第304話 鳥影
眠っているイェーヌを起こさないよう静かに退室し、様子を見に来た看護師に後を任せてリリアーナたち三人は治療院を後にした。
自警団員のナポルと合流したため、何となくエルシオンが部屋に入り込んできたことは言い難くなってしまった。
カミロも疲れているようだし、これ以上余計な心労をかけるのも気が引ける。別邸に戻ったあとキンケードに伝えておけばいいかと、リリアーナは闖入者の報告を諦めた。
念のため、外に出てからさりげなく周囲を見回してみるが、エルシオンの姿はどこにも見当たらなかった。大人しく移送用の馬車に戻ったのだろう。
あの男にはいくつか尋ねたいことが残っているけれど、別に急ぐ話でもない。罰金だとかそういうのが全部終わった後にでも、また話す機会を設ければいい。
ひとまず諸々の罪は帳消しにされるらしいし、キンケードに同席を頼めば面会くらいは許可してもらえるだろう。
さすがに相手が罪人ではそれも不可能だった。何か有益な情報を得られたら、いつか中央へ行けた際にでもオーゲンへ礼を伝えようと思う。歴戦の剣士にして『勇者』一行の生き残り。どんな人物かちょっと興味もある。
そんなことを考え、先ほどの一件から頭を切り替える。
リリアーナはまた大人しくなったポシェットを軽く撫でながら、隣を歩くカミロに声をかけた。
「この後は別邸で昼食をとって、屋敷へ向かうのだったな」
「はい。午後からは旦那様方と別行動になりますし、もし他に寄りたい所があるようでしたら、出発時刻を調整してご案内することも可能ですよ」
「んー……。いや、今日はもう屋敷へ戻ろう。トマサたちの顔を見たいし、皆も疲れているからな。早く荷を下ろしてゆっくりしてもらいたい」
あくまで皆の疲労を思ってのことであって、自分は疲れてはいない。そう念を押すと、カミロは返事をしながら眼鏡の奥で目を細めた。
寄りたい場所はあるかなんて訊ねてきたくらいだから、まだまだ体力に余裕があることはわかっているはず。むしろ働き通しのカミロの方こそ、しっかり体を休めるべきなのだ。
そう重ねて主張をすると、今度こそ笑いを殺しきれなかったようで妙な咳払いをしてごまかす。全然ごまかしきれていない。
何を笑っているのかと睨みつければ、背後のナポルまでが笑い声を上げる。小声で交わしていた話が聞こえていたのだろうか。
歩きながら振り返ると、童顔の青年は微笑ましげな顔でこちらを見ていた。
「あっ、すいません何でもないです。にしても、おふたりは仲が良いんですね」
「はい」
「後ろから見てると、着ているものと髪の色がちょっと似てるから、なんだか親子みたいだなーって」
「良く言われます」
少し肩を揺らしたカミロがずれた眼鏡の位置を直し、同じように首だけで後ろのナポルを振り返った。
「このあと休憩を取れるようでしたら、よろしければナポルさんも別邸で昼食をどうぞ。自警団の皆さんの分もご用意しておりますから」
「えっ、自分も良いんすか? わー、ありがとうございます!」
顔を綻ばせて両手を握り締めるナポル。昼食の話題になったことで、リリアーナは自分の空腹を自覚した。
朝食をとってからずいぶん経っているし、散歩がてら歩いた治療院との往復も効いた。たぶんあの男が現れたせいで余計に消耗したせいもある。
守衛の立つ門扉をくぐり、また元の前庭まで戻ってくると、あたりには焼いたパンのおいしそうな匂いが漂う。
座りっぱなしでだるかった足を動かせたことだし、空腹も手伝ってこの後の昼食を存分に楽しむことができそうだ。
……そんな期待を胸に足を進めるうち、馬車の近くに黒い人だかりができているのが目に入った。
「何となく、嫌な予感がする」
「きっとリリアーナ様には関係のない騒ぎです、無視して中に入りましょうか」
「そうだな、腹も空いたし……」
足を止めないまま隣のカミロとそんな会話をしていると、黒い人垣の向こうに腕が一本ぬっと生える。
「あっ、リリィちゃーん、おかえり~! へぐっ」
「……」
近寄りたくはないが、取り囲んでいた自警団員たちが一斉にこちらを振り向いたせいで立ち去りにくくなってしまった。
苦々しい思いをなるべく顔には出さないようにしながら、リリアーナは人だかりの方へと足を向けた。
近づくだけで黒い制服の男たちはさっと左右に割れて、不自然な姿勢で立っているエルシオンと、その首根っこを片手で掴むファラムンドの姿が目に入る。
「何を……している所なのだろうか、父上」
「あぁ、リリアーナ、おかえり。治療院を見てきたんだろう。お前がよく世話になっている医師の爺さんも普段はあそこに詰めてるんだ」
「そうだったのか、知らなかった。それで……その、父上が掴んでいるのは」
「これか? でかいネズミがウロチョロしてたもんでな。目障りだからどっかに埋めようと思ったとこだ。リリアーナは疲れてるだろう、先に中に入ってテーブルで待っててくれ。お父さんも手を洗ったらすぐに行くから」
血管と器官を絞められてだんだんと顔色を悪くしていたエルシオンは、さすがに耐えかねたらしく首に回された指を両手で外し、芝生の上へ無様に転がった。
軽く咳き込んでから、何かに気づいたようにはっと顔を上げその場で直立する。そして服についた草や土を払い、いつもの笑顔を作って機敏な敬礼をして見せた。
「あなたがリリィちゃんのお父さんだったんですね! ご挨拶が遅れました、オレはエルシオンっていいます! リリィちゃんとはこれからも末永く親密なお付き合いをさせて頂きたいと思ってますので、この機会にお
おもむろに大股で三歩近づいたファラムンドの頭突きが入り、エルシオンは再びその場に転がって悶える。
「ボケたこと言ってんじゃねぇよブッ殺すぞテメェ。うちの娘に近寄るな、ふざけた呼び方すんな、どたまから縦に三つに裂いて干して乾かして薪にして燃やすぞコラ。残った灰で畑の肥やしにでもなってみるか? アァ?」
「さすが父上、合理的で無駄がない」
「そうですね。ではリリアーナ様、参りましょう。旦那様もああ仰っていることですし、先に食堂へご案内いたします」
「うん」
カミロに促されて踵を返すと、「待ってぇぇぇ」と恨めし気な声と共に地面を這いずる音が聞こえる。
リリアーナがそれを振り返るのと、ファラムンドに腹を踏みつけられたエルシオンが濁音だけの悲鳴を上げるのは同時だった。見下ろす姿は潰れた蛙そのもの。
処遇がはっきりするまで馬車の中で大人しくしていれば良いものを、この男はどうしてこう一々無駄なことをして騒ぎを起こすのだろうか。純粋に疑問に思う。
「お前は渡り鳥か何かか? どうして一箇所にじっとしていられないんだ。あまり周囲へ迷惑をかけるようなら、もう口をきかないぞ」
「そっ、それだけは……っ!」
「自警団に入りたいとか言うわりには、彼らの心証を悪くするようなことばかりするし。行動や言動がそんなだから、わたしもお前を信用できないんだ」
「う……」
蛙の格好をしたまま、エルシオンは項垂れて地面に額をつけた。大人しくはなったようだが、ファラムンドが腹へ乗せた足に力を込めるたび潰れた声で呻いている。
この調子では、解放後に採用試験とやらを受けたところで自警団に入るのは不可能だろう。どれだけ腕が立っても採用されなくては意味がない。
伏したままでいる頭から視線を上げると、黒い制服をかき分けるようにしてキンケードが現れ、手にした縄でエルシオンを後ろ手に縛り上げた。
何の変哲もない縄だから、抜けようと思えばいつでも切ることはできる。それでも、これに懲りたならしばらくは脱走なんてせずじっとしていれば良い。
この男の処遇に自分は関与しない。後のことはファラムンドたちが決めることだ。
サーレンバー領から度々、苦労をかけているキンケードを見上げる。このあとの食事くらいはゆっくりとれるようにと声をかけようとしたところで、長身のさらに上、別邸の屋根の向こうを悠々と飛ぶ鳥の姿がリリアーナの目に入った。
かなり距離があるはずだが、それを考えるとずいぶんと大きな鳥のようだ。
空に浮かぶ影は大きな螺旋を描くように飛翔しながら、少しずつ高度を上げている。体が重いため羽ばたいて上空に昇ることができず、気流を探っているのだろうか。
いくつか知っている大型の鳥類が頭に浮かぶけれど、そのどれとも形が違っているように思える。
「このあたりにはあんなに大きな鳥もいるのか?」
「鳥?」
キンケードだけでなく、そばにいた大人たちもリリアーナの視線を追うように揃って南の空を振り仰ぐ。
今の視力ではあそこまで遠いものを詳細に捉えることはできないけれど、妙に切り揃った翼に、細く長い尾。首もなんだか不自然に長くて……
「あれはもしかして、」
「なぁ、あの辺は方角からすると、屋敷の真上じゃねえか?」
屋敷の上を飛んでいる……?
それほどまで離れているなら、相当な大きさだ。リリアーナが目を眇めて空を舞う正体不明の影を凝視していると、肩からかけたポシェットの中身がびくりと震える。
<リリアーナ様、それとキンケード殿、お聞きください。対象まで距離があるため私の探査は届かず、光学情報の解析のみゆえ正確性には若干欠けるのですが。形状から見てあれは鳥類ではなくドラゴン、
「ハァ?」
こちらに顔を向けてきたキンケードが素っ頓狂な声を上げる。突然何だと周りから胡乱な視線が集まる中、アルトの念話は先を続けた。
<しかも、脚に掴んでいるのはおそらくリリアーナ様の兄君、アダルベルト殿です>
「「は……?」」
その思いもしない情報に、今度はリリアーナも揃って驚愕の声が漏れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます