引っ越し

「ねえ、あなた」


エヌ氏は新聞から顔を上げた。


「なんだい」


「このテーブルじゃあ、小さすぎるわよ。もう直ぐ二人目が生まれるってことを忘れないでよね」


「わかっているよ。でも、このマンションはそんなに大きくないんだ。そのサイズで精いっぱい、これ以上のは入らないよ」


「でも……。子供部屋も足りないわよ」


「それはそうだけど、二人で同じ部屋を使えばいいだけさ」


「私だって……。」


「なんだよ、はっきり言えよ」


「じゃあ、言わせてもらいます。正直、このマンションは私たちには小さすぎます」


「引っ越したいって言うのかい」


「だって、そのために貯金してるんでしょう。それをケチってたら本末転倒よ。持ち家があるって夢みたいじゃない」


「分かったよ。どんな部屋がいいんだい?」


「なんでマンションなのよ。一戸建てを買いたいと思わないわけ?」


「高いじゃないか」


「何回言わせるの。そのための貯金でしょ。子供が生まれたら家を買うって言ってたくせに、一人目が生まれてもこのマンションで十分って言って結局買ってくれなかった」


エヌ氏には覚えのない約束だった。


「だから、今度という今度は一軒家を買って頂戴」


「じゃ、じゃあ、どんな家が良いのかい?」


「別に普通の家でいいわよ」


「場所はこの辺でいいんだな?」


「うん。できれば、子供が遊べる庭が欲しいわね」


「分かった。探してみるよ」


「そういってうやむやにするつもりでしょ。女の勘ってやつがあるんだから」


エヌ氏はバツが悪くなって新聞の住宅広告に目を通しているふりをした。


「やっぱり図星だったみたいね。そうだと思って、もう調べてあります」


「おいおい……」


「ゼット駅から徒歩三分、住宅街にある赤色屋根の家族向け建て売り物件、庭アンドウッドデッキ付き」


エヌ氏の妻は不動産屋のホームページを読み上げた。


「あ、ベランダもあるみたい。バーベキューとかやってみたい」


「バーベキューか、子供のころ以来だな」


「庭で花火大会とかもオッケーだって」


「それも随分ご無沙汰してるな」


「でしょ、いいじゃない。買ってよ」


「で、いくらなんだ?」


「ええと」




 それを聞いてエヌ氏ははたと思い当たった。これはコマーシャルだ。


「本当は三五〇〇万なんだけど、今だけ特別大特価で三二〇〇万。さらに無理を聞いてもらって、今から二四時間以内に電話すればバーベキューセットがついて三一〇〇万。」


やはり、広告だったか。エヌ氏は、さっきまで海に出て鯨を獲っていたかと思うと、いきなり場面が変わって朝ごはんを食べながら、めったに読まない新聞を読んでいたのだ。


「何が最新型の安眠枕だ!イヤに安いと思って買ったら、ほかの企業と提携して、購入者が夢を見ている時にいきなりCMを流すなんて! 安眠なんてできやしない! せっかく、もう少しで大きな鯨にお目にかかれそうだったのに……」




 いつの時代も、企業は自社製品の宣伝と低価格化に必死すぎるんだ。もっと客のことを考えてくれたらいいのに、エヌ氏はそう思ったが、どうすることもできず、仕方なく再び眠りについた。大きな鯨を思い浮かべながら。


もうすぐ捕鯨反対の意見広告が出てくるとも知らずに……。


(了)

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