第340話 追って、探して、また追って


 うめき声を上げる者に微動だにしない者。ぐったりとした男たちが何人も倒れている煉瓦造りの店は、大きなジョッキの描かれた看板を掲げていた。

 カミロの手を引きながら急いで近寄ろうとするも、漂ってくる臭気に思わず足を止めて鼻を覆う。


「うっ、くさい……」


「どうやら酔っ払いのようですね、こんな昼日中から何をしているのやら」


 呆れすら感じさせない無味乾燥とした呟きをこぼすカミロだが、店の看板へ視線を向けてからリリアーナの顔を見返す。


「なるほど、普段の彼であれば近寄りもしない場所ですが、商人を探すために酒場を当たっている可能性は高いかと」


「う、ん。この酒精の匂いは少々堪えるが……あの店の中を調べたい。付き合ってくれ」


「勿論です」


 横臥する人々は虚ろに意識はあるようで、低いうめき声をあげている。ずいぶん具合が悪そうだが、病人でないならひとまず放置しても構わないだろう。

 店の前に転がっている酔客や吐瀉物を避け、木戸を押し開けるカミロに続いて店内へと足を踏み入れる。

 手前に丸いテーブルが五つ、その奥がカウンターになっているようだ。大して広くはないが薄暗く、目が慣れるまで中にいる客の判別はできない。


「足元、お気をつけ下さい」


 そう言われて床を見ると、そこかしこに店の外と同じような状態の泥酔した客が転がっていた。揮発した酒精だけでこの臭気だ、よほどアルコール分の強い酒を出しているのだろう。

 袖口で鼻を押さえているというのに、それでもなお障せ返るような酒の匂いが充満していて気分が悪い。この幼い体には匂いだけでも体に悪そうだ。

 アダルベルトは本当にこんな場所にいるのだろうか。目が慣れはじめたので薄暗い店内を見渡してみるけれど、点在する客の中にそれらしい姿は見当たらない。


「おい兄チャン、ここは子ども連れで来るような店じゃあないぜ?」


「お構いなく。用件が済みましたらすぐに退出いたします」


 店主の忠告にそう返すと、カミロは「これを」と言って清潔なハンカチを手渡してくれた。口元に当てると石鹸の匂いに濾過されて、少しだけ呼吸が楽になる。

 ほっと息をついて再度店内を観察してみても、捜している兄の姿はどこにもない。アルトが探知したのは以前彼に贈ったタイリングの石だから、もしかしたら物だけがここに残されているという可能性も――


<あっ、リリアーナ様、奥です、あの右端です!>


「?」


 アルトの声に顔を上げるのと、繋いだ手が引かれるのは同時だった。

 テーブルを避けつつ光量の乏しい店内を歩き、奥のカウンター席の右端まで進むとカミロはそこで足を止める。


「探しましたよ、ひとまずご無事で良かった。お怪我などはございませんか?」


 慎重に、囁くような声音で話しかけた相手は、テーブルに肘をつき背を丸めて項垂れている男だった。陰鬱な気配を漂わせ、片手には木製のジョッキを掴んでいる。


「人違いだ」


 乱れた髪に土や埃で汚れた衣服。後姿だけでは、まさかそれが捜し人だなんて思いもしない。

 枯れた声を返して振り返る、その顔を見上げたリリアーナは驚きに息を飲んだ。


「兄上っ」


「人違いだと言っている。……あぁ、でも、よく似ているな。なんて都合の良い幻覚だ」


 そう言い捨てるように吐き出し、手にしていた飲料を煽る。その乱雑な動作とともに濃いアルコール臭が漂ってきて、つい眉を顰めてしまう。

 いつものアダルベルトとはまるで人が変わったような仕草に言動。一瞬だけ向けられた眼光もこれまで見たことのない鋭さで、ようやく見つけ出せたというのに困惑が勝る。

 様子がおかしいのは、酒に酔っているせいだろうか?


「何だ兄チャンたち、こっちの旦那の知り合いかい?」


「ええ、はい。大分酔われているようですね、何かご迷惑をおかけしましたか?」


 動揺を隠せない自分とは違い、平静さを保つカミロが店主に応える。するとカウンターの中の男は口を大きく開けて豪快に笑った。


「迷惑って程じゃない、面白いモン見せてもらったよ! これまで酒豪なんざ掃いて捨てるほど見てきたが、こんなザルはさすがに初めてだぜ、若いのに大した肝だなァ。酒代は転がってる奴からオレがむしってやる、気にすんな」


「……倒れている彼らは?」


「あぁ、この旦那が入ってきた時にな、ここいらで見ない顔だとか言って絡んだアホ連中なんだが。腕っぷしで敵わないもんだからって飲み比べを吹っ掛けて、それも負けてこのザマだ。みんな常連のロクデナシどもだから放っとけ」


 店主の言う通り、いずれも顔馴染みの常連客なのだろう。テーブルで飲んでいる客たちが自業自得だと言って笑うと、酔い潰れて床に伏せているひとりが「ひでぇ……」と呻き声をあげた。


 ともあれ、見ず知らずの酔っ払いに用はない。一度こちらを見たきりまた項垂れてしまうアダルベルトのそばへ寄り、その肩へ手をかけた。

 上に着ているのは汚れたシャツだけで、いつも首元を飾っているタイもベストも身に着けていない。この外気温では寒いだろうに、薄手の服が体温の高さを手のひらへ伝えてくる。

 顔も紅潮しているし、飲み比べなんてものをしたなら相当量の酒精を摂取しているはずだ。

 不安に思って体調を見るため近づくと、左手の親指に見覚えのある銀色が光った。中央に光条の入った青い宝石と、シンプルな作りの銀環。自分が兄に贈ったタイリングだ。

 念入りに解毒の構成を刻んであるから、この石の働きでアダルベルトは泥酔せずに済んだのだろう。

 毒物の話を聞いて、もしもの時のためにと思い用意した品だが、こんな形で役に立つとはさすがに想像もしなかった。


「良かった。タイは失くしても、これを手元に残してくれて」


 カウンターテーブルに乗せられたその手に自分の手を重ねると、骨ばった手がぴくりと動く。

 そして恐る恐るという風に、隈の浮かぶ目がこちらを見る。


「……本当に、リリアーナ、なのか?」


「あぁ、そうだ。兄上を追ってここまで来たんだ、早く帰ろう、みんな心配している」


 どこか虚ろだった焦点が結び、視線が合う。驚きに目を見開いたアダルベルトはすぐに顔ごと背け、空になったはずの器を呷った。


「ちがう、違う! 俺は関係ない、人違いだ!」


「兄上?」


「すまない。駄目なんだ、もう、俺のことなんか放っておいてくれ……」


 重ねていた手を優しく払うと、兄はそのまま自身の頭を抱えるようにしてテーブルへ突っ伏してしまう。

 明らかな拒絶の姿勢。リリアーナはかける言葉を失い、一歩下がると背中がカミロにぶつかった。振り仰ぐ顔はいつものように感情を浮かべておらず、何を考えているのか読み取れない。


 こんな時、どうするのが正解なのだろう。

 アダルベルトの内心を量れないため言葉が出てこない。事情を聞き出すべきなのか、そっとしておいた方が良いのか、無理にでも連れ出し、一度聖堂へ戻ってからゆっくり休ませてやるのが兄のためだろうか。


 ……わからない。

 酒に酔っているせいでおかしな態度を取っているならまだしも、こちらを見た目には明らかな理性があった。

 不意の襲撃により攫われて、空を追いかけて、その身を案じ続けて。やっと見つけ出したのに、まさか当の兄から拒絶されるとは思いもしなかった。

 困惑と混乱のせいで考えもまとまらない。助言を求めて再びカミロを見上げると、細めた目にどこか落胆の色を見た。



「まいどー。真昼間から盛況なことで、ってすごい匂いやな、何や酒浴びサービスでも始めたんです?」


 木戸を開ける音とともに、朗らかな声が店内に響く。

 顔だけで振り返ってみると、逆光でよく見えないが、背の高い男が戸口に立っている。


「あぁ、飲み比べの敗者共だよ。邪魔だったらそこらのヤツも店の外に引きずり出しといてくれ」


「いや店長、来たばかりの客に掃除させようとかそない都合の良い……、ん?」


 黒いシルエットが小首を傾げる。その独特な南海訛りとよく通る声には、聞き覚えがあった。

 リリアーナはまさかという思いを抱えながらカウンター沿いを駆け、外光を背にしない位置からその客の顔を見る。

 跳ねた黒髪に日焼けした肌、薄い色合いの瞳を覆うように丸い眼鏡をかけた若い男。こうして目の当たりにするのはずいぶん久し振りだが、その顔を決して忘れてはいない。

 栞の件で手配中の行商人、アイゼンだ。


「お前っ!」


「あ、あー! あ~~っ?」


 目の合った男が口をあんぐりと開ける。

 お互いの正体に気づいたところで、行動に移したのは相手の方が早かった。その場ですぐに踵を返すと、入って来たばかりの木戸を開けて店から飛び出す。


「逃がすかっ」


「お待ちください!」


 その背を追って駆けだそうとしたところで、カミロから制止の声がかかる。

 中途半端に振り向いたせいで倒れている客を踏んでしまった。ぐにゃりとした靴裏の感触に心の中で詫びながら、言葉を捜し、肩からかけているポシェットを外す。

 自分を心配する気持ちも、ひとりで行かせるわけにはいかないカミロの立場もわかる、理解できる。だが、今はそれを説き伏せる時間が惜しい。ここで逃がせば奴はまた姿をくらまし、行方が掴めなくなってしまうだろう。

 あの男だけは絶対に逃がすわけにはいかない。


「わたしは大丈夫だ、約束する。お前は兄上を頼む」


「ですが、」


 尚も引き留めようとする言葉を遮るため、ポシェットを投げつける。

 力任せに投げたせいで少し狙いが逸れてしまったけれど、カミロは腕を伸ばして空中で難なくそれを掴み取った。


「信頼の証だ。……アルト、頼んだぞ!」


<えっ、あ、はい! お任せをーっ!>


 閉まりきる前の木戸の隙間を縫うように店を飛び出し、そのまま駆ける。

 後のことは後で考えよう。

 最優先だったアダルベルトを見つけられた今、やるべきことの一番上は空欄になった。兄の様子も、飛竜ワイバーンの行方も、八朔のことだって、気になることはまだまだあるけれど。

 今だけは「やりたいこと」を優先して構わないと自分自身に許可を出す。


 何せここはサルメンハーラ、キヴィランタの住民が闊歩する町。自分がどこの誰か知る者はいないし、このフードさえ被っていれば魔法を使っても正体を隠し通せる。

 兄を見つけられたことで胸がすいたのか、それとも栞の犯人をようやく見つけられた達成感か、頭の中がクリアで視界が広く、体も軽い。どんな俊足で逃げようと捕まえきれる確信があった。

 楽しいわけでもないのに、思わず口元に笑みが浮かぶ。

 あの商人と栞のせいで、自分も雑貨店の店主も酷い目に遭った。なぜ自分たちが狙われたのかは未だ知れないが、許すつもりも、逃がすつもりもない。

 リリアーナは酷薄な笑みをフードで隠し、通行人に紛れようとひた走る背中を追って路面を蹴った。


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