第350話 黒猫不良少女③


 突進する人狼族ワーウルフの初速を肉眼で捉えることは、はなから諦めている。

 生前なら容易くとも、今のヒトの身ではとても捕捉しきれない。

 地を蹴ったその瞬間に、一時的に上げていた空気の障壁を再び下ろして追突を免れる。猶予はそれだけで十分だ。

 すぐに用意してあった構成をアッシュの足元へ向けて発動する。


「【陥没ディプレ】!」


 突然空いた穴に片足を取られ、その体が傾く。

 しかもそこはただの地面ではなく、先ほどの雨礫によって水浸しになった泥の穴だ。

 間髪空けずに次の魔法、氷結をかけて穴に嵌った足を泥ごと氷漬けにしてやる。範囲は狭くていい、ほんの瞬きふたつほどの間に人狼族ワーウルフの姿勢を崩したまま足を止めることができた。

 手加減はしないと言ったばかりのくせに、やはり年端も行かない少女が相手では慢心が勝ったのだろう。

 行動がぬるい、判断が甘い、対処が遅い。


 素早く二歩を駆けるだけでその懐に入り込み、戸惑う覆面の鼻先にむけて思い切り掌底を喰らわせた。

 鈍い手応えとともに、長躯が大きくのけ反る。


「グッ、ガアァッ……!」


 かつて人狼族ワーウルフの群れが『魔王』の配下に加わる前、しつこく絡んできた彼らを相手に何度も何度も戦ったおかげで、その動きも弱点も熟知している。

 強靭な体躯と俊敏さを誇る種族ではあるが、特に鋭敏すぎる鼻は隠しようのない急所だ。強すぎる匂いにも弱いし、今のように正面から物理的な攻撃を受けるだけでしばらく行動不能になる。

 覆面の上から鼻先を押さえて蹲るアッシュ。体勢が低くなったそこへ、人差し指を立てて額のあたりを強めに小突いた。


「本気の殺し合いであれば、この隙だけでお前を解体できたぞ。まだ続けるか?」


「……いや、完敗だ」


「ん、潔くて何より。しかし、人狼族ワーウルフたちは明らかな弱点を抱えている分、そこを狙った攻撃の避け方や防御をしっかり教えてきたつもりだが。若い者には伝わっていないのか……ちょっと残念だな」


「いんや、防御寄りにしたとこであんたの方が強い、参った。にしてもお嬢さん、速度も力も大したことないのにやたら戦い慣れてるな。あんだけの気迫を受けたら大抵は怯むもんだろうに、それをかわすのも素手での攻撃にもまるで躊躇がねぇ」


 苦笑い混じりにそう零すアッシュは、まだ痛むらしい鼻先をさすってから武骨な覆面を脱ぐ。その下からは、砂茶色をした人狼族ワーウルフの素顔が現れた。

 高い位置でぴんと立った耳に黒い瞳。よく見知っている彼らの姿よりも幾分毛が長いようで、頬のあたりから首にかけての細い毛並みが風にさわさわと揺れている。今生で目にするのは初めてだが、懐かしい人狼族ワーウルフの顔。

 じっと見ているのが不審だったのか、アッシュは不思議そうに首をかしげた。


「俺らを知ってるんなら、この顔が珍しいわけでもないだろう?」


「いや、不躾に観察をしてすまない。お前も知り合いの子や孫だったら面白いなと思ったのだが、あんまり見覚えはないな。……そうだ、衛兵の中に真っ黒な毛並みで、耳の垂れた人狼族ワーウルフはいないか?」


「真っ黒? いや、そんな奴は見たことがない」


「そうか……」


 かつて武装商団サルメンハーラについて行ったコゲが、もしかしたら商団が代替わりした今も行動を共にしているのではないかと思ったのだが。さすがに四十年も経っていればもう仲間の元へ戻っているか。

 あのあと何度か手紙は届いたものの、ふつりと連絡が途絶えたままデスタリオラ自分も死んでしまい、二度と会うことがなかった。聖王国側での旅を伝える手紙はいつも楽しいもので、自身では見聞きできないそれらを伝えてくれたコゲにはずっと礼を言いたいと思っていたのだ。


 特徴的な耳と毛の色をしているから、もしそっくりな子どもでも生まれていればきっとすぐにわかるはず。

 久し振りに見る人狼族ワーウルフの顔を前に、そんな懐かしい気持ちがこみ上げてくる。


「武器を操る人狼族ワーウルフというのもなかなか新鮮だな。わたしは決してお前が弱いとは思わないぞ、昨晩の槍捌きも見事であった。……そういえば、あのときの不審者・・・は未だ捕まらないのか?」


「ああ、忌々しいことにな、どうにもすばしっこい野郎で逃げられたまんまだ。元々この場所を張ってたのは奴の待ち伏せだったんだが、思わぬ獲物が引っかかったんで、代わりにしょっ引いてこうかと思ってた所だよ」


「なんだ、そうなのか。ではここで八朔を見逃したところでお前たちの落ち度にはなるまい?」


「……そちらさんが、ここで鉢合わせたことを黙っててくれるんならな」


 無論、否やはない。その条件に応じると、後ろで身構えていた他の衛兵たちもようやく槍を掴む手から力を抜いた。

 どうやら八朔を追って来たわけではなく、同じように人狼族ワーウルフの追跡をかわすためエルシオンが下水路を使うだろうと予測してここを見張っていたようだ。

 ……何となく、あの男が人狼族ワーウルフをまくために下水路なんかへ身を潜めるとは思えないのだが、無関係を装う以上それを言うわけにはいかない。

 素知らぬ顔をして八朔に手招きをすると、衛兵らを警戒しながらもこちらへ戻って来る。


「あんた、……」


「いや、話は後にしよう。それよりここを離れる前に少し、アッシュに訊きたいことがある」


「お? なんだ?」


 何か言いかける八朔を手で制し、砂色の人狼族ワーウルフへと向き直る。

 周囲に身内が誰もいない状況で彼らと話せる、またとないチャンス。情報に飢えている手前、この機会を逃す手はない。あまり時間をかけるわけにはいかないが、ここで聞けそうなことは粗方聞き出しておこう。


「まず……、そうだな、一度は捕らえた八朔をイバニェス領へ引き渡さなかった理由は何だ? 聴取と相応の裁きを受けることになっても、被害の程度からして命までは取られないだろうに」


 サルメンハーラ側が八朔を捕まえ、キンケードたちが向かった時点で身柄の引き渡しが行われていれば、変に揉めたりすることもなく、八朔だってこんな怪我を負うこともなかったはず。

 この町の後ろ盾となっているイバニェス領になら安心して預けられると、それくらい信じてくれても良かったのでは。

 そんな思いから真っ先に訊ねてみると、アッシュは肩を竦めて見せる。


「俺が聞いてる限り、そこは領事の判断じゃない。その小僧の身内から、生きて渡すくらいなら首をくれてやれと言われてるんだ」


「は? 身内って、黒鐘がそんなことを許すはずないだろう」


「なんだ、あの年寄りとも知り合いか。なら話は早い、その黒鐘の爺さま本人がそう言ってるんだよ」


 はっきり言い切るアッシュに思わず言葉を失くす。

 少し間を置いて横に立つ八朔を振り返ると、すでに知っていたのだろうか、驚きはないものの苦渋の滲む目がこちらを見ていた。

 ひとたび戦闘となれば比類なき強さを誇る男だが、あの身内想いで、稲穂にもデレデレ甘やかし放題だった黒鐘が、血縁の首を売るような真似をするとは思えない。何か事情があるのだろうか?


「……捕らえているうちは殺しはしないが、ヒトに渡すくらいなら命は要らない……なぜだ、よくわからんな。何か八朔を見られると、もしくは喋られるとまずいことでもあるのか?」


 そこで、アッシュはわかりやすく口を噤む。考えを口にしただけだったが、もしかしたら的中していたのかもしれない。

 身内の命を犠牲にしても守りたいもの。それが何かはっきりとはわからなくても、サルメンハーラ側が隠したいことは見えてきた。


 鉄鬼族の八朔がイバニェス領で罪を重ねたことは、キヴィランタの住民が多く住まうサルメンハーラの町にとって都合が悪い。異種族間の摩擦、下手をすれば魔王領と聖王国の対立が深まる可能性だってある。

 とはいえ、それはサルメンハーラ側が勝手に危惧していることだ。

 現に八朔の姿を見たカミロには「武器強盗の犯人だ」という驚きしかなかった。もしかしたらキンケードを伴う面通しの時から、八朔がヒトではないと気づいていたのでは?


「イバニェスへの引き渡しも聴取も渋る理由……、もし鉄鬼族だと知られるのがまずいなら、角の生えた首だって渡せないだろう。それとも角を削り取って渡すつもりだったか? 生憎だが、八朔の顔はもうイバニェスの者に見られているぞ」


「何だと?」


「せっかく良好な関係を築いているのだから、下手に隠し立てするよりは全て話した方が良かろう。強硬な態度を取ってイバニェス側の要求を撥ねつけるほど、向こうの心証も悪くなるし話もこじれる」


「って言ってもな、俺たちは雇われの守衛だ。上の判断に口出しまではできねぇよ」


 口元を歪めながら皮肉気に応えるアッシュだが、昨晩のやり取りを見ても彼が一介の守衛とは思えない。

 それに、エルシオンと渡り合って見せた強靭さ。強さこそを尊ぶ人狼族ワーウルフの中において、この男がそれなりの立場にいるのは明らかだ。


「しっかし、そんな事情にまで通じてるとは、お嬢さん一体何者なんだ?」


「ちょっと事情があって名乗ることはできん。だが、可能であればわたしがイバニェスとサルメンハーラ双方の仲立ちに助力しよう。それで、当の黒鐘はこの町にいるのか?」


「町にはいないが、連絡を取ることはできる。もし本当にそんなことができるなら、こっちとしても願ったりだよ」


 少し、声色が変わった。

 顔のつくりが違いすぎて、アッシュの表情を読めないのが惜しい。


「ならば黒鐘に伝言を頼みたい。……そうだな、「大滝の縁で杖を地に刺し、力を競い合った者だ」と言えば、あいつには分かるはずだ。八朔を預かり、やらかした事についてはわたしの方からたっぷり叱っておくと伝えてくれ」


「競い合った? あのクッソ強い爺さまとか? いや何者なんだよほんと……」


 ぼやくアッシュには答えず、もう逃げ出さないようしっかりと八朔の腕を捕まえる。

 この守衛たちが見逃してくれるなら、あとは聖堂へ連れて帰るだけだ。その後、もしカミロが良しとすれば後から着く自警団員に預けてコンティエラへ連れて行く。

 本当に曾孫の命も首も失くす覚悟がついていたと言うなら、こちらが身柄を貰っても黒鐘に不服はあるまい。


「何、悪いようにはせん。わたしも聖王国とキヴィランタとの不毛な対立は望まない」


「猫人族は外交なんざ興味ないと思ってたんだがな、協力してくれるんなら助かるよ」


「う、む……」


 名前と正体を隠すのは必要なことと理解しているが、誤解を与えたままでいるのは少しばかり気まずい思いがした。

 猫人族は、生前の自分も一度会ったことがある程度。『魔王』の庇護なんかいらないと配下へ加わるのを断られたきりだ。森の奥深くに籠ってほとんど出てこない上、他種族との関わりを極端に嫌うから、この人狼族ワーウルフたちもおそらく本物の猫人族を見たことはないのだろう。


「そうか、なるほど、あの混じりモンの兄さんはお嬢さんの眷属か」


「え?」


「どうりで似た匂いがすると思った。ま、名前を明かせない立場なら詮索する気はねぇよ」


 どういう意味かと問い質そうと顔を上げたところで、空の色の変化に気づく。水色にオレンジが混じり始めた境界のグラデーション。

 咄嗟に跳び出してきたものの、思ったより長居をしてしまった、カミロが戻る前に急いで聖堂へ帰らなくては。

 もう他に聞きたいことはなかったかと考えて、あとひとつだけ確かめたいことを思い出し、早口で訊ねる。


「わたしはそろそろ帰らねばならない。その前に念のため訊ねるが、キヴィランタで新たな『魔王』が立ったということはあるまいな? 長くあちらを離れていたから今の情勢を知らんのだ」


「あー、色々と噂は聞くが、こちらでも未確認だ」


「そうか……」


 ではサルメンハーラは一体何に備えて外壁を増築しているのか。

 それをここでアッシュに訊ねても答えが返ってくる気はせず、時間も足りない。別れの言葉もそこそこに、人狼族ワーウルフたちに見送られながら八朔とともに土手を上った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る