第310話 失敗の疵はなぞらない
ひどく、強い衝撃があったような気がする。
意識に空白があった。
額がいたい。
重いまぶたを開けると、視界が全部ぼやけている。
何があったかははっきり覚えているものの、今がどういう状態にあるのかはまるでわからない。だが、あまりに目眩が激しくて起き上がるのは諦めた。
ぐったりと全身の力を抜いても、まだ頭蓋の中身だけが揺れているような。
「うぅ……」
「リリアーナ様、お怪我は?」
「んー……、どうだろう。激しく痛む部分はないから、ひとまず無事らしい。カミロは大丈夫か?」
頭上からかけられた声にそう返すと、頭の中に自分の声が反響している妙な感じがした。まだ目が回っているようだ。
こちらを気遣う言葉とともに頭に振動が伝わる。どうやらカミロの体の上に、伏せる形で乗っているらしい。
手でまさぐってそれが胸元だとわかり、石のように重たい頭をなんとか持ち上げる。
「お前……」
見上げた男の顔はひどい状態だった。いつも整えている髪が乱れ放題で、頬は土に汚れ、眼鏡にもひびが入っている。
その様を見て、三年前の潰れた馬車での記憶が蘇り、血の気が下がる思いがした。
「お前の方こそ怪我をしているのではないか? 今すぐにどくから……」
「いいえ、お陰様で大事ありません。リリアーナ様がご無事なのでしたら何よりです。立つのが難しいようでしたらそのままで、どうかご無理はなさらないでください」
「うん……、ちょっと頭がぐらぐらする。酷い目に遭ったが、ひとまず互いに無事なようで良かった」
ほっと息をつき、頭を横に向けてあたりを見回した。
草がまばらに生える荒れた地面と、所々に転がる大きな岩。それ以外は何もない殺風景な渇いた荒野は、かつて魔王城に着いたばかりの頃を思い出させる。
まさかキヴィランタまで跳ね飛ばされたわけでもあるまい。アルトに現在地と状況を訊ねようとしたところで、乗っている体が不安定に揺れた。
「おふたりさん、無事なのは良かったから、そろそろどいてもらえるとオレが助かるよ……いや、リリィちゃんは砂粒みたいに軽いんだけどね! 全然重たくなんてないんだけどね、むしろリリィちゃんだけ乗ってて欲しいっていうか!」
「誰が砂粒だ、失礼な奴だな」
「女性への喩えとして最低ですね、良識を疑います」
「うう、もうオレは体も心もぺしゃんこだよ……」
カミロに抱えられ、下敷きになっていたエルシオンの上から降りる。
そうしてやや俯瞰の位置から見下ろすと、周囲の地面が皿のようにへこんでいた。落下の衝撃によるものだろう。
互いの魔法と障壁によって勢いを弱めてもこれなのだから、どちらか片方でも欠けていたらとても無傷では済まなかった。
空中でエルシオンが勢いを弱めてくれなければ、魔法を使う前に意識が飛んでいたかもしれない。
ほんの一歩先にあった死の可能性に肝が冷える。自分の中の、『大抵のことは何とかできる』という慢心は、未だに拭いきれていないようだ。
「いやぁ~、えらい目に遭った、リリィちゃんのお陰で助かったよ。墜落死しかけるのは二度目だけど、どうもあの内臓が浮くみたいな感じはイヤだね、魔法に集中できなくて」
「わたしの方こそ……、いや、あんな状態ではとても魔法の重ね掛けなんてできはしない。緩衝と制止の分担ができて良かった。それで、ここがどの辺かわかるか?」
半分はアルトに向けた問いかけだから返答は期待していなかったものの、エルシオンは「初めての共同作業……っ」だとか独り言を漏らしながら自分の体を抱きしめている。基本的に役には立たない。
「追突の前に、イバニェス領最東端のコイネスの町を見ました。周囲に海も耕作地も見当たりませんし、おそらくそこから更に北へ飛ばされたのではないかと。落下以降は滞空中の回転が激しく、目印になりそうなものは確認できませんでした。申し訳ありません」
「いや、あんな事態は誰も想像できなかった、お前が謝ることはない。……そういえば空中で妙な動きをしたな、体勢が崩れて焦ったぞ。一体どうしたんだ?」
追突の衝撃で跳ね飛ばされたあと、自分を抱える手が減り、遠心力でずり落ちそうになった。
エルシオンの腕が伸びてきて体を固定され、三人まとめてきりもみ状に落ちて、何とか魔法を維持して、――そのあたりまでしか記憶がない。
空中で何かあったのかと問えば、カミロは思い出したように上着のポケットへ手を突っ込み、そこから砂色をした布の塊を取り出した。
<ううっ、大変な時に何のお役にも立てず、誠に申し訳なく……なんと不甲斐ない……埋まりたい……>
「アルト?」
「ポシェットからこれが零れるのを見て、咄嗟に手を伸ばしてしまいました。リリアーナ様の身を危険に晒してしまったこと心より謝罪致します。お守りすると申し上げておきながらこの体たらく」
<ほわっ、あのっ、私は自分でしがみつけば良かったのです。助けてもらって感謝しておりますとも、ええ、はい。なので、できれば、あまりこの男を叱らないでやって頂ければと……>
カミロは膝を落とし、横抱きにしたままそこへ座る体勢にしてくれた。そして胸元に乗せるようにしてアルトを手渡される。
難を逃れ手元に戻ってきたぬいぐるみは、ひとつだけ残っていた目もちぎれ、綿を詰めただけの不格好な布袋と化していた。もはやボアーグルどころかネズミにも見えない。
「そうか、空中で……」
自分が精輝石を取り出すために、ポシェットのふたを開けたせいだ。ツノが欠けて体積の減ったアルトが零れ落ちる可能性まで頭が回らなかった。
中に宝玉を詰めているせいで、あんな風に振り回される状況ではただのぬいぐるみよりも放られやすいのに。
綿の中に収めた宝玉に欠けがないのを触って確かめ、ポシェットへと戻した。
「ありがとう、カミロ。もしこれが飛ばされていたら、途方に暮れるところだった」
「早く生地を取り寄せて、直してもらえると良いですね」
「うん。……さて、三人とも大事ないのは何よりだが、のんびりともしていられん。現状の確認と、これからのことを考えなくてはな」
そう言って見回してみても、付近に極楽鳥の姿は見当たらない。別の方向に跳ね飛ばされ墜落したのだろうか。エルシオンも思い出したように首を巡らせて周囲を探っている。
<私の探査範囲にも極楽鳥の姿はありません。飛んでくれれば見つけやすいのですが、低地では自力で飛び立つのも難しいでしょうし。引き続き探査の網は張っておきますので、何かあればお知らせいたします>
報告の声に、無言でポシェットを撫でて返す。
相手をただの
追跡対象を見失い、アダルベルトは連れ去られ、移動の足をなくし、ここがどこなのか正確な場所も向かう先もわからない。
問題は山積みだし、アルトの探査も交えてこれからの指針など相談しなくてはならないけれど、……その前に。
「話し合いをする前に、ひとつ白状するが。わたしはいま、とても体調が悪い」
「……! 目眩、吐き気はございますか? 食欲は?」
「それだそれ、実はとても腹が減っている。昼食を食べ逃したし……体力を消耗したから。それと今までの経験からして、この感じは早めに休息を取らないと熱を出す、と、思う」
幼い体の許容量を超えた魔法の行使。これまでも何度かあったけれど、そのたびに熱を出して何日も寝込む羽目になった。
今の状況でそんなことになるのは避けたい。
カミロの腕の中で脱力したまま、どうするべきかを考える。まずは水分と栄養の補給。それから体を横たえしっかり睡眠を取って、体力の回復に務める。
限界ギリギリまで振り絞ったわけではないから、きちんと休めば明日には動けるようになるはず。何度も同じ目に遭えば、いい加減自分の限界くらい理解できている。もう同じ轍は踏むまい。
そんなことを思案している間に、カミロが自身の襟巻きを外してストール代わりにぐるぐると肩へ巻いてくれる。
そういえば障壁が切れて寒さを感じていた。空腹で体温が下がったせいもあるかもしれない、冷えきった指先の感覚が鈍い。
「えっ、ど、どうしよう、リリィちゃん、具合悪いの?」
「何か非常食をお手持ちではありませんか?」
「食べ物! ある、あるよっ、持ってる、何がいい、肉と魚とパンと果物、どれっ?」
「ずいぶん……大きなポケットをお持ちで。では果物をお願いします」
そんな会話を頭上に聞いていて、乾燥果実でも分けてくれるのかと思った。
エルシオンは出現させた小さな布包みをカミロに手渡し、それが目の前で開かれる。ハンカチのような簡素な布の中には、みずみずしい大粒のイチゴがいくつも入っていた。
「……」
色々と言いたいことはあっただろうに、カミロはわずかな沈黙でそれを払う。摘まんだイチゴをひとつ口に含んで確かめてから、もうひとつを口元に持ってきてくれる。
唇を開いてかじったイチゴは甘酸っぱく、摘みたての青臭さも保っていた。あふれる果汁に舌先がしびれる。
思いのほか一粒が大きくて、カミロの手を借りながら何とか食べきった。もうひとつは自分の手で受け取って、時間をかけて食べる。
体力が目減りしているためか、イチゴ二粒だけで腹は満ちたような心地がした。もう良いと断ってハンカチで指先を拭う。
そうして腹はくちくなったというのに、相変らず体が重くて頭がふらつく。まだ熱は出ていないと思うが、あまり良い状態ではなさそうだ。
ほっと息をつくと、カミロがポケットから細い水筒を取り出し、キャップに注いで渡してくれる。それを受け取り、香りの浅いお茶を舐めるように口に含んだ。
「リリィちゃん大丈夫? 他になんか要るものある?」
「ん、もう良い、助かった。お前たちもちゃんと補給をしてくれ」
「我々は後ほど。しっかり休息を取るためにも、少し移動した方が良いですね。ここでは吹き晒しの風にあたってしまいます」
「あっ、じゃあオレ、あの大きい岩を削って穴を作るよ。テントも持ってるから今日はそこで野営しよう、すぐに張るからちょっとだけ待ってて!」
存在にも行動に対しても文句しか出てこない腹の立つ男だが、今このときばかりはエルシオンが同行していて良かったと思う。
カミロの腕に寄り掛かったまま見送る後ろ姿、そこから伸びる影は長い。いつの間にか日の傾く時刻になっていた。
「アダルベルト兄上は、」
「
迷惑をかけているのはこちらなのに、なぜか謝罪でもするようにカミロは囁く。その懇願の滲む声音にどう返すべきだろう。
手を伸ばし、砂がついたままの眼鏡を指先で拭う。
縦にひびが入ってしまったレンズ、その影のように映る縦線は古い傷跡だ。左目を縦断するそれをなぞろうとして、やめた。
「この傷のせいで、視力が悪いのか?」
「ええ、そのようです。左目だけなので、眼鏡が割れてもさほど支障はありません」
そんなことを言ってまで、こちらの心配を拭おうとする。
間近でレンズの厚みを見れば、どれほどの補助を必要としているかくらいわかってしまう。さほど、の幅が広すぎだ。
普段であれば軽口混じりにそんな指摘もできただろうが、今ばかりは自分が何か言うほどにカミロを困らせる気がして、口を噤む。
どうにも上手くいかない。
ままならない現実と、思い通りにならない弱い体。
何も多くを求めているつもりはない。ただ健やかに生きて、家族とともに平穏に暮らしたい。自分の望みはそれだけなのに。
リリアーナは積もる気鬱を吐息ごと吐き出しながら、胸の内で攫われたアダルベルトの無事を祈った。
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