【自治領サルメンハーラ】
第323話 潜入、サルメンハーラ①
遠目に望む石壁は、どこまでも果てなく続いているかに見えた。
皿のような形に伸びているそうだから、遠近の錯覚によりそう見えるだけで、実際はそこまで長くはないのだろう。そうだとしても長大な人工物は周辺に何もないことも相まって、異様な雰囲気を醸し出す。
暮れなずむ夕陽に照らされたサルメンハーラの外壁。離れた場所からそれを眺めていたリリアーナは、自分以上に熱心な視線を注ぐ隣の男を見上げた。
「どうした、カミロ。別にサルメンハーラへ来るのは初めてではないのだろう?」
「ええ、そうなのですが……」
「壁がさぁ、すっごい伸びてるんだよねー」
後ろから話に混じってきたエルシオンまでもが妙な顔をしている。確かに、ふたりが地面に描いた図の通りだとしたら、よほど大きな町ということになってしまう。
なんせ壁の端が見えない。いくら湾曲しているからといって、この距離でも全体が見渡せないほどの外壁は異常だ。
「常に拡張工事を続けていることは知っていますが、前回訪れた時にはここまで長くありませんでした。よほど施工を急いだのでしょう、これではまるで、」
続く言葉を飲み込んだのは、口にすることをためらったせいだろうか。状況的に、何を言おうとしたのかはおおよそ察しがつく。
「緊急に増築する必要ができた……ということは、最近になって森から漏れ出る魔物が増えたか、それともこちら側と遮断しなくてはならない状況が発生したとか?」
「そのどっちだったとしても、一番アレな予想にたどり着くよねぇ。カミロサンが言いにくいならオレが言っちゃうけど、急にベチヂゴの森への警戒が増したなんて、つまりは
「脅威ってまさか、キヴィランタに新しい『魔王』が立った、ということか……?」
それを口にした時、自分はどんな顔をしていただろう。
何となくふたりの視線から逃れたくなって、フードを被ったままの頭を俯ける。
デスタリオラの死亡からすでに四十年余り。いつまでも空席でいるはずはなく、いつかは後継となる新しい『魔王』が発生することはちゃんとわかっていた。
――ただ、それが
「しかもさ、馬車道からだと左右が元の景色に見えるように、地味ィ~な幻惑がかかってるよね。さっき降りてから眼鏡拭いてたけど、カミロサンの見間違いじゃないよ」
「あぁ、なるほど、そういう魔法でしたか。私の目の錯覚かと思いました」
「だから商人伝いの話が入ってこなかったのだな。町の直前まで来て、わざわざ馬車を降りて近づこうとするのは我々くらいなものだ。……それで、どうするカミロ。このまま真っ直ぐ町へ入るか?」
広範囲に幻惑の魔法までかかっているとなると、サルメンハーラ側は壁の急な増築を他所に知られたくはないようだ。
もし本当に森やキヴィランタに異変が見られるなら、事はあの町だけでは済まない。それを隠し立てするような行いは、隣接するイバニェス領への裏切りにも等しい。
……であれば今からでも二手に分かれ、反対側の町からファラムンドへ報せを送る必要があるのでは。
そう考えて念のため確認をすると、カミロは厳しい顔のまま首肯を返す。
「はい。目下の最優先目標は攫われたアダルベルト様の救助ですから。壁の延長についてお尋ねするのはひとまず後回しにして、彼の安全を確保次第、後発の捜索隊と合流してから改めて領事への面会を申し込みたいと思います」
「お兄ちゃんが誘拐されて良かったとは言わないけどさ、このタイミングで来られたのはツイてたね。オレも前に通ったのは数年前だから知らなかったよ、これは敬遠してる場合じゃないかなぁ。町に入ったら
様々な思いや懸念はあれど、その提案には同意できる。余計なことを言わないよう口を噤んだまま、リリアーナはこくりとうなずきを返した。
エルシオンがかける迷彩の魔法に便乗し、馬車道を横に逸れたあたりから徒歩で町まで向かう。
太陽は遠く岩山の並ぶ地平線にほぼ姿を隠し、空は一面が焼け落ちるような濃いグラデーションに塗られていた。
それを見上げる視界の端に、ゆっくりと進み始める荷馬車が映る。どうやらベンドナの花粉で眠らせていた商人たちが目を覚ましたようだ。
「あっれ、もう起きたんだ。あの量なら夜まで寝てると思ったんだけどな。さすがは体が資本の行商人、丈夫だねぇ」
「売るものは何も積んでいないのに、あれも『行商人』なのか?」
「あの馬車につけられた紋章はウルバノ領のものです。あそこは穀類の産出が主なのですが、それをサルメンハーラへ持ち込んでもうまみはありません。なので交易というよりは素材の買い付けに来たのでしょう。専従商人はコンティエラに倉庫を持っていますので、他の荷物はそちらへ預けているのかと」
「サルメンハーラは衣食住と娯楽ぜんぶ自給自足が行き届いてるからね、よっぽど珍しい特産品でもないと売れないんだよ」
「へぇ……」
思わず感嘆の声が漏れる。森で魔物を狩るにはリスクが伴うものの、農作物のように手間隙がかかるわけでもないし、実力が伴えば元手もかさまない。移住者たちに農耕や建築など生活に必要な仕事を任せられるなら、あとは一方的に外から利益が舞い込む。
しかも上手いことに、隣接するイバニェス領の利益を奪っているわけではない。元々何もなかった場所で魔物を食い止める役目を負った上、魔物の素材という稀少な特産物を餌に、聖王国の東端まで他領の商人を呼び寄せているのだから。
行商人たちはイバニェス領を通過するだけでなく途中で商売をするだろうし、貸し倉庫や宿の利用など様々な場所で金を落とす。
間のイバニェス領としては、サルメンハーラ目当ての行商人が通るだけでも益となるわけだ。
「……なるほど、良く考えたものだな」
「リリアーナ様は一の説明で十を理解されるので、うちの教師たちは相当楽をしているでしょうね」
「いや、みんなそれぞれ実のある授業をしてくれるぞ。特に歴史の教師は話が面白いから、聞いていて飽きない」
礼儀作法の授業だけは、未だに少し苦手意識があるけれど。そんな弱音を口の中で噛み殺し、歩きながら横目にカミロを見上げる。
こうして話している間にも空はどんどん暗くなり、互いの表情すら薄ぼんやりしていく。歩くペースを合わせるためカミロの袖を掴もうかと思ったけれど、何となく後にいるエルシオンの視線が気になってやめた。
「お疲れではありませんか?」
「まだ歩き始めてから大して経っていないだろう。昼寝をしたらずいぶんすっきりしたし、これくらいの距離なら大丈夫だ」
馬車の中で寝るつもりはなかったのだが、カミロに肩を揺すられて目を開けると日はかなり傾いていた。木箱に寄り掛かっていたせいか少し背中が痛むけれど、たっぷり眠ったお陰で熱はほとんど治まり、朝より体調も良い。
うたた寝をしている間にサルメンハーラが視認できる所まで来ており、そこで馬車を降りたのがつい先ほど。馬に水を与えて労い、自分たちも夕食を済ませたところで徒歩に切り替えた。
この分であれば日が落ちて暗くなった頃にちょうど外壁へ着くだろう。
徐々に色を濃くしていく夜の気配。乾いた空気に混じる森の匂いに不思議な感覚を覚えながら、先ほどの話を反芻する。
ベチヂゴの森のすぐそばに陣取り、森に入って魔物を狩る交易の町。イバニェス領とはつかず離れずの関係を築き上げた自称・自治領。……おそらくその前身、もしくは設立者は自分も良く知る人物のはず。
「いくらサルメンハーラの仕組みが上手いからといって、最初からそうだった訳でもあるまい。何もない荒野にいきなり町はできない。サルメンハーラが今の形になるまで……それこそ自治領なんて名乗りを上げるまでは、近隣の協力が不可欠だ。後ろ盾になれるような相手との面識だとか、人手を集める伝手だとか」
「そうですね」
暗に成り立ちへの関与を指摘すると、回答をぼかすと思ったカミロは意外にもすんなりそれを認めた。
公然の秘密とは思えないし、ここだけの話、ということだろう。
「大旦那様は、珍しい物や新しいことが大変お好きな方でしたから。まぁ、類は友を呼ぶと言いますか。公にはしておりませんが、結果的に誰も損をしておりませんし、良いのではないでしょうか」
そう言うとカミロは唇の前で人差し指を立て、夕焼けの名残を映すレンズの向こうで、何の含みもない楽しそうな笑顔を浮かべて見せた。
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