第327話 枢機官マグナレア①


 右手側にあった階段を上り、鍵のかかった扉を開けた先が全て居住エリアになっているらしい。まず通されたのは談話室のようなソファセットの置かれた部屋だった。

 あまり広いとは言えず調度品もこじんまりとしているが、淡い色彩でまとめられた室内は居心地が良さそうに見えた。

 一旦ここに腰を落ち着けて話をするのかと思いきや、「あなたはこっち」とマグナレアに手を引かれ、別室へといざなわれる。


「あちこち砂だらけじゃないの、まずはお風呂が先よ。食事はもう済ませたの?」


「は、はい」


「それならゆっくりじっくり洗えるわね」


 獲物を見据えた肉食獣を思わせる微笑みを浮かべ、赤い唇が弧を描く。

 出会ったばかりの頃の夜御前がよくこんな顔をしていたなと、妙な懐かしさを覚えながらリリアーナは背の高い女を見上げていた。


「あまり無体なことはなさいませんように。私の目が届かない所で何かあれば、領主邸から訴状を出しますよ」


「相変らず小言のうるさい男ね、女同士の憩いの時間を邪魔するなんて無粋の極みだわ」


「憩う以前に構いすぎて閉口されないと良いのですが。私はこの辺の備品を適当に拝借します、後で請求書を上げておいて下さい」


「都合よく宿屋扱いしてくれた礼は十倍にして返してもらうから」


 気心知れた仲ということはわかったが、妙な不安を覚えるやり取りが頭上で交わされる。風呂で一体何が待ち受けているというのか。

 その場にカミロを残し、鼻息の荒い女に急かされるまま談話室を出る。隣にある部屋をもうひとつ経由してから、小綺麗な浴室へと押し込められた。

 一歩手前の脱衣所に入ると、抵抗する間もなく着ているものを全て剥ぎ取られ、一緒に入るつもりらしいマグナレアも着衣を脱ぎ捨る。胸部も臀部も、豊満で重たそうだ。背丈だけでなく全体的に大きいなという感想を抱く。

 浴室にはすでに湯が用意されており、白い湯気がもうもうと立ち込めて温かい。


「ちょうど仕事を上ろうと思って、お湯の準備をしていたのよ。着替えは持っていないのでしょう、後で私のを貸すわ。この服も洗っておいてあげる」


「ありがとうございます」


「……ピカピカのツヤツヤのもっちもちね」


「?」


 頭の先からかかとまで、リリアーナの裸体を感慨深げに眺めていたマグナレアは長い嘆息を吐いてから湯桶を手に取った。


「こちらへいらっしゃい。外は寒かったでしょう、寝る前にちゃんと温まらないと風邪をひくわ」


「はい。あの、カミロは……」


「あれのことは放っておいて平気、タオルでも使って適当に何とかするでしょう。それにしても……詳しい事情は後で聞くけれど、一体何があったのよ、髪もほつれて酷い有様じゃない。まったく、イバニェス家令嬢ともあろう者が侍女もつけずに外泊だなんて」


「一応、父上に見送られて出てきたので、外聞的なことは大丈夫だと思います」


「ファ ラ ム ン ドォ……ッ!」


 怨嗟の籠った声とともに、頭上から湯をかけられた。程よい熱さの湯が全身を滑り落ちて、足や指先が冷えていたことを自覚する。頭の芯の痺れは疲れによるものだろう。

 緊張や焦燥にばかり気を取られて、自分の体のことは意識の外に放っていた。マグナレアの言う通り、しっかり温まって休まなければまた熱を出してしまう。


「あっ、ごめんなさいリリアーナ、熱くなかった?」


「平気です。昨晩はお湯を使えなかったので、さっぱりできて嬉しいです」


「……洗う前に少し温まりましょうか。この浴室は設計段階から私が注文をつけて作らせたのよ。手狭だけどなかなか良いでしょう? まさか自分が逗留したり、姪っ子と一緒に入ることになるなんて思わなかったけれど」


 手早く髪をまとめ上げたマグナレアに抱えられ、脚のついた浴槽に身を沈める。熱い湯がじんわりと冷えた体を温めてくれる、その心地よさに思わずため息が出た。

 頭のすぐ後ろにはたわわな乳房があり、枕のように柔らかいから気を抜くとこのまま眠ってしまいそうだ。


「屋敷ではお付きの侍女が洗ってくれるのかしら?」


「はい。フェリバという若い侍女が丁寧に洗ってくれます。特に髪を洗うのが好きだと言って、何かつけたり色々したがるのですが、あんまり時間がかかるとトマサが止めに入ってきたり、あとはわたしが途中で寝てしまいそうになったり」


「ふふっ、そう。侍女たちとも仲良くしているのね。……ほんと綺麗な髪、洗うのが楽しみになる気持ちもわかるわ」


 首筋に落ちてくる吐息がくすぐったくて、仰ぐように背後のマグナレアを振り返る。

 濃い睫毛に彩られた藍色の瞳。目元を細めて微笑むその面差しは、やはりファラムンドと良く似ていると思う。


「何かしら?」


「あっ、ええと……」


 不躾に観察したせいで不審に思われたようだ。隠すほどのことではないが、先ほど見せた様子からして、ここでファラムンドの名を出すのは得策ではないと判断した。


「こんな風に、誰かと一緒に湯浴みをするのは初めてなので」


「あら、そう? ……そうね、ウィステリアは産湯にも付き合えなかったでしょうし」


 手のひらで掬った湯を肩にかけられる。血縁とわかっていても、あまりよく知らない相手から母の名を聞くのは不思議な心地がした。


「上のふたりが男の子だったから、次は娘も欲しいって言ってたのよあの子。リリアーナと一緒にお風呂へ入ったり、かわいい服を選んだり、楽しみなことはたくさんあったでしょうに……。あなたも、母親がいなくて寂しい思いをしなかった?」


「わたしには父上や兄上たちがいるので、寂しく思ったことはありません。マグナレア様にも子どもがいるんですか?」


「いいえ、私は結婚せずに家を出たの。従兄妹を期待したならごめんなさいね。でもコンティエラの聖堂は孤児院を併設しているから、これでも小さい子の面倒は見慣れているのよ?」


 湯から持ち上がった白い指が、優しく頭を撫でてくる。

 他にあまり撫でられた経験がないせいで、やはりファラムンドの手を思い出す。それとも、もし母が健在ならこんな感じだったのだろうか。

 温かなその感触と柔らかい胸に身を任せ、リリアーナは目を閉じた。


 ……五歳記の際に険しい顔を向けてきた女性とマグナレアは、本当に同一人物なのだろうか?

 カミロがこうして身柄を預け、容易にふたりきりにしたことからも害のない相手だということはわかる。そもそも信頼できる相手でなければ、こんな状況下で頼ろうとは思わないだろう。

 イバニェス家と聖堂はあまり関係が良くないと聞いているのに、なぜファラムンドの姉が女官など務めているのか。

 血縁としてはごく近しいはずなのに、なぜ今まで紹介どころか顔合わせもなかったのか。

 後でちゃんとカミロに説明を求めよう。


 緩慢な思考がそう締めくくると、リリアーナの意識は浴室にたちこめる湯気のようにぼんやり、ふわふわとふやけていった。



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