がっついた男子
雑居ビルの仕事場を後にした
さっきまで午後の日差しに照らされていた街並みが、今はもう夕闇に包まれている。西の空はわずかに明るい光を残しながら、徐々にその色を変え、宵の明星だけが輝きを増していた。
笹目は眼鏡やなんかで矯正できないほど視力が弱くて、それは生まれつきだ。でも彼女は何か別の力で視覚を補ってるらしく、だからさっきみたいに一瞬顔を合わせただけで、僕が誰だか察知してしまう。変装など無駄なことで、一度彼女に憶えられたら逃げるのは簡単ではない。
うちの一族はとにかく自堕落な面倒くさがりばかりなので、ほとんどの人間は仕事もせずにだらだらと暮らしている。ただ皮肉なことに、怪しげな技の数々だけは大昔から律儀に伝えていて、一族の中でほんの一握り、貧乏くじをひいた者だけがこの技を操って他の一族に仕え、その見返りとして経済的な後ろ盾を得ているのだ。
笹目は貧乏くじをひいた人間の一人で、蛇を遣う。大体は細くて暗い場所に潜り込んで、失せ物やなんかを探すみたいだけど、時には毒蛇を操ってよろしくない事もしているらしい。
とはいえ、蛇って生き物は冬眠するから、寒い時期はまず仕事にならない。だから冬場はインチキ占いで日銭を稼いでるという噂は聞いてたんだけど、まさかここで出くわすとは思ってもみなかった。
「ねえ
有無を言わさない口調で、サバエはいきなり指を絡めてきた。それに反応したかのように笹目はちらりと振り向き、「仲のよろしいこと」と皮肉っぽく笑う。
「もうあと少しでうちに着くから、あとはお二人でどこへでも遊びにお行きよ」
そして彼女の言葉通り、五分も歩かないうちに、僕らは東林寺と書かれたお寺の門に着いていた。
「この奥の離れに住んでるのさ」
笹目とブチの後について門をくぐるとだだっ広い前庭があって、その奥に本堂が見えた。お寺を名乗っているものの、植木や建物、全てに極力お金をかけていないという印象で、要するに安普請、思い切り好意的に評価してミニマリストの宗教施設だ。
笹目はその本堂に寄りもせず、石畳の上を進んで裏手にある墓地へと抜けた。もちろんこんな夕暮れに参拝人などいなくて、時おり吹く強い風に卒塔婆が乾いた音をたてるだけ。サバエはわざとらしく僕に身体を寄せてきた。
「このお墓、なんか怖いよ。笹目さん平気なの?」
「何てことはないさ。電車のホームの方がよほど恐ろしいね」
墓地の脇にある小道を通り、突き当りの塀にある木戸を抜けると、貧相な平屋が目に入った。そこが笹目の住まいらしい。彼女はストールを巻いた襟元から細い紐を手繰り出すと、その先に結んだ鍵で引き戸を開けた。
「それじゃ、お世話さま」
先に犬のブチを玄関に入れると、笹目は後ろ手に戸を閉めようとする。僕は慌てて「せっかく送ってきたんだから、お茶ぐらい出してよ」と食い下がった。このまま帰されたんじゃ意味がない。まあ、笹目も僕の下心は察してるのか「お茶なんざ、飲みたけりゃ自分で淹れておくれ」と大儀そうに言って、中へ通してくれた。
入ってすぐの和室は四畳半ほどで、真ん中にこたつが置かれ、手の届く範囲に雑多なものが積み上げられていた。その奥は台所で、更に向こうはトイレと風呂場。どうも笹目はこのこたつで寝起きしているようだ。うちの一族らしい、活動を最小限にとどめるやり方で、僕がここに住んでもきっと同じ選択をするだろう。
「なんかここ、狭くて落ち着くね」と言いながら、サバエはこたつに入ろうとしたけれど、笹目はすかさず「そこは私の場所だよ」と押しのけて腰を下ろす。
「あんたせっかく来たんだから、少しは働いてお帰りよ。ブチに水やっておくれ」
「了解!」
「そこのやかんに水道の水をくんで、玄関の洗面器に注いでやればいいから」
「はーい」と答えて、サバエは古雑誌の束やなんかを避けながら台所に向かう。その隙に僕は笹目に小声で尋ねた。
「さっきあの子に、猫の話をしてただろ?」
「さあて、何の事やら。それよりあんた、自分の彼女の名前ぐらい言えないのかい」
「それは関係ないから。猫は住職に任せたって、そう言ってただろ?」
「あんたは子供だから判らないだろうけど、年とると五分や十分ばかり前の話なんざ、きれいに忘れちまうのさ。その代わり昔の事はよく憶えてるよ。あんたはうちの蛇を怖がって、いつも姉さんの後ろに隠れてたっけね」
「そんな事ないよ」
「おやそうかい。じゃあ、ちょうどそこに一匹いるから、撫でてやっておくれよ」
思わず、その指さす方を振り向いた僕を見て、笹目は「ごめんよ、見間違えたようだ」と馬鹿にした笑いを浮かべた。こういうところ、うちの一族共通の意地の悪さで、煮ても焼いても食えない。
そこへサバエが「ブチにお水あげてきたよ」と戻ってきたので、僕は「帰ろうか」と声をかけた。
「でもうちら、まだお茶飲んでないじゃん」
「もう暗くなったし、遅くなると家の人が心配するから」
自分が言ったことの矛盾なんか置いといて、僕はさっさと靴を履き、寝そべっているブチをまたいで外に出た。サバエは「じゃあね、場所おぼえたからまた来るよ」と笹目に声をかけてから後に続き、当然といった感じで手をつないでくる。そして「お墓のそばってやっぱ怖いよ」と、ぴったり身体を寄せてきた。
「そんなにくっつくと、歩きにくいんだけど」
「ちょっと、拒否るってひどくない?」
「いや別に拒否って事じゃなくて」
「じゃあどういう…」と詰問しかけたサバエは、いきなり「ぎゃあ!」と絶叫して飛びのき、そのまま派手に転んでしまった。
「どうしたの?」
「なんか、生暖かいのが、すーって通ったんだよ。きっと幽霊か何か」
サバエは地面に座り込んだままだ。
「幽霊なんて存在しないよ」
「そういう話してるんじゃないし。亜蘭、私のこと心配じゃないの?ひどくない?」
「いやまあ、大丈夫かなとは思ってる」
どうして怒られるのかよく判らないまま、僕はとりあえず彼女のそばにしゃがむ。そこへ「どうかしましたか?」という声が聞こえた。振り向くと、誰かがライトでこちらを照らしながら近づいてくる。
小柄な女の人かと思ったけど、近くで見ると男の子だ。六年生ぐらいだろうか、ジャージの上下で、野球でもやってるのか、丸刈りだ。彼は僕と目が合うなり、表情をこわばらせ、「痴漢!?」と立ち止まった。
「ちょっと待って、別に怪しい者じゃないから」
ここで警察なんか呼ばれたらまずい。僕の釈明にも拘らず、彼は「でも女の人が悲鳴を」と、本堂の方へ行こうとする。
「ねえ、何とか言ってよ」とサバエに助けを求めると、彼女は「この人、痴漢じゃないの。彼氏だけどさ、いきなり抱き着いてきたからびっくりして」と口走った。
「やだよねえ、がっついた男子って」
ぶつぶつ言いながら立ち上がる彼女の傍で、僕の頭はフリーズしそうになっていた。嘘つき女なんて姉の
「いやだから、してないし…」と改めて身の潔白を訴えようとしたら、サバエがまた悲鳴をあげて僕にしがみついた。
「これこれこれ!また何か通った!」
慌てて彼女の指さす方に目をこらすと、闇の中で光るものがふわふわと動いている。
「何かの動物じゃない?」と僕が言うのとほぼ同時に、男の子は「ソモサン!セッパ!」と叫び、暗闇にライトを向けた。そこに浮かび上がったのは二匹の猫だ。全身が黒くて、鼻面とお腹と足先がだけが白い。
「すみません、これ、うちの猫なんです。人懐っこくて」
そう言う間にも、猫たちは男の子の足元で交互に身体をすり寄せている。
「なんだ猫か、もう、びっくりした」と、サバエは僕にしがみついていた腕を少しだけ緩めた。男の子は申し訳なさそうに頭を下げ、「あ、怪我してる!」と叫んだ。
たしかに、ライトに照らされたサバエの膝には血がにじんでいる。といっても軽く擦りむいた程度だけど、彼女は途端に「そうなの、もう痛くって!」と騒ぎ始めた。
「すぐに手当てしますから、ついてきて下さい」
男の子は僕らに背を向けると、急いで歩き始めた。サバエはすかさず「痛くて歩けない。おんぶして」と僕を見上げる。
「そんなひどい怪我に見えないけど」
「歩けないの」
ここは逆らわない方がいい。生存本能がそう囁いて、僕は大人しくサバエを背負い、彼女の鞄を拾って男の子の後を追った。
「本当に申し訳ありませんでした。すぐに治るといいんですけど」
男の子はまた頭を下げると、救急箱の蓋を閉めた。サバエの膝には大きな絆創膏が貼られていて、彼女は「明日くらいには痛みも引くかな」なんて勿体つけている。
「せっかくですから、お茶でも飲んでいって下さい」と言いおいて、男の子は部屋を出て行き、僕はあらためて周囲を見回した。
墓地の脇にある勝手口から上がった僕らが通されたのは、広い座敷だった。床の間には掛け軸が下がり、けっこう古そうなお坊さんの写真も何枚か飾られていて、ザ・お寺って雰囲気。
「ね、帰りもおんぶしてね」
へたった座布団の上に足を投げ出し、サバエは当然、という口調で言った。
「もう大丈夫じゃないの?さっき水道まで歩いてって傷洗ってたよね」
「あれは無理してたの。亜蘭って、私のこと全然心配してくれないんだね」
「いや、そういうわけじゃないよ」
これ以上反論するとややこしくなりそうだ。まあいいか、タクシーに乗るぐらいのお金はまだ残ってる、と思い直したところへ男の子が戻ってきた。手にしたお盆を畳に置いて襖を閉めようとする隙に、さっきの猫が二匹、するりと入り込んでくる。
「こら、お客様がいるのに」と男の子が止めたけれど、サバエは「いいじゃん、きっと寒いんだよ」と声をかけた。その言葉通り、猫たちは座敷の隅にあったヒーターの前まで行って、べろんと伸びてしまう。
「すみません、怪我させた上に、特等席まで占領して」と謝りながら、男の子はお盆にのせた緑茶と饅頭を「檀家さんからの頂き物ですが」と勧めてくれた。
「ねえ、あんたまだ小学生でしょ?変に大人みたいな口きくよね」
サバエは饅頭にかぶりつきながら、珍しい生き物でも見るような顔つきになっている。
「小学生じゃないですよ。僕は中一です。あ、申し遅れましたが、河合メックと申します」
「メック?外国の人?」
「いえ、日本人です。滅亡の滅と苦労の苦と書いて、滅苦と読むんです。つまり苦しみをなくするって意味です」
どうも名前に関する質問には百万回ぐらい答えてきたらしくて、やたらと説明上手だ。
「ふーん、いいよねえ、亜蘭もだけどさ、名前かっこいいじゃん」
「亜蘭さんとおっしゃるんですか?そちらこそ、外国の方?」
滅苦はしげしげと僕の顔を見たけど、僕も自分の名前に関しては手慣れたもので、「適当な字を、適当に組み合わせただけ」と説明した。サバエは饅頭の残りを頬張りながら、「彼、双子のお姉さんがいてね、美蘭っていうの。とっても綺麗なんだよ」と口を挟む。
僕は思わず、「君のお姉さんの方が綺麗だ」と反論したけれど、サバエの顔つきから、変な地雷を踏んだことを察知した。
「うん。私より
彼女の声は、妙に平坦だった。
「中学の時は男子が陰で真柚ちゃんのことカワスギって呼んでて、私のことブサスギって呼んでたのも知ってる。カワスギってね、可愛い杉田の略なの。ブサスギは言わなくても判るよね」
「いや、僕はただ、美蘭より君のお姉さんの方が綺麗だって言っただけで、君とお姉さんは比べてないし」
「じゃあ私のこと、お姉さんの美蘭より綺麗だって言えるの?言えないでしょ?ぜーったい言えないでしょ?」
「い、や、い、え」
僕はわけが判らなくなってきた。どうしてこんな泥沼に足をとられたんだろう。そもそも綺麗って何だ。何が基準なんだ。でもここで黙ってるのは賢い選択じゃない。
「言える」
サバエはしばらく僕の顔を見て、それから滅苦の方を向くと「いまの聞いた?」とたずねた。彼は少しひきつった顔のまま、ゆっくりと深く頷く。
「この人、私にメロメロ」
「みたいですね」
「私のこと、運命の女性だって言ったし。本気でメロメロだ」
二人の会話を聞くうち、僕は眩暈がしてきた。
「ちょっと横になっていい?なんだか眠くて」
「どうぞどうぞ、縦でも横でも」と、やっぱり子供らしくない滅苦の言葉を聞きながら、僕は畳の上にひっくり返る。
「ねえ、うちら今日、裏の笹目さんちに遊びに来たんだけど、こんど来る時に、亜蘭のお姉さん連れてきてあげるよ。基本、よく似てるけど、もっと女の子っぽい顔で、背が高くて、少しくせ毛のショートカットがかっこいいの。でも、彼にとっちゃ私の方が綺麗だからね」
「はい、是非お目にかかりたいです。でもその前に、貴女のお名前を」
「私?杉田
彼女は鞄からペンを取り出して、饅頭の包み紙に漢字を書いてるみたいだった。
「友達にはサバエって呼ばれてる。ほら、この立つって字を魚にしたら鯖だから、鯖江。そのうち福井県鯖江市から表彰されるよ」
これは持ちネタらしくて、サバエはキャハハと笑った。しかしどうして姉妹で真柚と靖江なんて違うテイストの名前なんだろうと思っていると、二匹の黒白猫が僕の顔を覗き込み、胸と腹にのってくる。
「ソモサン、セッパ、お客様にそんなことしちゃ駄目だよ」と、滅苦が慌てて止めた。
「大丈夫、亜蘭は猫が何しても怒らないよ」
「そうなんですか?」
「引っかかれても平気だもん。ねえ、あの猫二匹ともそっくりだけど、どうやって見分けるの?」
「尻尾の長いのがソモサンで、短いのがセッパです」
「なるほど!確かに尻尾の長さが違う。でも変な名前つけるよね」
「お寺ですから」
ふーん、と思いながら、僕はソモサンとセッパを順番につかまえて「回路」を開いていた。こうしておけば、猫たちを通じて笹目の動きを監視できるし、行方不明のミント一号に関して何かつかめるかもしれない。
二匹は若い雄の兄弟で去勢済み。ソモサンは活発で頭がいい。セッパはかなりの怖がりで、何事でもソモサンにくっついて行くのが安心だと考えている。その理由の一つは、むかし誰かに尻尾の先を切られたせいだろう。セッパの中にはその時の記憶が黒い靄みたいに澱んでいる。
野良猫はもちろんの事、飼い猫だって、人間から痛い目に遭わされた経験を持つものは少なくない。人間以外にも、カラスや野良犬なんかも十分に脅威だ。僕も小さい頃は、猫たちのこういう記憶をうっかり覗き込んでひどい気分になったりしたけど、今はもう、やり過ごすべきだと判っている。
そして僕は少しだけ、自分の中にある黒い靄の表面を撫でてみる。それは治りそうで治らない口内炎みたいな、うっすらとした痛みを伴っていて、あとほんのわずかでも力を加えれば血が流れるという予感がある。
駄目だ、猫の記憶なんかに引っ張られては。
僕は大急ぎで自分の黒い靄から離れると、もうセッパの頭の中を覗かないことに決めた。使うのはソモサンだけにしよう。
「ほらね、亜蘭も猫大好きだから、ずっとじゃれてるでしょ?」
サバエが滅苦に見当はずれな説明をしていると、「誰かお客さん?」という男の声がして、襖が開いた。
黒い中折れ帽を目深に被ってるけど、年は三十過ぎだろうか。黒の革ジャンにサファイアブルーのマフラーを巻いて、足元はジーンズ。背が高いので鴨居に頭がぶつかりそうだ。
僕らに気づいて「ああ、いらっしゃい」と、帽子をとったらスキンヘッド。彫りの深い目鼻立ちで頸が太く、そのまま美術の授業でデッサンに使えそうな感じ。滅苦が「ここの住職の
彼は猫を抱いて寝ている僕に「ゆっくりしてってね」と笑いかけ、目を丸くしているサバエに「高校生?」と太い声でたずねた。
「俺ね、坊主カフェやってるから一度遊びに来て。約束だよ」
軽くウィンクすると、「じゃあ行ってくるね」と住職は姿を消したけれど、サバエは「今の何?お坊さん?すげえかっこいい!」と騒いでいる。そして僕は何故だか少し面白くなかった。
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