第328話 枢機官マグナレア②


       ◇◆◇




 湯に浸かったままうとうとしだしたリリアーナに気づいたマグナレアは、仄かな苦笑を浮かべてからそのまま小さな体を洗い始めた。

 おかしな動きがないよう監視を続けていたアルトだが、リリアーナの肢体を慈しむように流す女の手からは全く害意が感じられない。まるで我が子へそうするように、愛おしげに扱う優しい手を疑うほうが悪いことのように思えてくる。

 幼い少女がのぼせないよう湯を半ばまで抜き、肩にタオルをかけてやってから次は髪を洗う。

 長い紫銀を梳く手櫛も侍女たちのように丁寧なもので、洗われるのが心地よかったのだろう、浴槽の縁に頭を預けるリリアーナはすっかり寝入ってしまっている。


 かつて聖堂で五歳記の祈念式をした際、この女と祭祀長が陰口のようなものを囁き合っていたことは、同行したアルトも捉えていた。

 ただ、内容がリリアーナの実母に関するものであり、そばに侍従長もいる状況を鑑みてすぐに伝えるのは控えただけで。

 まるで配慮のないパストディーアーの告げ口には、今思い出しても苛立ちを覚える。


 置かれたポシェットの中でアルトがぷんすか憤慨していると、リリアーナを抱えたマグナレアが浴室からあがってきた。

 大判のタオルでその身を包み、自身も簡単に拭いて長い髪をまとめ上げ、置いてあったバスローブを纏う。

 安らかな寝息をたてるリリアーナは湯上りのため体温も脈拍も高めだが、精査しても身体にこれといった異常は見られない。しっかり眠れば今朝のように発熱することもないだろう。今晩は野宿ではなく、ちゃんとしたベッドで休めることにアルトは安堵する。

 そこで外側からノックの音が響き、扉越しにカミロの声が聞こえてきた。


「ずいぶんかかっているようですが、大丈夫ですか?」


「問題ないわ、この子が寝ちゃったのよ。部屋へ運んで寝かせたらそっちに行くから、大人しくしてらっしゃい」


「……そうですか。ではお任せいたします」


 その言葉を残してあっさりと引き下がる男に、アルトは意外な思いがした。

 勿論、立場だけでなく色々な問題があるためカミロが浴室に足を踏み入れないことは理解できる。それでも、赤の他人ではないとはいえ、リリアーナとほとんど接したことのない相手にそう易々と任せてしまって本当に良いのか。

 アルトにとっては聖堂での第一印象が悪かったため、浴室での様子を目の当たりにしてもなお、マグナレアへの警戒は薄まらない。血縁だからといって必ずしも味方とは限らないのだから。


 真に信頼に値する人物なのかを確かめるため、リリアーナを抱えた女が隣の部屋へ向かう隙を突き、ボロ布に包まれた宝玉はポシェットの中からこっそりと抜け出した。






「何だ、もっと好き放題に寛いでいるかと思ったわ」


「節度くらいは弁えております。夜分に突然押しかけて申し訳ありません、正直、このタイミングであなたがここに駐在されていてとても助かりました」


「折衝役に呼ばれて嫌々交代に来たのだけれど、あの娘の役に立ったなら、まぁ悪くはなかったかしら」


 リリアーナを部屋へ運んでベッドに寝かせ、自身の着替えを済ませたマグナレアが居間に戻ると、カミロはソファの端に姿勢よく座っていた。

 女の後を追いながら探査でこの部屋も見ていたが、絞ったタオルを使い身なりを清めたくらいで他の物には手をつけていない。じっと座ったまま何かを考えている様子だった。

 棚を漁ってグラスと飲み物を携えたマグナレアがその向かいに腰を下ろす。


「夜更かしは大敵だから、手短に説明してちょうだい。ここへ来るのをファラムンドも了承済みだなんて、一体何があったの?」


「リリアーナ様に何か訊ねたのですか?」


「ちょっと話しただけよ、疲れていたのかすぐに寝てしまって。すべすべのお肌とあの髪をもう少し堪能していたかったけれど、まぁ、明日の朝にでもたっぷり可愛がってあげるわ」


「そうやってウィステリア様も散々構い倒した挙句に敬遠されたのを、もうお忘れですか」


 受け取ったグラスに口もつけず釘を刺す男に、マグナレアは閉口したように赤色の酒を煽った。


「ふん、あの子の件だって私はまだ許したわけじゃないんだからね。それよりも、今の状況を説明なさい。あの子煩悩バカ男が、リリアーナとあんただけでサルメンハーラなんかに来させるわけないじゃない」


 足を組んで横柄に促すマグナレアに対し、カミロはぴんと伸ばした姿勢を変えないまま、これまでの顛末をかいつまんで話し始めた。

 サーレンバー帰りの一行を別邸で迎え、その後に見たこと、起きたこと、そして極楽鳥に乗って追跡し、飛竜ワイバーンの攻撃を受けて墜落したこと。一晩の野宿を経てサルメンハーラへ向かうに至ったこと。

 内容はおおむね実際の出来事だが、ただひとつ、協力者であるエルシオンが四十年前の『勇者』だという件は一貫して伏せたままだった。

 単なる魔法師としては飛びぬけた才を持っていることになるが、確かに『勇者』という正体を明かすとなれば、説明する事柄が増えて話がややこしくなる。


 一通りの話を聞き終えたマグナレアは注ぎ直したグラスを傾け、緩やかに波打つ水面を無言のまま見下ろす。

 ファラムンドが自ら他言無用を命じたにも関わらず、ここまで事情を詳らかにした。カミロ個人が信頼を向けているだけでなく、主であるファラムンドからも事情を打ち明けて構わない相手ということなのだろう。

 染色された長い爪がグラスの縁を辿る。品が良いとは言えないそんな動作にも、どこか蠱惑的な魅力が漂う女だった。


「アダルベルトは内面はともかく体だけは頑丈な子だもの、きっと無事でいるわ。朝までに何かそれっぽい身分証を用意してあげるから持って行きなさい。聞き込みをしている最中に、また衛兵に絡まれても面倒でしょう」


「ご協力感謝いたします。飛竜ワイバーンについては何もお耳に届いておりませんか?」


「残念ながら、昨日も今日もそんな話は聞いていないわね。もっとも、この町じゃ聖堂は嫌われ者だから、枢機官なんていっても誰も頼って来ないし、噂話の類もあまり入ってこないのよ」


 そう言ってマグナレアは嘲笑うように鼻を鳴らし、残っていた液体を一息に飲み干す。


「こうして無事に聖堂は完成したのに、まだ折衝は上手く行っていないのですか?」


「上手く行ってたら私が呼ばれたりしないわよ。どうも相当根深いみたいね、まぁ気持ちはわからないでもないけど。私だって……喩えはすんごく悪いけれど、もしお爺様を殺したのがこの町の奴らなら、絶対に許さないし一族郎党縊り殺した上で町ごと燃やし尽くしてやるもの」


「すんごく悪いどころではありませんよ。酔っていますね?」


「あんたが飲まないせいでしょう」


 身を乗り出したカミロが空になったグラスを取り上げると、マグナレアはそれを取り返すでもなくソファの背もたれに身を預けた。

 血中濃度や血管の膨張から見て、言うほど悪酔いしている様子ではなかったが、眦から険を抜いた女はそのままぼんやりと天井を見上げる。


「もう八年かぁ……」


「ええ。お会いになられるのは三年振りですから、成長に驚かれたでしょう」


「そうね。背丈が伸びたし、ずいぶんあの子に似てきた。んー、顔はレオのほうが似ているけれど、そうじゃなくて、なんか雰囲気が、こう……知らないとこに咲いてる、見たこともない花みたいな」


 言葉遣いが次第にたどたどしくなり、厚い二重の目蓋がとろんと落ちかける。

 今宵の話はもう切り上げることにしたのだろう。カミロは手元の酒を一気に煽るとボトルの栓を閉め、ふたつのグラスを片手に掴んで立ち上がる。眠そうな女はそのままに、水場の見当をつけて勝手に片付けを始めた。


「なんか、リリアーナを見ていたら娘が欲しくなってきたわ」


「おや、宗旨替えですか?」


「まさか。うちの孤児院からひとりくらい引き取ってもいいかなーって思っただけよ。今さら結婚なんかするもんですか。お爺様以外の男なんてみんなクソだわ」


「みんなとまでは言いませんが概ね同意ですね」


 グラスに水を注いで戻ったカミロがそれをローテーブルへ置いた。ぐったりとソファに仰向けていた女は体を起こし、グラスを手に取ってちびちびと飲み始める。


「ところでマグナレア様、念のためにお訊ねしますが、ご自分の私室にリリアーナ様を連れ込んだりはしておりませんね?」


「朝の身支度も私がしてあげるんだから、別にいいじゃないの」


「起床後にお手伝い頂ければ結構。抱き締めて寝たいとか仰るのでしょうが、お疲れな上に体調が優れないのです、今晩くらいゆっくり眠らせて下さい。どうせ客室は余っているのですから、リリアーナ様には一室宛がって頂きますよ」


「せっかくの姪っ子とのふれあいタイムよ、一緒に寝るくらいいいじゃない! さわらないから、並んでベッドに入るだけ、寝顔を眺めて匂いを嗅いでぬくもりを分け合うだけって誓うからーっ!」


「酔っ払いが何を言っても信用できはしません。部屋はあちらですね、失礼します」


「ぎゃー! 乙女の部屋に勝手に入るんじゃないわよ男の分際でっ!」


<…………>


 早足でつかつかと歩み去る男と、その背をふらつきながらも必死の形相で追いかけるマグナレア。

 アルトは形容しがたい微妙な思いを抱えながら、確かにエルシオンと同系統の人物だなと、カミロの言葉に深く納得をした。

 あの伯母がリリアーナに対して害も敵意もないことは良くわかったから、ひとまずそれを収穫としておこう。

 棚の陰に隠れたままふたりを見送った宝玉は、放置されたポシェットの中へ戻るべく、そそくさと浴室へ向かった。


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