、無言でドアを閉めた。せめて抱き上げてケージに戻してほしいんだけど、と未練がましくドアをひっかいていると、いきなり隣室からサバエが顔を出した。

「何やってんの」

 まずい。僕とミント二号はすぐさま階段を駆け下りてリビングを目指した。

 後からサバエの足音が追いかけてくる。ケージに飛び込んだところで、リビングの明かりがつき、鮮やかなピンクに星柄のフリースを着たサバエが覗き込んだ。

「ちゃんと閉まってなかったのかなあ。ミント、寂しいから上がってきたの?」

 このまま彼女の部屋に拉致されたらゲームオーバー、ミント二号との接触を切ろうと考えながら、僕らはケージの隅にうずくまり、彼女の出方を待った。

「寂しくても、真柚ちゃんの部屋は駄目だよ。そんな事したら、うちにいられなくなるから」

 サバエはそう言って、ケージのドアを閉めるとロックした。


 ミント二号と接触を切った僕は、自室のベッドに寝転がって天井を眺める。真柚のそっけなさに激しく落ち込んではいたけど、それとは別にサバエの言葉が引っかかった。

 そんな事したら、うちにいられなくなるから。

 僕はミント二号を、迷子になった一号の替え玉として杉田家へ連れていった。それを依頼したのは真柚。サバエは戻ってきたミント二号を歓迎していたけれど、真柚は無関心というか、むしろ疎んじている。

 僕の怠惰な頭では、この事実関係を矛盾なく収めることができない。面倒だ。丸投げしよう。


「確かにそう言ったの?」

 ベッドに寝そべって本を読んでいた美蘭みらんは、肘をついて起き上がると、傍で香箱をつくっている三毛猫小梅こうめの背を撫でた。

「うん、そんな事したら、うちにいられなくなるから、って」

「そりゃ、しつけでしょ。猫に説教する人なんて、珍しくもないし。そういう人は電柱にでも話しかけるからね。以上。はい出てって」

「でも何かおかしくない?もしかして、ミント一号は迷子になったんじゃなくて、あの家にいられなくなったんじゃないかな」

「だから何よ。いなくなった事に変わりないじゃない。余計なこと考えてないで、さっさとミント一号を見つけりゃいいのよ。何のためにサバエちゃんとつきあってるの」

「いや、つきあってないし」

 僕が速攻で否定すると、美蘭は眉間に軽くしわを寄せ、「ここに座って」と、自分の隣を指さした。

「嫌だ」

「明日目が覚めたら、ハクビシンと寝てるかもね」

 仕方ないのでベッドに腰を下ろすと、彼女は「サバエ、何か僕に隠してることあるだろ?」と言いながら、僕の顎に指を添えて自分の方へと向けた。

「ばれてないと思ってるだろうけど、ちゃんとわかってるよ。だって僕はいつも君のこと見てるから」

 低い声でそう囁きながら彼女は少しずつ顔を寄せてきて、その柔らかな息が僕の首筋をくすぐる。

「そう、猫のミントだよ。あの子猫の事で、何か困ってたんじゃない?秘密なのかもしれないけど、そのせいで君が苦しい思いをしてるのが、僕にはわかるんだ。話してくれたら、きっと力になれるよ」

 そして美蘭は僕の頬に頬をつけて、黙ってしまった。一体どうしたんだろうと訝しんだ瞬間、僕は突き飛ばされて勢いよく床にひっくり返った。

「これくらいやってみな。実技指導料三千円つけとく。あと、もう少し丁寧にヒゲ剃れ」

 そして彼女は僕に背を向けてベッドに寝転ぶと、「さっさと出てって」と読書を再開する。一部始終を見ていた小梅は、馬鹿にしたようにビャアと鳴いた。


 それから二日後、サバエから初詣に誘われた帰り道、僕は彼女の家に上がり込むことにした。面倒くさいのは山々だけれど、何かしなくてはこの拘束状態を抜け出せないからだ。

亜蘭あらんってやっぱり優しいよね。ミントがどうしてるか。様子を見たいだなんて」と、サバエは嬉しそうに僕をリビングへ通してくれた。

 ミント二号は相変わらずケージの中。退屈そうな顔つきで銀色の毛皮を舐めている。僕がその前にしゃがむと、サバエも隣に来た。

「普通に元気でしょ?」

「うん。少し大きくなったね」

 ミント二号は構われないのに慣れているのか、僕らを無視して毛づくろいに没頭している。

「この子の世話って、君がしてるの?」

「まあ基本、お母さんかな。おばあちゃんちで猫飼ってたことがあるから、慣れてるし。私は朝、ギリギリまで起きられないから無理なんだよね。夜のごはんはあげたりするけど」

「じゃあ、猫を飼いたいって言ったのは、お母さんなの?」

「それは真柚ちゃん、になるのかなあ」

「え?お姉さんが、猫が欲しいって言ったの?」

 だとしたらこの前の、僕とミント二号に対する邪険な扱いは何だったんだ。

「猫が欲しい、っていうか、何ていうか。あのさ、十一月におじさんの還暦祝いがあったんだよね」

「還暦祝い」

 いきなり話が飛んだけれど、ここで何か言っても無駄な気がする。

「それで、うちら家族もお祝いによばれて、四人で栃木まで行ったんだよ。でもさ、おじさんちの辺は田舎でさ、お祝いのご飯食べて、しばらくしゃべって、ぐらいしかする事ないの。

 で、近所のショッピングモールのカラオケに行ったら、順番待ち。仕方ないから皆でぶらぶらして、時間つぶして。そしたら、ペットショップがあったの。チワワとかミニチュアダックスの子犬とか、ウサギやハムスターに、子猫もいたなあ。真柚ちゃんはロシアンブルーの子猫を見て「可愛い」って言ったんだよね。で、その後カラオケ行って、夕方まで歌ったかな。それで、次の週末にお父さんがミントを買ってきたの」

「カラオケ、関係ないよね」

「あるよ。順番待ちだったせいでペットショップ行ったんだから」

「でも、どうして君んちのお父さんはいきなりミントを買ってきたの?」

「だからさ、真柚ちゃんが子猫を「可愛い」って言ったからだよ。うちのお父さんって、真柚ちゃんと仲良くなりたい人なの」

「でもお姉さんは、猫を飼いたいとは言ってない」

 僕がそう指摘すると、サバエは眉間にしわを寄せた。

「だからさ、お父さんは真柚ちゃんを喜ばせたくて、ミントを買ったんだよ」

「それで、お姉さん喜んだの?」

「あんまり、っていうか困ってると思う。猫とか動物全般、好きじゃないし」

「お父さんはその事を知ってるの?」

「そんなの知られちゃ駄目だよ。せっかく真柚ちゃんのためにミントを連れてきたのに、本当は嫌だったなんて最悪じゃない」

「じゃあ、どうしてお姉さんは子猫のこと可愛いなんて言ったの?」

「だって普通に言うじゃん。とりあえずなんか言っとかなきゃって時は、可愛いって。友達の新しい髪型とか、親戚の赤ちゃんとか、先輩がくれたボールペンとか、全部可愛いだよ。本当はどう思ってるかはどうでもいいし。その場のノリがいちばん大事なんだから」

「でも、お父さんは何故そんなにお姉さんと仲良くなりたいの?」

「理由なんかないよ。お父さんってそういうものだから。亜蘭のお父さんもそうでしょ?」

 こんな時、美蘭なら「まあ、そうかもね」なんて話を合わせるだろうけど、僕にそんな才能はない

「父親とは会ったことないから、判らない」

 サバエは驚いたような顔つきになって、「もしかして、傷ついた?」と言った。

「いや。どうして?」

「だって亜蘭、お父さんいなくて可哀想な人なのに、私がそのこときいちゃったから」

「父親がいないのは、別に可哀想じゃないし、傷つくことでもないよ」

 しかしサバエはかなり神妙な表情で黙っていたかと思うと、いきなり僕の腕をつかみ、顔を寄せてきた。

「ねえ亜蘭、何か私に隠してることない?ばれてないつもりだろうけど、ちゃんと判るよ」

「いや、何もないけど」

「ごまかさなくていいよ。私は亜蘭のことずっと見てるんだから。いつも何だか、困ったような顔してるよね。秘密かもしれないけど、話した方が楽になると思うよ。私は味方だから」

「も、もしかして、美蘭に実技指導料三千円払った?」

「美蘭に三千円?何の話?」

「何でもない」

 僕はどうやってこの場を乗り切るかを必死に考えていた。隠してるのは、サバエよりも真柚に心惹かれているという事だけど、白状したら修羅場まっしぐらだ。

「とにかく、僕には隠し事なんてないよ」

 やっとの思いでそう言った時、玄関に誰か帰ってきたらしい物音がした。サバエは軽く首を巡らせ、「真柚ちゃんだ」と呟く。靴があるから、僕が来てるのに気づいたはず。でも彼女はそのまま階段を上がり、リビングには姿を見せなかった。ミント二号はともかくとして、僕にも関心がないらしい。別に驚かないけど。

「ほら、その顔だよ」

 サバエの声で僕は我に返った。

「今の、困ったみたいな顔。もしかして真柚ちゃんと関係ある?」

「ない。百パーセントないから。顔は生まれつき」

「ふーん」、と気のない返事をして、サバエはケージを開け、ミント二号を抱き上げた。そしていきなり「ニャンコ体操第一!」と叫び、両方の前足をつかんで振り回す。僕は思わず「だから駄目だってば」と、ミント二号を奪い取っていた。

「やっぱりね」と、サバエは低い声でうなずく。

「何?」

「今、困った顔なんかしてなかったよ。普通に驚いてた」

「だって、急にニャンコ体操とかするから」

「でも生まれつきなら、驚いた時でも困ったみたいな顔するよね」

「いや、驚いた時は驚いた顔だよ」

「もういい。亜蘭、私に嘘つくんだ。傷ついちゃったよ。帰ってくれる?」

「…わかった」

 いきなり梯子を外された気分で、僕は腕の中のミント二号をケージに戻し、杉田家を後にした。


 ミント一号の手がかりこそつかめなかったけど、サバエが僕を切ってくれたんだからこれでいい。そう思って家に戻り、キッチンで小梅の夕食を用意していると、美蘭が現れた。

「あんた、最低ね」

「何が?」

「帰れって言われて、素直に帰る馬鹿がどこにいる」

 僕は手にしていた「猫貴族 若鶏のクリーム仕立て」のパウチを床に置き、彼女を睨んだ。また何か、サバエから聞き出したに違いない。

「言っとくけど、私からは何も探ってないからね。サバエちゃんが連絡してきたの」

「だって向こうが僕を切ったんだから、終わりにするしかないだろ」

「じゃなくて、機嫌とらなくてどうするのよ。ごめん僕が悪かったって、フォローすればいいだけの話じゃない」

「そんな嘘はつけない。機嫌とるだなんて、面倒くさすぎるんだよ」

 僕の中に、言葉にならない苛立ちが膨れ上がる。

 さっさとこの場を離れたい。乱暴にパウチの封を切って、ボウルに中身をあけると、美蘭の足元から小梅が顔を覗かせた。三毛猫はゆっくり近づいてくると、注意深く匂いをかいでから食事を始める。

「嘘でも何でも、さっさと謝って仲直りすりゃいいの」

「絶対無理」

 美蘭はまた何か言いかけたけど、口をつぐむとキッチンから出ていってしまった。さすがに分が悪いと感じたんだろう。当たり前だ。


 その夜、というか明け方近く、僕は変な気配で目を覚ました。

 部屋に何か、生き物がいる。

 最初は小梅かと思ったけど、それよりも大きな何かだ。

 とりあえず明かりをつけようと手を伸ばしても、いつもの場所にスタンドがない。嫌な予感がして、こんどはスマホを探すけど、これもどこかに移動している。分厚いカーテンのおかげで街灯の光も届かず、真っ暗な中で僕はその生き物の気配を探った。

 時折、床を引っかくような乾いた足音がせわしなく動き回る。生き物は遠ざかったかと思うと近くをうろつき、いきなりベッドに飛び乗ってきた。僕が反射的に布団にもぐると、奴はその上に登る。

 敏捷な四つの脚が僕の背中を走り、その軌跡に尻尾がアクセントをつける。重さは小梅の倍ほどだろうか。

 小梅より大きい、という事はこの部屋の猫ドアを通れない。つまり、この生き物は誰かがドアを開けて放り込んだ事になる。そして僕が追い出さない限り、こいつはずっと居座り続ける。

 冗談じゃない、と、僕はベッドを出た。散らかった部屋をつまずきながら横切ると、手探りでドアの脇にあるスイッチを押す。

 部屋に光が溢れ、眩しさで細めた僕の目に、ベッドの上にいる獣の姿が飛び込んできた。

 褐色の被毛に覆われた頑丈そうな体、長くしなやかな尻尾。鋭い爪を備えた四肢に丸い頭。愛玩動物かと錯覚しそうな、黒くてつぶらな瞳。額から鼻面にかけて、刷毛で引いたような白いラインがある。

「ハクビシン?」

 突然の明るさで硬直していた獣は、一瞬でベッドの下に潜り込む。本当、冗談じゃない。

 

 

 





 

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