第2話 温泉郷
【5】
ジャバジャバ、ジャバジャバ
「すごいねーペヤング、クロールできるんだ!」
ワブル、ワブル、ベャングォ、ペャング
ペヤングは必死に泳いでいる。
それを興奮した様子で南が見ている。
「倉田さん、相当教え込みましたね」
南はフムフムと頬杖をついていて。
「うん、犬かきだねそれ。」
と倉田にさらっと否定された。
「まぁ、それより足湯なんて浸かってていいのかい?」
「このあとちょっと山道歩くみたいですから…足湯で回復です。」
アラビアンナイト旅館は、ここ古成温泉郷(こなる温泉郷)の一角に位置する。
旅館にたどり着くには、いくつかの温泉宿を抜け、山道を歩いた先、唯一の導線である全長50メートルほどのつり橋を渡らなくてはならない。
その手前の足湯で少し休憩をと足湯に浸かっていたのであった。
「なんか、デートみたいですね。」
ふいに南が語りかけた。
「えっ、なに?なにが?」
「二人きりで温泉街へドライブして、なんか足湯にも浸かっちゃって…」
明らかに聞こえてたワードも、突拍子もないものや予測もしていないものであると、なかなかすぐには変換できないものである。
南の突然の言葉に、頭の中は年甲斐もなく混乱し始め、次第には月9に流れるようなミュージックが脳内を駆け巡っていった。
「いや、まっ、ほら、ペヤングだっているからさ、二人きりっていうのとは違うのか、いや違わないのか?、ふたりと一匹なのか、えーと、えーと…。」
と動揺を隠せず結論の出ない倉田の隣から、
「それに私もいますからね。」
とボソッと大門が切り出した。
「あっそうか、課長もいたんでした。」
と南はあっけらかんと答えた。
「ずっといました!足湯にも浸かっていましたよ、知り合いの距離で。他人の距離と知り合いの距離って違うと思うんですけどね。それにしても私ってそんなに存在感ないですかね。二人きりでと言いますが、なんなら署からここまで私がずっと運転してましたけども。」
と完全に忘れられていた大門が珍しく興奮し、だいぶふて腐れていた。
ちょっと気まずい三人をよそに、ペヤングの頑張りは誰にも気づかれることなくスルーされていた。
犬かきからのクロール、背泳ぎ、バタフライまでをも披露していたというのに…。
がんばれペヤング!負けるなペヤング!
【6】
グワッフル、ブルッ、グワッフル
「倉田さん、そんな勢いでグラタンかっ喰らって熱くないんですか?」
グワッフル、ブルッ、グワッフル
「ペヤングもグラタン美味しい?」
二人と一匹は足湯の近くにある軽食屋に入り今後の方針という名の休憩を再び取っていた。
「でも、課長もここまで来たのに・・・」
「じゃあ、僕は用事あるから帰るね。」
「なんて言って帰っちゃいましたね。」
南は肘をついて汗のかいたクリームソーダに刺さっているストローを回していた。
「フフッ、ペヤングこれ不味いな。不味いな・・・」
ペャングォ、ペャングォ
倉田は半笑いしながらグラタンをほうばりボソボソと喋っていた。それに習うかの様にペヤングも熱々のグラタンを食べている。
その頃大門は・・・
帰りがけの国道でハザードを点灯させ車を止めた。そして携帯電話を取り出し話し始めた。
「もしもし、大門です。ええっ、月泣美心に接触しました。後は若い二人に任せましたよ。ふふっ、大丈夫かって捜査一課が手に負えないのにわからんでしょ。ハハッ、私が暗躍するのか?って定年間近の年寄りですよ総監。まあ、退職金が出る様に仕事はしますがね。それではまた。」
話が終わると大門は再び電話をかけた。
「あ〜、大門です〜ぅ。どう、南君順調に行ってる?えっ、まだ旅館に着いてない!?困るよ〜、早く倉田君焚き付けてチャチャっとやっちゃって。頼んだよ〜。」
電話を切ると大門は車を走らせた。
【7】
ガサガサガサ…
「よし、完璧ね。ペヤングご苦労様でした。」
と言って茂みの奥から、南とドライバーをくわえたペヤングが出てきた。吊り橋を渡りきった後のことである。
「南ちゃん何してたの?旅館はすぐそこだよ。」
「だいぶ待たせちゃったですね、ごめんなさい。でもこれで事件は解決ですよフフフ。」
と含み笑いをしながら、ペヤングのくわえていたドライバーを受け取り、代わりに骨をくわえさせていた。
ペャングォ、ペャングォ、
「えっ、どういうこと?事件って起きてないよね。」
「まあ、そうなんですけど…でも吊り橋ですよ、吊り橋。ここが唯一の道なら尚更ですよ。」
どうやら南は、茂みの奥に定点カメラを設置したようだ。シチュエーション的に、旅館に行ったら事件が起きて、脱出しようとしたら吊り橋が落とされていて帰れないパターンだという。ゆえに、カメラを設置しておけば、その場合犯人がわかるでしょってことらしい。
「あと女将さんには事前に伝えてるんですけど、シルクハットを被って顔に包帯ぐるぐる巻きの人がチェックインしてきたら、その時点で通報、もしくは捕まえて下さい、それトリックなのでって言ってます。」
「すごいね、南ちゃんは。あとコートも着てれば尚怪しいね。」
と少し呆れた様子で倉田は答えた。
そんなやり取りをしていると、大きめなトランクを引いた人物が二人の横を通りかかった。
「あっ、どうもーこんにちはー。吊り橋怖いですよねー、あっ、ワンちゃん!可愛いですねー。それでは失礼しまーす。」
ベラベラと一方的にしゃべる人物は、呆気にとられる二人をよそに足早に旅館の方へ行ってしまった。
どうやら悪い人ではなさそうだ。しかし、この人物が、彼か彼女か、若いのか老いているのかなど一切合切が、不明なのであった。
それはその人物のメイク、格好全てが【道化師】そのものであったからだ。
「南ちゃん、あれは包帯巻きじゃないけど…」
「ピエロは想定してなかったです。たぶん旅館の人もスルーしちゃうかも。」
「とりあえず職質かけよう」
突然のことに呆気に取られた二人は、急いでその後を追っていったが、そのまま道化師の姿を見失ってしまった。
「くそー、犯人めー!」
「犯人め、逃げ足の早い奴だ。」
うなだれる二人。
それを遠目から見ていたペヤングは思った。
犯人っていうけど、そういえばまだ事件なんて起こっていないよなーと。
【8】
「近づいてみると、やはり凄いな。」
二人と一匹の前に立つ旅館は、地方都市の歓楽街を思わせる様なネオンなどが飾られていた。
「まるで宮殿ですね。」
「アラビアンナイトねぇ・・・」
二人は上を見上げてポカンとしていた。
グワッン!
ぺヤングがひと鳴きした
「あっ、とりあえず入りしょうか。」
中に入ると普通の旅館になっていた。
「正面だけって・・・」
「ハリボテか、倒産寸前って言ってたからな。簡単な工事だけしたのかな。」
古成温泉郷に相応しい風情のある昔ながらの歴史ある旅館の様だ。ただ倉田が言っていた様に、正面だけきらびやかになっており普通の人は入り難い雰囲気を醸し出している。その為か旅行客はいなく招待された数人と信者が何人かいるとの事だ。
「なんだお前達は!」
二人の背後に眼鏡をかけ七三分けの男が立っていた。
倉田は胸ポケットから警察手帳を取り出し男の顔の前スレスレに見せる。南も同じく続いた。
「ちっ、近いですな。申し訳ありませんでした私、アラビアンナイト旅館の番頭と教団の責任者をしております月泣右近(つきなみうこん)と申します。」
「倉田です。」
「南です。」
グワッン!
ペヤングが鳴くと右近の眼鏡が光った。
「申し訳ありません、とう旅館は動物の持ち込みは禁止とさせて頂いております。教団の心理にも差し支えますので。」
「違いますよ、これは私のおしゃれ帽子です。」
そう言うと南はペヤングを頭に乗せて、笑顔で返した。
右近は表情を変えもせずに
「失礼なことを言いまして大変申し訳ありません、私達は俗世間から離れておりまして流行りがわからないのです。」
「大丈夫ですよ。AI搭載なので、勝手に学習して吠えたりするので気にしないで下さい。」
南は得意げに頭に乗っているペヤングを撫でた。
「ところで今回の事で詳しくお話しを聞きたいのですが。」
「玄関ではなんですので、どうぞ中にお入り下さいませ。」
そういうと右近は二人とおしゃれ帽子を案内し、中へ招くのであった。
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