第303話 間章・とある屋敷の片隅で②

※流血表現注意。





 昼時と夕方の隙間。いつもは買い出しや食事で賑わう商店通りもわずかばかり落ち着きをみせる時間帯。

 カミロとキンケードは別邸を出てから中央通りを抜け、北商店街の路地に入った。人目につきにくい裏道を足早に進み、連絡のあった荷馬車の停留所へ到着する。

 方々から着く行商人たちが一時的に馬車を預けたり、荷物を移すための停留に使われる場所だ。

 呼び出した辺りを見回して呼び出した当人を探し出すよりも前に、向こうがこちらを見つける方が早かった。横手から「こっちだ」と声がかかり、ふたりで積み上げられた木箱の反対側へ回り込む。


「トマサは?」


「おう、キンケード。その様子じゃあ、どうやら別邸にも戻ってねぇらしいな。こっちも今、捜してる最中だ」


 焦りを滲ませて問うキンケードに、煙草で枯れた声が答えた。自警団の制服を着崩した痩身の男は、自身の顎髭を撫でながら鋭い眼光をカミロに向ける。


「この厄介な時期に、お付きの侍女をホイホイとひとりで買い物に出すなんざ、ちっとばかり配慮が足りてねーんじゃねぇのか? アァ?」


「彼女はお付きではありませんよ。幼い子どもでもあるまいし、普段の外出くらい許可しています。あなたに当家の管理体制をとやかく言われる筋合いはありません」


「あーもー、待てよ、ふたりとも。そーいうの今はいいから、先に現状を教えてくれ。ダン、攫われたとこを見たってタレコミは本当なんだな?」


 壮年の男はつまらなそうに鼻を鳴らし、駆け寄ってくる他の自警団員に向かって片手を挙げて見せた。


「本当かどうかは知らねぇけどな。路地に女が連れ込まれるとこを見たって商人がいる。別邸に出入りしたこともある果物屋で、どうもその女が知ってる侍女に似ていたもんだから、心配になって路地を覗いてみたが人っ子ひとりいやしねぇと。そんでも不安になって詰め所へタレコミに来たんだとよ」


「商人らしからぬ善性に感謝ですね。その情報が陽動や囮という可能性は?」


「いや、ありゃシロだ。話してみた感じ、後ろ暗いとこは感じなかった。何も知らずに利用されてるって線は捨てきれねぇがな」


 近くまで駆け寄ってきた自警団員がダンへ敬礼を向け、報告を始めた。

 トマサ本人の行方は未だ掴めていないが、彼女は市場で行商人たちに声をかけてクレーモラ領の近況を聞き回っていたらしい。「これだから世間知らずのお嬢ちゃんは」とダンは苦々しい表情を隠しもせず毒づく。


 未だ誘拐の真偽は定かではなく、本当にトマサが攫われたのかどうかもわからない。しかもこの街はイバニェス領の主要街、特にこの商業区画は他領から訪れる行商人の出入りも多く、自警団といえど勝手に立ち入ることのできない倉庫や建物はいくらでもある。

 こんな風に情報を絞ったまま、少ない人員で捜索をしても当たりを引くほうが難しい。

 別邸に集められている自警団員たちにも共有し、もう少し範囲を広げて捜すべきでは。カミロがそう提案しようとすると、さらにもうひとり路地の反対側から自警団員が駆けてきた。その青褪めた顔を見るだけで何かあったことは明らかだ。


「お前らは鼻が利くから呼んだんだが、それも要らなかったか」


「犬とは違って、主人がいなくても給料分くらいは働きますよ」







 そこは倉庫通りから一本回り込んだだけの通用路。普段は掃除夫だとか倉庫の管理者くらいしか通ることはない、雑草だらけの荒れた道だった。

 用のある人間しか通らないだけで、全く人目にふれないわけではない。だから、最初から隠すという意図はなかったのだろう。

 案内されて辿り着くなり、キンケードは息を詰め片手で自身の鼻と口を押えた。

 風下なのもいけなかった。もっと近くで吸い込んでいたらその場で吐いたかもしれない。

 掃除用具の箒やバケツが乱雑に詰められた粗末な小屋の中、床一面に近寄るのも躊躇うほどの血溜まりができていた。


「あー、こりゃヒデェな……」


 百戦錬磨を謳うダンすらも手前で足を止めて呻く。

 その後ろでカミロは案内をしてきた自警団員に対し、幾人かの人手と担架と毛布を持ってくるよう指示を出し、白い手袋を外してキンケードに押し付ける。そのまま躊躇うことなく、血臭の充満する小屋の中へ足を踏み入れた。

 事が起きてからまだそう経っていないのだろう、広がった血液は表面だけが半端に凝固し、上質な革靴が濡れて粘質的な音をたてる。


 小屋の中に女が仰向けに横たわり、その腹が縦横に大きく割かれていた。

 包むもののなくなった臓物が血液とともに広がり、内容物が露出したことで酷い臭いを発している。

 カミロは間近から女の顔を見下ろし、その無残な死体が間違いなくトマサであることを確認した。振り返って首だけでうなずくと、キンケードが沈痛な面持ちをしかめる。


「クッソ……、お嬢ちゃんに何て言えばいいんだよ……っ」


 カミロはそのまま上体を屈め、死体を検分する。

 指先でふれた首筋は完全に体温を失っているが、血の乾燥具合から見て殺されたのは昼を過ぎた辺り。

 外出着らしき仕立ての良い衣服、胸のあたりから肉とともに飾り紐や襟も全て一撃で斬られている。凶器は刃渡りの長い肉厚のナイフだろうか。

 派手な十字の裂傷にまず目が行くが、よく観察してみると胸の中央部だけ縦の傷がひび割れている。血を洗い流してみないと確かとは言えないが、おそらくここに傷がもうひとつ。

 刺し傷だ、深い。こちらが致命傷だろう。

 犯人はトマサを刺し殺したあとで、わざわざ腹を――下腹部を中心に十字に斬り裂いたのだ。

 儀式めいた、猟奇的な手口についてはすでに聞き知っていたが、こうして直に目にしてみると想像以上に胸が悪くなる。その醜悪な妄執に、カミロは眼鏡の奥で目を眇めた。


 投げ出された両手の袖を捲ってみると、手首に薄い痣が残っていた。赤紫の太い線が三本、縄ではなく大人の手指だ。それをみとめてから、水仕事に荒れた白い手の小指と薬指が不自然な方向へ折られていることに気がつく。

 念のためスカートの裾を捲ってみるが、そういう意味での暴行を受けた痕跡はない。


「おいっ! カミロ、何してんだ」


「もう少し調べます。狭いので入ってこないでください」


「そーじゃなくて……もういいだろ、出てこいよ、お前がンなことする必要ねーだろ、待ってりゃ自警団の奴らが来るんだからよ」


「きついなら離れて良いですよ。人の内臓なんてイノシシやウサギと大差ありません」


 本当はキンケードが言いたいこともわかっている。こちらを気遣ってくれていることも。この男は自分とは違い街育ちだから、風体のわりに繊細なのだ。


「すぐに済みます。あと手袋、落とさないでくださいね。私の手に合わせて特注して頂いた品ですから、その一双だけであなたの安月給くらい軽く吹き飛びますよ」


 キンケードの悲鳴を背後に聞きながら、周囲の壁を見回す。

 辺りに血飛沫が飛んでいるから目立たなかったが、右側の壁に他とは違う飛沫と、それを擦った跡がある。

 そこに近づこうと体を上げたところで、何か光るものが視界の端に映った。

 よく目を凝らして床を探ると、血だまりの中に細いチェーンが落ちているのに気づく。摘まむように持ち上げ、合わせた指で扱くように汚れを拭う。品質の良い金のネックレスだ。

 屋敷の執務室で、身分の証として提示されたばかりのそれには見覚えがある。

 赤く染まった床を注意深く見回してみても、ペンダントトップのように通されていたはずの指輪や財布の類はどこにも見当たらなかった。犯人によって持ち去られたのだろう。

 物証として自警団へ預けるべきなのは理解しているが、そのまま胸のチーフに包んでポケットへ押し込んだ。


 どうしてトマサがこれを所持していたのかは、ここへ来る途中にキンケードから聞いている。

 自分の考えが間違っていなければ、……クレーモラ領主家の刻印が入った指輪なんて持ってさえいなければ、こんな無残な殺され方をすることはなかった。

 光をなくした目が、ぼんやりと虚空を映している。

 今朝、いつものように挨拶をして、元気に働いているところを見たばかりだったのに。

 カミロは抜け殻となった顔をしばし眺めてから、血に濡れていない指の背を使い、少女の目蓋を閉じてやった。



 血溜まりの中から抜け、そばの芝生で靴の裏を拭う。ポケットから出してもらったハンカチで指の汚れを拭き、預けていた白手袋を両手にはめた。

 まだ手は赤く滲んでいるが、これくらいなら洗濯で落とし切れる。帰ったら靴の手入れもしなくては。

 カミロは肺の中に溜まった血臭を吐き出すように、深く深く息をつく。


「何を拾ったんだ?」


「ネックレスです。あなたが言った通り、修理のためミレーニャ嬢から預かっていたのでしょう。チェーンに通されていた指輪は見当たりませんから、持ち去られたのだと思います」


「指輪だけ……?」


 不可解そうに眉を寄せるキンケードを置いて、カミロは検分の様子をじっと観察していたダンへ向き直る。


「ネックレスは旦那様にご確認頂いたのち、私の方からミレーニャ嬢へ返却いたします。よろしいですね?」


「確認を取る言い方じゃねぇだろ、それ。……まぁいい。そんで、現場と死体をじっくり眺めた結果はどうだったんだ、番犬さんよ?」


「……」


 自警団の専門職を侮ってはいないし、自分の検分が全て正しいと慢心してもいない。それでもわかったことを伝えておけば、後で情報のすり合わせをして検証の精度を上げる一助にはなるだろう。

 まるで子どもの遊びを見守るようなダンの視線は気に食わないが、カミロは中指で眼鏡の位置を直してから小屋を振り返り、右側の壁を手で示す。


「あそこの壁、擦ったような跡があるでしょう。犯人はトマサをここに連れ込んでから、腕を掴んで壁に押し付け、何か尋問をしたようです。指が二本折られていました。致命傷は胸の刺し傷。凶器を抜かずに床へ倒し、死亡を確認してから改めて腹を裂いたと思われます」


「ほう? 拷問紛いのことをしたってこたぁ、何か聞き出したかったのか。死んでから腹を裂いたってのは?」


「生きたままあんなことをすれば、返り血で全身血まみれですよ。それでも衣服は汚れたでしょうが、小屋から出る足跡に血がついていない所を見るに、相当慣れてますね。ここへ連れ込むまでの迅速な手口と目撃者の少なさから見て、二、三人による犯行かと。とはいえ、これだけ時間が経っていたら付近を捜索しても無駄でしょう」


「やれやれ、関所の連中を責めるつもりはねぇが、まんまと潜り込んで来てるとはな。物騒でかなわん」


 自警団副長であるダンの立場であれば、あの裂かれた腹を見ただけでおおよその見当はついていただろう。

 この場で話が飲み込めていないのはキンケードだけだ。人相の悪い顔をしかめながら、どういうことだと言いたげにふたりを睨みつけていた。


 こんな場所で事情の説明をする気のないカミロは視線だけでダンに丸投げし、小屋を離れる。

 担架を持って駆けつける自警団員たちの向こうに、主の姿をみつけたためだ。

 呼びに行かせた団員がわざわざ領主のところまで報告に赴くとは思えないから、彼が自分で首を突っ込みに詰め所へ寄っていたのだろう。大人しく別邸で待機していてくれれば良いのに、相変らず行動が読めない。

 白髪混じりで遠目には灰色に見える髪を撫でつけ、細身に上質な外出着を纏った壮年の紳士。散歩のような軽い足取りで歩く男は、抱えた紙袋から菓子をつまみながらカミロに向かって片手を振っている。


「旦那様、わざわざこんな所まで出向かれなくとも」


「トマサは、駄目だったか」


「……はい」


「そうか。可哀想なことをしたね、まだ十五歳になったばかりだろう。エドゥアルダに面目が立たないよ」


 元々、トマサはバレンティン家で面倒を見ていた侍女だ。長く務めた侍女の連れ子だったが、その母親の死をきっかけにイバニェス家の別邸へ移ってきたとカミロは聞いている。

 女傑エドゥアルダ=バレンティンの君臨するあの屋敷で学んだだけあって、行儀作法は同年代の侍女と比べても頭一つ抜けていた。

 それでいて気立てが良く朗らかで、人見知りをするミレーニャもよく懐いているようだったから、彼女に任せておけばあの令嬢のことは大丈夫だと、カミロも若干気を抜いていた部分がある。


 まさか単身で市場に出て、隣領クレーモラの情勢を探ろうとするなんて。

 あのミレーニャがそんなことを依頼するとは思えないから、親元を離れて寂しがっている令嬢を思っての親切心だったのだろう。今になって悔いても仕方ないことだが、トマサにはもう少し踏み入った所まで事情を説明しておくべきだった。


 俯きかけるのを耐えるカミロを一瞥し、イバニェス領主、エルネストは何も言わずその場で踵を返した。

 三歩分遅れてしまってから、慌ててその背を追いかける。

 わざわざ自警団員たちについて来たのは、トマサの状態を見るためではなく、いち早く彼女の安否を知るためだったのかもしれない。


 早々に角度を落とす陽光を浴びながら、カミロは小屋で検分して得た情報を手短に伝えた。

 とはいえ、自分の裁量で省略できる情報などない。ばりぼりと菓子を齧る領主へ必要なことを全て話し終える頃には、倉庫区画を抜け、商業区まで目と鼻の先という所まで来ていた。

 話を聞き終わったエルネストは菓子のくずを払って懐から葉巻のケースを取り出し、フタを開けた横からカミロが円筒形の小さなカッターを取り出す。そうしていつも通り吸い口を切り落とすと、エルネストは手近な軒先に吊るされているランタンを勝手に開き、火を拝借して葉巻をくゆらせた。

 重みのある甘苦い香りが漂い、白煙ごと風がさらってゆく。

 主が考え事をする時と、葉巻を吸う時は決して邪魔をしない。

 エルネストはそのままゆっくり三口ばかり葉巻を堪能したところで、じっと石像のように立っていたカミロに顔を向けた。


「まぁ、お前の見立て通り、やったのはクレーモラから入り込んだネズミだろうね。トマサは本当に良い子だ、事情なんて何もわからないまま、命を投げうってあの娘を守ったのだろう」


「では、やはりあの指輪のせいで……」


「うん。賊はミレーニャと間違えて、トマサを手にかけたんだ。でなければ危険を冒してまで、そんな手の込んだ穢し方はしないさ。顕示も兼ねているから血縁以外にはやらないという話だしね。……本当に、可哀想なことをした。痛かっただろうし、怖かっただろうに」


 北方の隣領クレーモラで内乱が起きていることは、すでに公然の秘密となっていた。

 危機に敏感な商人たちはとうに通行ルートをサーレンバー経由に替えており、いくら物入りの状態とはいえ荒れている地にのこのこ出向くような命知らずはそういない。生活必需品も食糧も持ち込めば高値で売れるのだろうが、治安によっては暴徒と化した民に略奪されるのが落ちだ。


 日和見な現領主政権に反抗する、先進派による政変。

 ……そう言えば聞こえは良いが、結局のところは血縁の不仲による内輪揉め。

 現領主の叔父が不満を募らせ、改革を掲げて領主の座を簒奪。そのまま領主の椅子に座るだけでは飽き足らず、現領主の血縁をことごとく殺害しているらしい。

 叔父なのだから、中には自身の血縁者だっているだろうに。完全に狂っているとしか思えない。


「女は腹を裂いて子宮を破壊、男は喉を裂いて性器を切断。老若男女問わず、ただ血が繋がっているというだけで皆殺しなんて、常人の所業ではありませんよ」


「そうだね、誰か止めてあげられる人がそばにいれば良かったんだけどね。きっと、小心者なんだろう。自分がしたのと同じことを、血縁の誰かにやり返されるのを怖がっているんだよ」


 ぷかりと白煙をくゆらせ、エルネストは葉巻を持った手を下げて灰を落とす。


「トマサのがんばりを無駄にはできないね。ダンはまだ情報を絞っているだろう? お前はこのあと詰め所まで行って、その場で『客人』の捜索依頼を書いてしまいなさい。市場で攫われ、無残な遺体で見つかったのは、別邸で預かっていた『客人』だと。ダンなら口裏を合わせてくれるから」


「旦那様、それではミレーニャ様は……」


「毎日大人しくして、我が侭も言わず、侍女の仕事をお手伝いしているんだろう? 育ちが良く教養があって働き者。うちの侍女にはもってこいの人材じゃあないか。今はたしか……十二歳だっけ、三歳差ならどうにかなるさ。しばらくエドゥアルダの所へ行儀見習いに出して、その間に僕たちで書類を作ってしまおう」


「トマサと彼女を入れ替えると?」


 まるで確認のような問いになってしまったが、主がそうすると言うのなら否やはない。従者であるカミロは必要なものを揃え、必要な手続きをするだけだ。

 それでも、じりじりと肺を焼くような何かがあり、そっと左胸を押さえた。丸めたチーフの中には血に汚れたネックレスが入っている。


「ミレーニャ様へは、どこまでご説明をなさいますか?」


「全部だよ」


「……!」


「あれは聡い子だ。自分に関係することは隠し立てせずに、ちゃんと全部教えてあげなさい。何でトマサが死んだのか。クレーモラ領が今どんな状況にあるのか。現状おそらく唯一の生き残りとして、これからどう生きるのか。……あぁ、最後のだけはあの子に選択の権利があるね」


 難しいなら僕から話すよ、と顔を覗き込むように問うエルネストに対し、カミロはかぶりを振る。


「いいえ。事態を甘く見ていた私にも落ち度があります。ミレーニャ様へのご説明は私からさせて頂きます。彼女をエドゥアルダ様のお屋敷へやる際には、ご一筆願えますか?」


「もちろんだよ。エドゥアルダなら上手いことやってくれるだろうし、あのふたりは髪の色も似ているからね、何年か預けている間にみんなの記憶もぼやけるさ。せっかく投げ出してくれた命だ、余さず使わせてもらおうじゃないか」


 口の端を歪めて軽薄そうに笑ってみせるが、あまり似合っていない。自覚はあるらしいのでその点については突っ込まず、カミロは黙って頭を下げた。

 ミレーニャは賢く、年齢のわりに物分かりの良い少女だ。心に傷を負うことにはなるだろうが、真摯に話せばきっと理解は得られる。

 起きてしまったことと状況を理解させた上で、その後をどうするかはエルネストの言う通り、彼女自身に選ばせよう。


 再び足元に落とした灰を、革靴の底が踏み潰す。

 その珍しく乱暴な仕草にカミロが顔を上げると、エルネストは肩こりをほぐすように首を軽く回して音を立てた。


「今のところ、こっちでは目立つ動きは見られないけど。統治が荒れて、領土が荒れて、民衆の暮らしもドン底ときたら次にすることは見えている。近々、忙しくなるよ。それがなくとも、うちの人間に手を出したけじめはキッチリつけさせないとね」


 大領土でありながら領兵を置いていない軟弱領と侮られがちだが、イバニェスは遥かな昔からベチヂゴの森と隣接し魔物たちを食い止めてきた戦闘の根付く土地だ。聖王国となり領同士の戦争が禁じられてからも、他のどの領よりも剣を手に、体をよろい、魔法を駆使し戦ってきた。

 自警団とは名ばかりの領設警備隊は広大な鍛錬場を備え、持ち回りで領の方々へ駐在しながら常に技を磨いている。

 近年は特に、クレーモラの動きが不穏なため陣形訓練なども織り込んで戦に備えていた。領土が荒れ、ろくな指揮系統も機能していないであろう疲弊しきった領になど、もはや負ける要素がない。


「ま、何事も備えあればってやつだね。お前も牙を研いでおきなさい」


「鈍らせているつもりはありませんよ」


「結構。……別に、そんなことをさせるためにお前を家に招いたわけじゃないんだけど。うちの孫はほら、放っておくとあれだからさ、ちゃんとそばで見ててもらえると助かるよ」


「……」


 あえて即答を避けるカミロを横目に、エルネストは眉尻を下げて苦笑した。


「あれは僕に似て難儀な子だけど、お前がフォローしてくれるお陰で問題行動も減ったからね。そろそろ武具を解禁してあげても良い頃合いかなって。明確な敵が相手ならファラムンドも存分に暴れられるし、人気取りをさせるにも良い機会だ」


「まさか、彼を前線へ出されるおつもりですか?」


「どうせ僕が行けと言わなくても、あの子は自分で突っ込んで行くでしょう。心配ならお前もついて行くかい?」


「嫌ですよ、あの人は近くに誰がいようと構わず長物を振り回すんですから。背中に致命傷なんて死に方は真っ平ごめんです」


 本心からそう言えば、何がおかしいのかエルネストは葉巻を口から離してからからと笑う。

 冗談だとでも思っているのだろうか。思い切り遠心力の乗った長戦斧ハルバードの切っ先が顔の真横を掠める音を聞いたら、きっと笑いも引っ込む。そう思いはすれど軽口は慎んだ。

 無茶ばかりする性質が隔世遺伝したにしても、ファラムンドの無茶ぶりは頭がおかしい。どうかしている。ひとりで馬鹿をして勝手に痛い思いをすればいいのに、なぜか迷惑をこうむるのはいつも自分だ。理不尽。


「どうした、また眉間にしわを溜めているね。眼鏡の度が合わないかい?」


「あ、いえ、大丈夫です。それでは私は自警団詰め所へ行って参ります」


「うん、頼んだよ。別邸の方は私が話をつけておくから気にしなくて良い。戻ったら報告は良いから、湯浴みをして早めに休みなさい」


「はい。ありがとうございます」


 胸に手を当てて礼の形を取ると、エルネストは後ろ手を振りながら歩いて行った。

 本来であれば誰か警護をつけたいところだが、この時間なら市場に人も多い。買い物客に紛れれば、通りを挟んで別邸まではすぐそこだ。

 遠目にだって存在感のある人なのに、どういうわけか街の人混みに紛れるのは得意なのだ。


 その後ろ姿を見送ってから、カミロは自警団の詰め所へ足先を向ける。

 鼻先を肉が焼ける良い匂いが掠め、ふと辺りが暮れの色に染まっているのに気づく。移動して話をするうちにもうすっかり夕方になっていた。


 通りを走っていく子どもたちの声が聴こえて、ふと、心細そうにこちらを見上げるミレーニャの顔が浮かぶ。

 父親違いの兄、ベルナルディノの頼みで別邸に預かることになったクレーモラ領主の妾腹の子。

 不幸はいつもほんの一歩先、何でもない日常のすぐそこに横たわって、こちらがつまずくのを待っている。

 大人しく物分かりの良い子どもだが、果して転んだ場所から立ち上がってこられるだろうか。

 自分は、おそらく手を差し伸べることはできない。先を立って、歩いて行く姿を見せるのがせいぜいだ。


 楽しそうな子どもたちの笑い声が遠ざかっていく。

 ひとりがつまずきかけて、転倒しそうになったところで父親らしき男性が手を掴んで持ち上げた。そのまま肩車をして、もうひとりの子どもが自分もとせがんで、その横で母親が笑っている。

 そんな親子連れの様子をぼんやりと眺めてから、カミロは近道の路地へと入った。

 今の自分が為すべきことを為し、主と、ここに暮らす人々を守らなくてはならない。そこに不幸が横たわっているなら先行して排除し、切り刻んで燃やして灰にしてこっそり捨てる。

 どんな小さな予兆も見逃してはならない、今日の失敗を胸に刻んで、彼らを守らなくてはならない。

 不幸は、いつも一歩先に潜んでいるから。


 不穏に忍び寄る戦争の気配。十五歳記を間近に控えるカミロは晴れない不安を胸に、肺の底から白い息を吐き出した。



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