古い知り合いってやつ
みんな一体ここへ何しに来てるんだろう。
群れをなして回遊する魚の一匹になったような気分で、僕はゆるい坂道を下る。やたら目につく十代の女の子は、制服姿だったり、流行をしっかり追いかけた私服だったり、ロリータファッションで外国からの観光客と写真をとってたり。
彼女たちをここに引き寄せているのは何だろう。お小遣いで手が届く範囲のアイテムを揃えたショップ、アイドルが写真をアップしたスイーツ、芸能事務所のスカウトが来ているという噂。どれも正解なようで、間違いに思える。ふだんこのあたりに足を踏み入れない僕は、喧噪と人の多さに眩暈を起こしそうになっていた。
「ねえ、次の角で曲がるよ」
力強く腕を引っ張られて、我に返る。隣には制服の上に紺色のピーコートを着たサバエ。僕は彼女に連れられてここに来たのだった。
サバエの一方的な交際宣言を、僕はいまだに断れずにいる。その理由は猫。
僕と
「何よ、まだ生きてるとかって偉そうなこと言っといてさ。役立たず」
美蘭は冷たく言い放つと、ブロック塀の陰から杉田家に視線を向けた。
「まあ、まだ可能性はあるか。あんたあの子、サバエちゃんと仲良くなってさ、一号のことよく調べて来なさいよ」
そして彼女は僕になりすまし、サバエに「金曜の放課後空いてる?どっか行こう」なんてメッセージを送りつけたのだ。
「ほら、この店でアイス食べるの、夢だったんだよ」
いつの間にか僕らは小さなアイスクリームショップの前に立っていた。
いきなり二人で出かけることになったけど、不幸中の幸いはサバエが主導権を握るタイプだったことだ。おかげで僕は彼女について歩きまわるだけでいい。
パリの街角にでもありそうな外観の店は、奥がイートインコーナーで、座っている客の姿がガラス越しに見えた。ほぼ満席か、と考えている僕の腕を引っ張って、サバエは中に入ると「キャラメルファンタジーとラズベリーノエルのハーフカップでココナッツとマシュマロをトッピングして下さい」と一気に言ってのけた。
「
「いやあの、まだ全然よく見てなくて」
僕は何だか判らないままに、ショーケースを凝視した。とりあえずこの世に不味いアイスクリームは存在しないはずだから、どれを選んでも外れはないだろうと考え、一番近くに並んでいるバナナラプソディとフロマージュノワゼットを選び、チョコレートチップをトッピングにする。そして美蘭から支給された軍資金で二人分を払った。
どんな店でも僕は人目につかない、奥まった席が好きなんだけど、先をゆくサバエは「こっちこっち」と窓際へ突進し、空いていたテーブルを確保した。
「この店、よく来てるの?」
ピーコートを脱がず、早速アイスを食べようとしているサバエに僕は尋ねた。
「初めてだよ。ここ来るの夢だったって、さっき言ったじゃん」
「だけど、すごく慣れた感じでオーダーしてたよね」
「うん。だって夢だから、ここのホームページでメニューチェックして、どれ食べるかずっと練習してたんだもん。ラズベリーノエルなんかクリスマス限定だからさ、間に合ってよかったあ」
「でも別に、いつでも来れたんじゃないの?」
「だからさ」と、サバエはちょっとうんざりした顔で首をかしげてみせた。
「ここ、カップルでないと入れないから」
言われて周囲を見回すと、確かにどのテーブルも二人掛けで、しかも年齢の幅は多少あるものの、カップルのみ。一組だけ男同士がいたけど、明らかにゲイって判る雰囲気だった。
「そんな決まりがある店なんだ」
「決まりはないけどさ、うちらの間じゃそういう事になってるの。ここに友達同士なんかで入るのは、裸で外歩くより恥だから」
サバエの言う「うちら」って、総勢何名のコミュニティなのか知らないけど、とにかく現時点で店にいる客は全員そのメンバーって事だろうか。
「あーうめー。これがファムファタールの味かあ」
「この店、ファムファタールって名前なんだ」
「そう。フランス語みたいよ」
「運命の女性」
仰々しい名前の店だと思いながら、僕が溶け始めたアイスクリームを食べようとすると、サバエは「やーだあ!」と叫んだ。
「亜蘭って、口説くのうまいよね」
「え、別に口説いてないけど」
「私のこと運命の女性だなんてさ、ズキューン!とまではいかないけど、かなり来たよ。コミュ障で馬鹿だけど我慢してねってお姉さん言ってたけど、全然大丈夫じゃん」
「いやだから、それ店の名前…」
僕が言い終わる前に、サバエは手にしたスプーンを僕のカップに突っ込み、「もらいっ!」とバナナラプソディを抉り取っていった。
「これも濃厚でうめー。ねえねえ私のも食べなよ」
「いや、いいです」
僕はもう十分に疲れを感じていたけど、サバエはようやく暖機完了といった感じで、アイスを平らげると「じゃあ行こっか」と立ち上がった。
「来るのが夢だったって割に、早いね」
「だって時間がもったいないから。さっきの運命って言葉で確信したよ。早く報告に行かなきゃ」
「報告?誰に?」
行けば判るって、とだけ答えて、サバエは人の流れをすり抜けながら足早に歩いた。
クリスマスまであと少しで、聞こえてくる音楽もそうだし、どこの店にも何かしらそんな飾りが施されているけど、僕自身はこのお祭りに思い入れなんて別にない。
そうやってどんどん歩くうち、僕らは別のエリアに流れ着いていた。さっきまでの明るくきらめいた街並みに比べると、ここの空気は鈍く沈んでいて、気温も低いように感じる。サバエは迷う気配もなく歩き続け、車一台がようやく通れるほどの脇道へ曲がった。立ち並ぶのは雑居ビルで、格安エステサロンとか、まつ毛エクステやリンパマッサージといった看板ばかり目につく。
しばらく歩くと間口の狭いコンビニがあって、サバエは「ちょっと寄るね」と宣言する。自動ドアが開いた途端に漢方薬みたいな匂いがして、どうもここは普通のコンビニじゃないと判った。チェーン店じゃなくて、インディーズ。パッケージにハングルや中国語の書かれた商品がやたらと目につく。
カウンターにはセルフサービス用の電気ポットや電子レンジと並んで、炊飯器のようなものが置いてあった。蓋はなくて、茶色く煮しめた殻つきのゆで卵が山盛りになっている。漢方薬の匂いはここから漂ってくるのだ。サバエはそこへ近づくと、備え付けのポリ袋を一枚取り出し、トングを片手に卵を三つ放り込んだ。それからレジに移動して、「おでんつゆ下さい」と言った。
店番のおばさんは黙って頷き、おたまを手にすると、カウンターの中で湯気をたてているおでん鍋からつゆだけすくってコーヒーのカップに入れ、プラスチックの蓋をする。
「卵三個個百八十円、おでんつゆ三十円で二百十円」
このお金も僕が払うべきなのかな、と考える間もなく、サバエは自分で支払いを済ませると「これ持って」と、卵の入った袋を差し出してきた。
「そのカップも、持とうか?」と、聞いてみたけど、「いいよ。自分で持たなきゃ意味がない」という返事。そして店を出てしばらく歩くと、サバエは「ちょっと待って」と立ち止まった。
彼女の視線の先をたどると、ビルの隙間に小さな祠があった。中には地蔵が祀られているみたいだ。周囲のくすんだ色合いの中で、作り物の仏花だけがいやに鮮やかだった。
「ここにお供えするんだよ」と、サバエは腰を屈めておでんつゆのカップを祠の中に置く。
「なんで?」
「お願いが叶ったお礼」
そして彼女は掌を合わせ、目を閉じていたけれど、すぐに「よっしゃ」と背を伸ばして「行こっか」と歩き始めた。
「あの地蔵、何のご利益があるの?」
「恋愛祈願。ただし女子限定だからね。それと、地蔵じゃなくて、やまけんさまっていうんだよ」
「やまけんさま?」
「なんかさ、ずっと昔やまけんって大企業に勤めてた女の人がいて、この辺で殺されちゃったんだよ。超エリートだったのに、夜は売春してたんだって。でさ、それ以来、彼女の幽霊がこの場所に出るようになったの。夏でも冬でもトレンチコート姿で立ってて、男の人に声かけられると「おでんのつゆだけ買ってきてください」って頼むんだってさ。で、言われた通りに買って戻ると、いなくなってるの」
「ふうん」
ちょっとした都市伝説って奴か。
「でさ、皆が怖がってここを避けるようになったから、近所の人がお金出しあってお地蔵様を祀ったの。そしたら幽霊が出なくなったって」
「でもどうして、おでんつゆなの?」
「知らない。好物なんじゃない?あそこのコンビニじゃ一年中売ってるし。とにかく自分の願いが叶ったら、お供えしなきゃいけないんだよ。でないと祟りがあるって」
「なるほど。さっき言ってた報告って、この事なんだ」
「違う違う、まだ行くとこあるから」
そしてサバエは再び足早に歩き始めた。角を曲がり、坂を上がって、鉛筆みたいに細い雑居ビルのドアを押す。並んだ郵便受けのいくつかはチラシでいっぱい。「テナント募集中」という手書きのポスターがその脇に貼ってある。
ためらう様子もなく、靖江は薄暗い廊下をまっすぐに進んだ。正面に塗装の剥げたドアがあり、壁際に丸いパイプ椅子が三つ並べてある。ドアノブに「営業中」という札が掛かっている以外、看板も何も出ていない。そしてドアの前には雑種の斑犬が寝そべっていた。
犬はちらりと僕らの方を見て目をそらす。首輪にはリードならぬ、煤けた縄がついていて、その端はドアノブに縛りつけてある。
「もしかして、この犬に会いにきたの?」
「まさか、これはただの犬だよ。亜蘭って面白いこと言うよね。ブチ、ちょっとどいて」
サバエがそう声をかけると、犬は仕方ないな、という顔つきで立ち上がって道を譲る。彼女は「こんちは、まだやってる?」と言いながらドアを開いた。
中は廊下より更に薄暗く、しかもひどく狭い。事務所というより物置きだけど、テーブルと椅子があって、その奥にはお婆さん、と呼ぶにはもう一押し足りない年格好の女が座っていた。
サバエの肩ごしに彼女の顔を見た瞬間、僕は回れ右をして帰りたくなった。実際、そうしようとドアの陰に隠れたんだけど、「おやまあ、久しぶりだこと。ねえ亜蘭」という声がそれを阻む。
「何?亜蘭もここ来たことあるの?」
サバエは驚いた様子で僕を振り返るけど、答えはもちろん「まさか」だ。
「亜蘭とは古い知り合いって奴だよ。とにかく、入るか出るかはっきりしておくれよ」
仕方ないから中に入ってドアを閉める。靖江はもう椅子に座っていて、僕も壁に立てかけられたパイプ椅子を広げて腰を下ろした。
「はいこれ、おみやげ」と、サバエは僕に持たせていた卵の袋をテーブルに置いた。女は「ありがたいこと」と笑いを浮かべて中をのぞき、「あんたたちも食べるかい」と勧めた。
背中まである白髪混じりの長い髪は緩く波打ち、痩せた身体に黒いニットを着て、赤が基調の派手なストールを肩に巻き付けている。くっきりとした眉の下で光る眼は、その名の通り細く、鋭い。
「今日は報告に来たんだよ。笹目さんの言う通りに、やまけんさまにお参りしたら、速攻で亜蘭とつきあうことになったの」
サバエが嬉しそうに言うと、笹目は「だろう?やまけんさまは霊験あらたかなんだよ」と偉そうに返す。彼女はいそいそと卵の殻を剥いてから半分ほど食べ、テーブルに置いていた保温ポットのお茶らしきものを飲んだ。
「しかしお相手が亜蘭とは驚いたね。ずいぶん会ってないけど、あんた相変わらず猫に甘えてるのかい?」
「そんな事してない」
僕の返事を鼻で嗤うと、笹目はサバエに「猫といえば、こないだのあれは、住職に任せたよ」と言った。けれどサバエは「うん。もういいから」と早口で言っただけで、勢いよく卵にかぶりつき、僕に「早く食べなよ」とせかした。
「ねえ、初めてだと変な味かもしんないけど、この卵、慣れるとおいしいんだよ」
「別に、嫌いな味じゃないかな」
卵はかなりの固ゆでで、八角の匂いが鼻につくけど醤油味が染みていて、空いてきた小腹にちょうどいい。
「それで?あんた今日は何を占ってほしいんだい?」
先に卵を食べ終え、もう一度お茶を飲んでから、笹目は勿体ぶって尋ねた。
「ん、今日はいいや。彼氏できたって報告に来ただけだから」
「そうかい。じゃあもう店じまいにさせておくれ。近頃は暮れるのが早いし、私は目が悪いから足元が危なっかしくて困る。この前も道路工事の穴に落っこちて、えらい目に遭ったんだから」
言いながら、笹目はテーブルのこまごましたものをかき集め、床に置いていたリュックサックの中へ放り込んで立ち上がった。僕は慌てて卵の残りを飲み込むと、「だったら送っていこうか」と提案する。笹目はその細い目を光らせ、「うちへ来たって何も出やしないよ」と皮肉っぽく笑う。
「それに、送るならそっちのお嬢さんが先だろう」
「あ、私は大丈夫。先に笹目さんを送って、それからでいいよ」
サバエはいそいそと卵の殻を集めてポリ袋にまとめると、「亜蘭って親切だね。やっぱ彼氏にして間違いなしだよ」と、満面の笑みを浮かべた。
でも僕は別に親切ってわけじゃない。ただ、さっき笹目が口にした「猫といえば」という言葉に食いついただけだ。その「猫」がいなくなったミント一号と何か関係あるのか、探っておいて損はない。
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