第2話 水やり

 彼女はきれいだった。本当にきれいだった。まるで白い一輪の花のように、そこにたたずんでいた。それが力強くもあった。でも、俺にはまだ力が入っているように見えた。今見せている笑顔がまさにそれを示している。なんとかこの緊張をほぐしてやらねば。

 俺は今日、関係者ということでイベントの控室までついてきていいことになっている。空の出番は大トリだ。一応時間帯的には高校生がぎりぎりいてもいい時間らしい。でも念のため観客席に彼女の両親はスタンバイしているようだ。着替えが終わった後の彼女の姿は、いつもの制服姿とは打って変わってきれいに見えた。白いドレスに包まれた彼女は、まさにピアノの黒が似合いそうだった。

「どうしたの? ずっとこっちばっか見て……まさかいやらしいこと考えてる?」

「そ、そんなことないって! 似合ってるなーって、いかにもピアノ弾きそうだなーって」

 見とれていたことを悟られないように懸命に言葉を探したが、結局思っている言葉を全部吐き出しただけだった。

「ふふっ、ありがと」

 彼女は目線を落とした。

「この衣装、初めて着たの」

「えっ、でもそれにしてはちょっと年季が入っているような」

「この衣装は、私の初めて買った衣装なの。ずっと小さいころに、ほしいほしいってねだっていたらしい。それでお母さんが、『これが着れるようになった時、立派なピアニストになっているって約束できるなら買ってあげる』って言ったらすぐに首を縦に振ったらしい」

 彼女はドレスの裾を撫でながら続けた。

「いつ忘れちゃったんだろ。お母さんとの約束も、これが着れるように立派になるって、誓った私の幼い心は、どこに行っちゃったんだろ」

「そのドレス、まさか」

「うん、そのまさか。無断で引っ張ってきたの。でも、一応この衣装で出るって家を出る前にバレないように、もう一個小さめの衣装を紙袋に詰め込んできたの」

 だからあの紙袋はあんなにパンパンだったのか、と合点がいった。

「俺は、素敵だと思う」

「ええっ!」

「その姿勢が、それでももう一度それを着て舞台に立とうとしているその姿が。かっこいいじゃん。男でも憧れる。ほら、記念撮影。笑ってー」

 俺はポケットから取り出したスマホを彼女に向けた。

「うん……」

 彼女はこちらに向かって凛々しく、少し硬い表情でこちらを見た。画面をタップした後、

「はい、次プライベート。笑ってー」と言った。

 しかし彼女は一向に笑う気配がなかった。どこかしら顔が引きつっている。仕方ねぇな、と心の中でつぶやき、画面をセルフィーに変えて彼女に近づいた。

「え、海音くん。ちょっと……」

 俺は彼女と肩を組んで画角を調整した。

「もうちょっと左かな。ほら空、寄って寄って」

「ねえ、海音くん」

「お前はもっと笑っていろ。俺も昔パフォーマンス系のことをしていた時に先生に教えられたぞ。パフォーマーがへこたれてどうする。お前は世界で一番美しいピアニストなんだから、美しく咲いてこい!」

 すると、彼女の顔がみるみる笑顔になっていった。やっぱりまだ水が足りなかっただけだ。充分きれいに花開くほどの実力は持ち合わせている。この自信に満ち溢れた顔を見ていたらわかる。

 俺は画面をタップした。

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