第342話 歩調の合わない道程


 アイゼンに強く掴まれた腕が少し痛むけれど、痣が残るほどではないだろう。

 手袋をしていない指先がふれても、パストディーアーは何の反応も見せなかった。つまり、この男は自分に対して何の害意も持っていないということだ。

 一方的に結ばれた契約がこんな形で役に立つのも複雑だが、ひとまず悪意をもって栞を寄越した犯人ではないということだけは、信じても良さそうだと判断する。それと、もう片方の栞についても。


「……イェーヌは無事だ。幸い、うちの侍従が衰弱と昏睡に気づき、手遅れになる前に治療院へ運び込まれた。わたしもつい先日面会をしてきたばかりだが、今は回復して意識もはっきりしている。もうしばらく養生すれば退院できるそうだ」


「それは……、どうも、感謝します。しばらく寄れんうちに、そんなことに……」


 男が言葉を発するたびに、跨っている腹から振動が伝わる。鍛え方が足りないのかあばらや腰骨が浮いていて、あまり座り心地は良くない。

 すっかり意気消沈し、脱力しきった男をそれ以上苛める気にもなれず、足に纏わりつかせたたままだった氷塊を消し去る。足枷がなくなっても、アイゼンは仰向けに倒れたまま動こうとはしなかった。


「今一度、確認するが。あの栞はお前が作った物ではないのだな?」


「ええ、あれは夢見が良くなるとか、逆に怖い夢を見るだとかいう、おまじないグッズの試作品を受け取っただけで。ばあさんが最近寝つき悪い言うから、そんならちょうど良い物があるよて。まさか、そのせいで死にかけるなんて思いも」


「イェーヌは、栞をどこで手に入れたか訊かれても、覚えていないと言って答えなかったそうだ」


「……っ」


 彼女が何かを隠していることはカミロも懸念していた。イェーヌはきっと、アイゼンが純粋な厚意から栞を譲ってくれただけで、そこには何の悪意もないと信じ切っていたのだろう。

 庇われた男は片腕を上げ、手の甲を押し当てるようにして自らの目元を覆った。

 ひとまず、安易に全てを信じないとしても、この男が恣意的に栞をばらまいたということはないようだ。しばらくそのまま過ごしてから、背後を振り返る。


「もう出てきても良いぞ」


「……あまり、無茶なことはなさらないでください」


「なんだ、信用してくれなかったのか?」


「信頼とはまた別のところで、私の寿命が縮まります」


「それは大変だな、悪かった。なるべくもうしないようにする」


 建物の陰から姿を現したカミロは、「なるべく、ですか」と嘆息まじりの呟きを落として歩み寄ってくる。

 その背には古着屋で買った麻の上着を着せかけたアダルベルトを背負っていた。あのあと酔いつぶれたのか、ぐったりと頭を伏せており意識はないようだ。


「お前がいるのは感じていたんだが、どの辺から聞いていた?」


「極めて悪質な嫌がらせ、のあたりでしょうか。正式な証言は後ほどコンティエラで聴取を取るとして、以降の態度次第では、懲罰の軽減について私の方から口添えしても良いですよ。いかがでしょうか、アイゼン殿」


「いかがも何も、この通り降参したんでもう何でもしますわ。そちらの兄さん、自警団員には見えんけど、どなたさんで?」


「「……」」


 佇むカミロと無言で視線を交わす。官吏の白い衣服を着込み、酔い潰れた男を背負って首から子ども用のポシェットを下げた姿は、何ともコメントしづらい風体だった。

 屋敷へ通っていたのだからお互い面識はあるはずだが、どうやらアイゼンの方は相手が侍従長を務める男だと気づいていないらしい。


「こやつは、わたしの護衛だ。今はお忍びでこの町に来ているのだから、お前も言動には気をつけろよ」


「イバニェスのお嬢様のお忍び中とは、また貴重なタイミングで捕まったもんです。それで自分、この後どうなりますの」


 もう起き上がるのも億劫だという脱力しきった様子で、視線だけを向けて問いかけるアイゼン。

 身柄を拘束するならどこかへ連行しなくてはならないが、この男を聖堂へ連れて行っても構わないのか判断がつかず、カミロを振り返ったまま応えを待った。


「そうですね、せっかくですからあなたの顔で宿を取って頂きましょうか。どの道、明日には宿泊場所を移そうと思っていた所ですから好都合。この町にはお詳しいのでしょう? 何せ、南海の商人繋がりということでサルメンハーラの領事館には手配書だけでなく直々の問合せもしたのですが、長く姿を見ていない、町には入っていないの一点張りでしたからね。同郷の商人同士、結束が強いのは何よりです、ええ、領事館の方々とはさぞ仲もよろしいのでしょう」


「あー……」


 カミロはいつも通り表情も声音も変わらないが、そこに不可視の怒気が滲んでいるのは明らかだった。

 聖堂の前で守衛たちを追い返した時のような、ピリピリとした張りつめたものを感じる。自分が抱いていたのとはまた別の件で、カミロもこの手配人に対する怒りを持っていたようだ。

 普段あまり表に感情を出さないだけに、こうして隠し損なったものが漏れるとちょっと怖い。「お前、ちゃんと謝っておけ」と言って足先で脇腹をつつけば、アイゼンは震え交じりの声でゴメンナサイを三回唱えた。


「さて、話は纏まったことですし。リリアーナ様、場所を変えましょう。そのような貧相な椅子はあなたに相応しくありません」


「あ、うん。バレンティン夫人にこんな所を見られたら、はしたないと怒られてしまうな」


 一応、拘束のつもりで乗っていたのだが、今の体重ではあまり意味はなかったかもしれない。跨っていた腹から立ち上がると、続いてアイゼンものろのろと体を起こした。

 高価そうな衣服を着込んでいるせいで着膨れして見えるが、肉付きの薄い枯れ木のような男だ。渾身の蹴りを喰らわせた背中が痛むらしく、前屈みで背をさすっている。


「……イェーヌとは親しいのか?」


「ええ、あのばあさんには、まだ駆け出しの頃から可愛がってもらいましたわ。ご主人が亡くなってからはずっと元気なくしたまんまで、あの街を通るたびに寄ってはいたんです。もう歳やし、息子さんとこに身を寄せたらええって何度も言ってますのに、店から離れたくない言うてほんま頑固で……」


 服についた土をはたきながら、アイゼンは垂れた目尻にしわを寄せて下手な笑いを浮かべて見せる。

 イェーヌが見ていたという幸せな夢にはきっと、馴染みの行商人らに混じってこの男も顔を出し、軒先の椅子で一緒に菓子をつまんでいたのだろう。


「お前ばかり悪者にするつもりはないが、逃げ隠れせずに大人しく捕まって供述していれば、早い段階でイェーヌの手元から栞を回収することができたんだ。譲渡に悪気はなかったとはいえ、その点は大いに反省することだな」


「ごもっともで」


「そもそも、なぜ身を隠した? いくら手配が回ったとはいえ、お前が作った物でないなら素直にそう話しておけば良かっただろうに」


「そこら辺はまぁ、渡世の義理といいますか、うちもお得意様の信用商売なもんで」


 殊勝な態度であれこれと喋ったくせに、そこだけはぼかす。まだ栞の件については他に知っていることがあるようだ。

 何となく見当はつくが、あとの詳しい聴取は自警団に任せるべきだろう。

 外套を適当にはたいて身繕いを終え、預けていたポシェットをカミロの首から回収して自分の肩にかけ直した。


「さてと。では、このまま宿を取りに行くのか?」


「いえ、まずは聖堂へ戻りましょう。お二方にはそちらでお休み頂き、私とアイゼン殿で宿を探して参ります」


「そうだな、早く安心できる場所でゆっくり休んでもらいたいし、それが良いだろう」


 昨晩は聖堂の二階にあるふたつの客間を借りたが、カミロの使った部屋にアダルベルトを寝かせるなら、どの道部屋が足りなくなる。交代の官吏が来る明日までにはそれも空けなければならないから、今のうちに宿を探しておくべきだろう。

 ずり落ちた体を背負い直すカミロにまだ疲れは見えないが、足への負担を思えば早く移動したほうがいい。

 広げていた迷彩の構成を解き、まずは通りまで戻ろうかというところで、アイゼンが「ハイ」と言って挙手をした。何か意見でもあるのかと目で促す。


「顔の利く宿を取るのもええですけど。お忍び中であんまり人に見られたくないんなら、自分ちに来ます?」


「じぶんち?」


「こじんまりしたもんやけど、居住区の端に家を持ってますんで。客間の片方をお嬢さんが使って、もう片方をそっちの兄さんたちに使うてもらえばちょうど良いですやろ。あ、いや、まともな宿の方がええいうことでしたら、勿論そっちに付き合わせてもらいます」


「……」


 何かを思案するように目を細めたカミロは、ちらりとこちらを見てからアイゼンに視線を戻した。


「それでも先に一度、聖堂へ向かいます。あなたの私邸を使用させて頂くかどうかは、私が確認してから決めさせて頂きますので。リリアーナ様も、それでよろしいですね?」


 有無を言わせない確認にうなずきを返すと、カミロは踵を返して「では参りましょう」と路地を先導しはじめた。

 未だピンと張りつめた雰囲気は和らぐ隙もない。

 ただ、それは怒りとかそういう外因による感情ではないようにも思う。

 最近はその無表情を見ただけで何を考えているのかだいぶ分かるようになってきたと思っていたのに、今のカミロが何を考えているのかは全く読み取れない。もしかしたら分かるようになったというのは勘違いで、あえて分かるようにカミロ自らそう見せていたのかもしれない。


 何となく傍らのアイゼンと視線を交わし、アダルベルトを背負ったまま淀みない足取りで進むその背中を早足で追いかけた。


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