第341話 うらみつらみ百倍返し
昼下がりの商店通りは通行人が多く、食事を買い求める住民や余所から来た商人たちが絶えず行き交っている。
そこに紛れてしまえばわからないとでも考えたのだろう、逃げるアイゼンはより人混みの多い方へと駆けて行く。この小さな体では視点も低く、追う後ろ姿はあっという間に人々の陰に隠れ、見えなくなってしまう。
だが、そんなことは想定済みだ。元より駆け足だけで追いつこうとは考えていない。
「逃がすかっ!」
大きく踏み込む際に【
庇のように突き出た色とりどりの布を足場に、三度ほど跳躍したところで再び男の後ろ姿を捉えた。
振り返ったアイゼンがこちらを見上げ、瞠目するのが見える。口がぱくぱくと動いているが、喧噪に消されて何を言っているのかはわからない。
その代わり、眼下の人々がこちらを仰ぎながら「猫?」と言っているのが聞こえてくる。そう、少しばかり大きくて二本足で移動する猫だ。ついでに魔法も使うが、周囲に迷惑はかけないから気にしないでほしい。
リリアーナは賑わう通りの空を駆けながら、蛇行する男の足元に狙いを定める。
「……これ、でも、喰らえ!」
足止めのために放った氷の礫は、ふたつばかりその足に命中したが威力が弱かった。足をもつれさせて若干速度が落ちたけれど、アイゼンは構わずに横の路地へと駆け込む。
あまり怪我をさせてはと思い、氷の大きさを絞りすぎた。脚を地面に縫い留めるくらいの威力で放たなければ足止めにはならないようだ。
ならばと周囲の水分子を集めて数十の礫を浮かべる。
ひと気の薄い路地に入り込んでくれたのは好都合。避ける暇も死角も与えず、往生際悪く逃げる足めがけて氷の雨を降らせた。
「いででででででっ!」
命中したそばから衣服の端々が凍り付き、右足は纏わりつく氷によって地面に縫い付けられる。動きは封じた、もう逃げられはしない。
リリアーナは低い屋根から飛び降り様に、その背中めがけて思いきり体重の乗った蹴りを喰らわせた。
「ぐぎゃっ!」
縫い留めた氷の砕ける音とともに、突っ伏したアイゼンの背中へ着地する。
その場で小さくジャンプしてもう一度踏みつけると、降参の合図か、男はうつ伏せのまま両手を頭の上に伸ばして見せた。
背中から地面に降り、傍らに立っても逃げる素振りはない。
とはいえ、何を企んでいるか知れず、そばにカミロもいないため警戒は最大限に保つ。
野次馬や関係のないヒトが近づかないよう、エルシオンを真似た迷彩の構成を張り巡らせ、被っているフードを脱いだ。
そうして倒れ伏したままの横腹を蹴り上げ、男の体を仰向ける。
「痛っ、乱暴やなぁ……。降参、降参します、もう堪忍ですわ」
「殊勝な態度で結構。もし逃げようとしたり反抗の素振りを見せれば、次は筋繊維の中まで凍らせるぞ」
「いやいや、行商人は足で稼ぐもんやからそれだけは勘弁……、ん?」
情けない声をあげた男はこちらを見て言葉を止め、目を瞬かせる。それから首と視線だけで周囲を見回し、他に誰もいないことを確かめて「ハァ?」と妙な声を出した。
「ちょっと、質問いいです? さっきの魔法はお嬢さんが?」
「その通りだが」
「まさか、あの店からひとりで追いかけてきたんです?」
「そうだ」
「いやいやいやいやいやいや!」
アイゼンは歪めた表情のまま顔を小刻みに振り、上体を起こした。その拍子に片耳にかかっていた丸眼鏡が地面へ落ちる。レンズは転倒した時に割れていたようで、半月のようなガラス片が枠から転がった。
「だって、あんた、イバニェス家のお嬢様ですやろ、なにお伴を置いてこんな所まで追っかけてきてますの、危ないですやん!」
「お前に指摘される筋合いはない」
「それはそーですけど、こない町をお嬢さんひとりで歩いたらあかんやろ。逃げた自分も悪いんやけど、お外ではもっと慎重に行動せな。とんだお転婆さんや、お伴のひとはどこにおるの、後から追いかけて来るんです?」
「……」
尻もちをついたような体勢で地面に座り込んでいるアイゼン。その起こしたばかりの胸を雑に蹴りつけ、再び仰向けになったところで腹の上に腰を落とした。
「ぐえ」
「お前は、まだ、自分の立場がよくわかっていないようだな?」
長く胸の内に積もっていた悪夢を見せる栞への恨みと、イェーヌの命を危ぶませた行いへの怒りと、朝から問題続きで精神的にそろそろ許容量がいっぱいだという八つ当たりを込めて睥睨すれば、男は顔を強張らせて身を竦めた。
「まったく、手間をかけさせおって。他領まで手配を回していると聞くが、まさかこんな近くに潜んでいたとは。ちょうどこちらに自警団が向かっているところだ、このまま捕縛して彼らに回収してもらうとしよう」
「いや、でもここはイバニェス領やないですしー、いきなり連行いうのは、」
言い終わる前に親指でみぞおちを押し込むと、男は鶏のような声で鳴いて口を閉じた。
「まぁ、確かにまだ罪科が確定したわけではないから、お前を犯罪者扱いすることは難しいのかもしれんが。……それはそれ、これはこれというやつでな、法的な話とわたしの個人的な恨みは関係ない」
「恨み?」
「忘れたとは言わせんぞ、言い逃れをしても調べはついている。お前がレオカディオの取り寄せた本にあの栞を挟んで渡したのだろう?」
「や、その、用立てたのは確かやけど、法に触れるようなことはなんにも……」
弱々しい薄ら笑いを浮かべる男を見下ろしながら、翳した手の上にひとつ構成陣を浮かべる。
途端、アイゼンは淡色の目を見開いて固まった。
「やはりお前は視えているな。その虹彩、うちの家庭教師にも劣るがれっきとした精霊眼だ。お前は構成が刻まれていることを承知の上で、レオカディオに栞を渡したのだろう。……あれを作ったのはお前か?」
「いや、魔法や精霊が視えるのは認めますけど、魔法具を作るまでは。そもそも手配書だってちょっと大げさいうか、あんなおまじない程度のイタズラで犯罪者扱いされてこっちも迷……」
浮かべていた催眠の構成に、もうひとつ花弁のような構成陣を重ねる。見覚えはあるだろう、アイゼンは再び言葉を途切れさせ、空中に浮かぶそれを凝視した。
「おまじない程度、か。なるほど、自身で試用はしていないのだな。良い機会だから味わってみると良い。ただし、精神作用にアレンジを加えているから効果は乗算されている。はたしてどんな悪夢が見られるか、楽しみだなぁ?」
薄紅色の栞に刻まれた構成は、目覚め様に一度見たことがあるだけだから完全な再現はできなかった。それでも効果は体感しているし、神経作用の術は苦手ながらも嗜みがある。
あんな粗雑な構成とは比べ物にならないほど綿密な計算をして書き込んであり、入眠から覚醒の時間も操作できる。夢の中でどれだけ苦しんでも自発的に目覚めることは困難という、我ながら恐ろしい魔法に仕上がった。
引きつるアイゼンの顔を見下ろし、習った笑顔を作るまでもなく口角が持ち上がる。
ひどい夢を見た。決して現実では起きてほしくない、そして二度と見たくはない悪夢だ。
あれからも度々赤く濡れた光景が浮かんで悩まされたし、時間の経った今でも脳裏に焼きついて消えてはくれない。
あの時から、栞を作った者と自分へ寄越した犯人へは百倍返しにすると固く心に決めている。
「本当に、あれはひどい夢だった。わたしだからすぐに原因を特定できたが、もし魔法の知識が何もなければ、栞を手放すまでずっと悪夢に苛まれるところだった。目に見える物理的な効果がない分、発覚のしにくい極めて悪質な嫌がらせと言える」
「そ、そんな効き目は、」
「日々悪夢に苛まれれば満足な睡眠を取れず、肉体的にも精神的にも磨耗していく。逆に、あの雑貨店の店主のような者であれば、幸福な過去の夢に浸れる魔法は手放し難い薬物のようなものだ。……現に彼女は、あの栞のせいで危うく命を落とすところだった」
驚愕に目を見開いたアイゼンは、そこで突如腕を伸ばし、構成を浮かべているリリアーナの手首を掴んだ。
「待った、今、なんて? 雑貨店の店主いうのは、まさかイェーヌばあさんのことです?」
「ああ、そうだ。行商人が出入りしているとは聞いたが、やはり知り合いか。お前が栞を渡したんだな?」
「そんな、なんで……。ちょっと待ってくれますか、自分はあの栞にそない体に害があるなんて話、これっぽちも聞いとらんのです。本当にあれが、いや、それよりも、ばあさんは無事なんです?」
自分の置かれた状況すら忘れたように腕に力が込められる。血相を変えたその表情に嘘は含まれていないようにも見えるが、この手のことで自分の判断はあてにならない。
ふと、先刻会ったばかりの八朔の顔が浮かぶ。カミロの言うことを疑っているわけではないが、未だに彼が武器強盗の犯人だという話すら飲み込めていなかった。
長い年月を越えて出会えたウーゼの孫に、ずっと心身を心配してやっと探し当てた長兄、行方をくらませていた憎き行商人。
……信じていたこと、思っていたこと、何もかもがひっくり返されてぐちゃぐちゃで、全部放り出して今すぐ温かい毛布を被って寝てしまいたいような気分だった。
「はぁ……」
不慣れな嗜虐心は、ほんのため息ひとつで萎んでしまう。
男の胴体に乗り上げたまま構成を消して腕を下ろすと、アイゼンも掴んでいた手を放した。
「全く……。朝から久しい顔を見たと思ったら旧知の相手の孫が来て、守衛を追い返したらその子が犯罪者だったと判明するし。ようやく兄上を見つけたと思えば様子がおかしい上に、手配中の男が顔を出して追いかける羽目になるし。わけがわからん、何なんだこの町は」
「いや、まぁ、そら災難で」
「まさかとは思うが、お前、兄上の件に一枚噛んでいるということはあるまいな? あの酒場には待ち合わせで来たのか?」
「え? いや、それはないですわ、あの小うるさい
「坊?」
アダルベルトには不似合いなその呼称に、自分の言う「兄」を、レオカディオと勘違いしているのだと気づいた。
次兄が懇意にしている商人ということで屋敷にも出入りしていたが、もしかしたらアダルベルトとは面識がないのかもしれない。
「はぁぁ……」
もう一度深いため息を吐き、指先ほどの警戒を残しながら肩から力を抜く。
なんだか、とても疲れた。
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