第343話 落胆の色


「くっさ! 臭いっ、酒臭いわ、やだ何なの近寄らないでちょうだい!」


 聖堂の門前で出迎えたマグナレアの第一声は、至極もっともな反応だった。

 アダルベルトが摂取した酒精は解毒の構成によってあらかた分解されているはずだが、長時間あの店にいたせいですっかり体と服に酒の匂いが染み付いてしまっている。

 カミロからも同様の匂いがするなら、もしかしたら自分も酒臭いのかもしれない。こっそり袖のあたりを嗅いでみるが、あの酒場にいたせいで嗅覚が利かなくなっているらしくよく分からなかった。

 開け放たれた扉から聖堂に入り込んだカミロは、一旦長椅子へアダルベルトを下ろして座らせる。目蓋は固く閉じられたまま、未だ意識は戻らないようだ。

 力なく項垂れるその顔を覗き込み、マグナレアは驚いたように口元を覆う。


「本当に見つけてきたのね。怪我……はしていないのかしら、酔って寝ているの?」


「ええ。昨晩私の借りた部屋を、」


「部屋で休ませるのは良いけれど、その酒臭さを何とかしてからにして頂戴。まさか真面目なこの子が酔い潰れるだなんて……っていうか何よこの趣味の悪い上着は、熊? なんで熊?」


 匂いの元を剥ぎたいらしく、麻の上着に手をかけたマグナレアは首をかしげた。そこでようやく、自分の後からついてきたもうひとりの男に気づいた様子で、ぴたりと動きが止まる。

 その視線を追うように振り返れば、紙袋を抱えたアイゼンが愛想笑いを浮かべながら前に出て頭を下げた。


「どうも、お邪魔してます自分、しがない行商人のアイゼンいいます。いやはや、これまた随分な別嬪さんで。古城に咲き誇る大輪の薔薇もかくや、女官にしておくのはもったいない」


 少しだけ繕った声は、コンティエラで初めて会った時にも聞いた商い用のものだ。たしか自分のことは白百合がどうとか言っていた覚えがある。

 そんな外面の良い言葉を嘲笑うように、マグナレアは目を細めて悠然と微笑む。


「あら、ではどんな職なら相応しいのかしら。酒場の給仕? それとも娼館勤め?」


「あ、いや、そない意味では決して……」


「商人ならば仕事としてお世辞も必要なのでしょうけれど、初対面で外見に言及するのは利口とは言えないわ。職を貶める言葉もね。仮に私が場末で働く女給だったとしても、良い気はしなくてよ」


「すいません、今後は気をつけます……ううっ、今日はやたら手厳しいこと言われてばかりやな」


 すっかり萎れたアイゼンは背を丸めながら後退した。いい気味だ。


「それで、なぜ商人なんて連れてきたの?」


「言うだけ言ってからそれを問うのもいかがなものかと。ですが幸いにして、特に気を遣う必要もない相手ですからお気にされずとも結構。……この商人は、別件の重要参考人として確保しました。私はこれから彼の私邸へ向かいますので、しばしの間リリアーナ様たちをお願い致します」


「まぁ、それは構わないけれど」


 そこで言葉を区切り、頬に手をあてながらマグナレアは長椅子で項垂れるアダルベルトを見下ろす。


「ちゃんとこの子を洗って着替えさせて、部屋へ運び込んでから行って頂戴ね」







 途中の露店で買ってきた昼食をマグナレアに託し、カミロとアイゼンは聖堂を出て行った。

 予定外かつ予想外の邂逅ではあったが、探していた兄のついでに手配中のアイゼンを確保できたのはむしろ運が良かったと思っておこう。彼の口から供述が取れれば、停滞していた栞の件も進展するはずだ。

 この町の領事館に欺かれたことや、外壁の大規模な拡張については後日改めて問い合わせるようだし、屋敷へ戻ったらまたカミロやファラムンドが色々と忙しい思いをするのだろう。


 ……自分がもっと大人で立場を得ていれば、外交や折衝など何か彼らの役に立てたかもしれないのに。

 そんなもどかしい思いを、出された温めのホットミルクで流し込む。ほんの少し垂らした蜂蜜がミルクの甘みを引き立ててとてもおいしい。

 先ほど露店で買ってきたのは、黒っぽい穀物を練り込んだ薄いバゲットに葉物や燻製肉を挟み込んで軽く炙ったものだ。昨日の朝食にエルシオンが作ったものと似ている。

 てっきりまた手で掴んで食べるのかと思ったが、マグナレア的にそれはなしのようで、きちんと皿に移して銀のカトラリーも並べられた。端には半分に切った小さな柑橘も添えられている。


「リリアーナもお疲れ様。朝に食べたきりなら、お腹が空いたでしょう?」


「はい、ちょっと疲れました。でもカミロのほうが疲労は大きいと思います、昼食はこちらに戻ってきてから食べるのでしょうか?」


「紙袋には三人分入っていたけれど、あとひとつはアダルベルトの分よね。放っておいても途中で適当につまむだろうから心配は要らないわ。それにしても、スピード解決ねぇ。この広い町の中からこんなに早く見つけ出してくるとは思わなかった」


「兄上ならイバニェスの商人を探すだろうと思って通りへ向かったのですが。ひとつのお店から動かずにいてくれたのが幸いしたようです」


 飛竜ワイバーンを追いかけてこの町まで来て、ようやく探し出した長兄だが、どうも様子がおかしかったことは気掛かりだ。ただ酒に酔っているだけだとしても―― 否、前に渡した解毒作用のあるタイリングの効果で、彼が酒精に侵されていないことを自分は知っている。

 あの時、こちらを見返した兄の目には理性の光があった。

 場所と素振りのせいで酔っ払いに見えても、アダルベルトは酒に酔ってなどいなかった。


「……」


「どうしたの、リリアーナ?」


「マグナレア様、兄上のことなのですが。実は……」



 飲み比べのことやアイゼンの捕獲については省きつつ、あの酒場でアダルベルトを見つけたときの様子や発した言葉など、覚えている範囲でマグナレアに説明した。

 自分が長兄と接するようになったのはここ数年のことで、共に過ごした時間なら伯母のほうがずっと長い。だから自分には理解の及ばないことでも、マグナレアであれば何か気づくかもかもしれない。

 そんな期待を込めて聖堂を出てからの出来事を話したのだが、説明の終わり付近から頭痛をこらえるように額を押さえて俯いてしまった。そのまま長い嘆息を落とし、眉間を揉み込むように指先を動かす。


「はぁ、相変らずというか何というか。だからさっきカミロはあんなだったわけね……」


「カミロが?」


 確かにカミロも、普段と比べて様子がおかしいと感じる部分はあった。いつもであれば、一緒に歩くときは必ずこちらの歩く速度に合わせて歩調を緩めてくれるのに、ここへ帰ってくるまでの間は少し早足にならなければついていけなかった。

 アダルベルトを早く休ませてやりたい一心で気が逸っているのかと思ったけれど、マグナレアから見てもおかしかったのだろうか。


「昔から顔に出ないせいで分かりにくいったらないんだけど、あのピリピリした余裕のない感じ。あれは相当へこんでるわね」


「へこんでる?」


「落ち込んでいるって意味よ」


「落ち込む? ……カミロが?」


 驚いたのと意外なのとが混ざって、自分は相当おかしな顔をしていたらしい。向かいのマグナレアは口元を押さえて噴き出し、椅子にもたれながら緩く腕を組んだ。


「アダルベルトの自虐癖も根深いのでしょうけど、そこまで荒ませてしまったのはそばに付いていた自分が不甲斐ないせいだ~とでも思ってカミロも自省中なんでしょう。ふたりとも内に溜め込むタイプだけど、年季が入っている分カミロの方がだいぶ厄介かもね」


「自虐? いえ、でも兄上はしっかりと父上の代行を務めていましたし、カミロだって……」


 ふたりの優れた部分を知っている、仕事ぶりだって見てきたつもりだ。それでも、サーレンバー邸で受け取った手紙の内容を思い出すと、それ以上言葉を続けることができなくなった。

 アダルベルトが一身に背負う重責に参っている様子はあの手紙からも伝わってきた。自分からの返信がその慰めになるなんて思い上がりは抱いていないけれど、それでも、カミロがついているなら何とかなるだろうと手放しに思い込んでいた節もある。


「兄上が……自分のことなど放っておいてくれと言ったのは、本当にもう領主家の仕事が嫌になってしまったのでしょうか?」


「どうかしら、一時的な反抗とかあの年頃には良くあることでしょうし。少しくらい頭を冷やす時間をあげても悪くないと思うわ」


「でも、兄上がそこまで思い詰めたことを、カミロは自分のせいだと思っているのでしょう?」


「まぁ、そこはねぇ……、別の意味で時間をあげるしかないのかもね」


 マグナレアは飲み干したカップの縁を指でなぞりながら、物憂げに目を伏せる。

 太めの眉や艶やかな睫毛、厚い唇は意思の主張がつよく、わずかな動きにも感情がありありと現れる。喜怒哀楽と密接に結びついているのか、そう見せているだけなのかは、自分には判断がつかない。


「外野から何かしてやろうとすると、自分なんかのために他人に手間や心配をかけたって余計にへこむのよ、何て面倒くさ……いえ、とにかく下手に構わず、自分で持ち直してもらうしかないみたい。私にはちょっと分からない精神性なのだけど、聖堂で色んな人の悩みや相談を聞いているうちにね、そういうものなんだって大人になってからようやく理解できてきたわ」


「わたしも、何か失敗や至らない点に気づくたびに自省するので、気持ちは少しだけわかります。でも、カミロはいつも何だって出来て、何でも知っていて、だから、そんな風に落ち込むことがあるなんて考えたこともありませんでした……」


 もしかしたら、と思う。

 あの酒場で一瞬見せた落胆は、重責から逃げようとするアダルベルトへ向けたものではなく、彼を支えきれなかったカミロ自身に向けられたものだったのかもしれない。


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