第302話 間章・とある屋敷の片隅で①

※三百話到達記念の幕間話。




 薄曇りながら外の空気はからりとしていて、ここ数日の中では一番の洗濯日和だった。

 眩しいほどの晴れ間よりも曇りが好きだし、暑いよりはこれくらい肌寒いほうが過ごしやすいと思う。手袋はしないのかと訊かれた時にもそう答えたら、ここしばらく世話をしてくれている侍女のトマサは驚いた顔をしていた。イバニェスよりも冷える地方で育ったせいかもしれない。

 早めの昼食を終えて簡素なワンピースに着替えたミレーニャは、トマサについて回って仕事の手伝いをしていた。

 手伝うと言ってもまだ慣れないことが多く、今だって手際よくシーツを干していく彼女の後ろに貼りつき、洗濯物を留めるクリップを手渡すくらいしかやれることがない。役に立ちたいとは思うけれど、余計な手出しをして迷惑になるのは嫌だった。

 籠の中のシーツを全て干し終えると、トマサは軽く伸びをして背後のミレーニャを振り返る。


「ありがとうございました、ミレーニャ様。お疲れではないですか?」


「ほとんど何もしてませんから、疲れようもないです。トマサこそ休憩はしないんですか?」


「もうじき旦那様方がこちらへお見えになられますから、お迎えの準備をしなくてはなりません。ミレーニャ様はまだ当家のお嬢様とのご挨拶がまだでしたね、昼食の後に少しお時間を取って頂けると思いますから、それまでに一度お着替えを致しましょう」


「はい」


 正直、あまり気乗りはしないが素直にうなずくしかなかった。

 イバニェス領へ来てから周囲の人々には良くしてもらっているし、食事はおいしいし、寝具は信じられないくらいふかふかで柔らかく良いこと尽くし。それでも、生来の引っ込み思案と人見知りが邪魔をして、いまいちイバニェス家の関係者には馴染めずにいる。

 だが、それを態度や口に出してしまうほど身の程知らずでもない。

 なるべく失礼のないよう、大人しくして、誰の邪魔にもならないように静かに過ごす。それが生まれて十二年でミレーニャが身に着けた処世術だった。


 生活の場として提供されたこの屋敷は、イバニェス領主の別邸だと聞いている。

 街に用のある時しか家人が訪れることはなく、いつもは屋敷を管理する使用人たちと居候である自分、それと片方だけ血の繋がった兄がここに住んでいる。どうも露骨に避けられているようで、到着からまだ一度も話したことはない。


「あら、ミレーニャ様、その足元の」


「え?」


「あ、動かないでください、踏まないように」


 そう言ってトマサが芝生から拾い上げたのは厚みのある指輪と、細い金の鎖だった。慌てて自分の胸元を探ると、首から下げていたものがなくなっている。


「どうやらチェーンが切れて落ちてしまったようですね、すぐに気づけて良かったです」


「あ、ありがとう、トマサ。それはとても大事な物だから、絶対になくさないようにって、お母様に言われていたんです。でも、どうしよう、壊れちゃった……?」


「ご安心ください。細かいから素手では難しいですが、工具があればすぐに直せますよ。ちょうど知り合いの金物屋が近くに店を構えておりますから、すぐに直してもらいましょう」


 トマサはそう言って大事そうにハンカチに包んでから、自身のエプロンドレスのポケットへしまう。直してもらえると聞いたミレーニャは深く安堵の息をつく。

 指輪が大きすぎて自分の指には嵌められないから、ずっとペンダントとして首から下げていたのに。もしも落としたのが移動中だったら、それきり見つけられなかったかもしれない。

 細い腕につかまり、重ねて礼を伝えようとしたところで、屈んでいたトマサが何かに気づいたようにはっと顔を上げて姿勢を正す。そこでミレーニャも背後から近づく足音に気がついた。


「カミロさん、もうお着きだったのですね」


「はい。所用がありまして少し早めに。何かありましたか?」


「いいえ、仕事がひとつ終わったので、これから中に入るところです。旦那様方がお着きになられるまでには、ミレーニャ様のお仕度も済ませますので」


「そうですか。今日は自警団員もここへ集まります。あまり事情に詳しくない者もおりますから、人目につくのを避けるためにも、呼ぶまでは別邸の中から出ないように注意して下さい」


「はい」


 神妙な面持ちのトマサとミレーニャが揃ってうなずくのを確認し、カミロは表情を変えないまま踵を返した。

 たまにこの別邸を訪れ、本邸の方でも顔を合わせたことがある男だが、この無機質な感じがどうにも苦手だ。

 とはいえ過度に干渉してくることもなく、向けられる視線に侮蔑や憐憫が含まれないため不快感はない。他人に興味がなく、自身の仕事に全てを傾けているタイプの人間なのだろうと思っている。

 その手の大人たちは、こちらが静かにしていれば理不尽に怒ったりしないからやりやすい。なるべく失礼のないよう、誰の邪魔にもならないよう静かに過ごす。……それさえ守っていれば大丈夫。

 世話になっている身とはいえ、自身が招かれざる客だということくらい理解している。

 子どもがあまりさかしいところを見せると、それはそれで大人たちの心証が良くないため、難しいことは何もわからないという振りをしているけれど。


「さて、ではお部屋へ戻って着替えましょうか。せっかくの機会ですのに、新しいお衣装をご用意できず申し訳ありませんが……」


「いいんです、十分よくしてもらっています。むしろ贅沢は遠慮したいというか、できればトマサのように、何かお仕事をさせてもらえたらと思うんですけど」


「お客様にそんなことをさせる訳には。……ですが、手習いで何かを身につければ今後のお役に立つかもしれませんね、後で侍従長にもご相談してみます」


「ありがとう、トマサ」


 自分の面倒を見てくれるのが、この優しくて良く気のつく侍女で良かったと思う。

 家族から離され、急にこんな場所まで連れてこられたけれど、トマサがいてくれるお陰で寂しさは感じない。

 このまま大人しく、静かにしていればいずれ元の生活に戻れるはず。そう念じて今まで過ごしてきたけれど、自分の家に帰ることになればトマサとはお別れになってしまうのが残念だ。

 イバニェス領へ来てからもう十日以上が経った。いつになったら帰れるのだろう。

 籠を抱えて前を歩くトマサのエプロンを軽く引き、そう訊ねてみると細面の侍女は考えるように小首をかしげた。


「いつまでのご滞在という、期日のようなことは何もうかがっておりません。侍従長へ確認をしてみますか?」


「あ、いえ、そこまではしなくていいです。ちょっと気になっただけで……。トマサはクレーモラが今どうなってるとか、何か聞いてませんか?」


「最近はあまり外歩きをしなかったものですから……。良い機会ですし、この鎖の修理を頼みに行くついでに、市場を歩いて行商人の方から話を聞いて参ります。ちょうど金物屋へ向かう通り道なのですよ」


 籠を片腕に抱えたまま、空いた手がこちらに伸びて頬に落ちていた髪を掬う。ひと房を耳にかけ、頬を撫でて離れていく手を掴んでミレーニャは礼を告げる。

 トマサは淡く微笑み、「お土産においしいお菓子を買ってきますね」と言ってミレーニャの栗色の髪を愛おしむようにそっと撫でた。






 前日に続き、使用人の少女から雑巾の縫い方を教わっていると、外がざわついているのに気がついた。

 きりの良いところまで縫えた布を置き、窓に近寄ってみる。

 端でまとめたカーテンの陰に隠れ、こっそり顔だけ出すように外を覗くと、何人もの黒い服を着た大人たちが慌ただしく行き交っていた。

 どうやら領主一行が到着したらしい。広い前庭には豪奢な馬車が停まって、従者たちが後ろの荷馬車から様々な荷物を降ろしている。

 たくさんの見知らぬ大人たちがいる中で、わざわざ探そうとしなくてもミレーニャの視線はその一点に引き付けられる。

 黒い髪をした背の高い男と、壮年の男性が向かい合わせに話している、その姿。初めてイバニェス領に来た日、本邸の執務室でも対面したことがある。ファラムンド=イバニェス。

 一目見て、太陽のような人だとミレーニャは思った。

 眩しくて強烈で、上から照らしつけるのが当たり前という顔の、威風堂々とした男。他者を従える雰囲気、覇気のある声音。生まれながらに人の上に立つことが運命付けられていたかのような。

 カミロとはまた違った意味で苦手な相手だ。

 とても格好良いとは思うけれど、自分のような日陰を好む性質の人間には眩しすぎる。退路どころか隠れる影すらも消されるようで、できればあまり近寄りたくない。


「旦那様方がお着きなんですね、あたしも夢中で縫ってて気がつかなかった」


「あ、えっと、どうしますか? お迎えに出ますか?」


「とんでもない、あたしみたいな下働きの人間なんか、わざわざ顔を見せに行くのもおこがましい。お食事が済んだら皿洗いの仕事が回ってくるし、それまではここで控えてますよ。お嬢さんこそ、ご挨拶に行ってみたらどうです?」


「私も呼ばれるまでは出るなと、カミロさんに言われてるんです」


 使用人の少女とそんな会話をしていると、扉が開いて黒い長身がぬっと顔を出した。

 部屋の中を見回し、ミレーニャの姿を見つけるなり口を「お」の形に開いて近寄ってくる。

 以前にも見たことのある顔だが、名前がすぐには出てこない。誰だったかと内心で焦るミレーニャのすぐ手前まで来ると、背丈の大きな男は目線を合わせるように体を屈めた。


「ここにいたのか、部屋にいねぇから探しちまったぜ。トマサは一緒じゃねーのか?」


「トマサは、さっき買い物に……。えっと、」


「ああ、オレはキンケードだ、自警団の。悪ぃな急に。ちっとばかしトマサに用があったんだが、どこの店に行くとか何か聞いてるか?」


「あの、市場を通って、金物屋さんに。私のネックレスが壊れてしまったので、直してもらうって」


「そか」


 そこで窓が外からノックされるような音が響き、キンケードと一緒にそちらを向くと、窓の向こうにカミロが立っていた。ちょうど逆光になって表情はうかがえないが、キンケードに対し外へ出てこいと呼んでいるようだ。

 それを受けたキンケードは軽く手を挙げて見せた。そのまますぐに立ち去るのかと思いきや、男はミレーニャの前に片膝をついてしゃがみ込む。

 無精ひげを生やした人相の悪い顔がすぐ間近にあって怯みそうになるが、年上の男性に不慣れなだけで、不思議と怖いとは思わない。


「お嬢ちゃん、手習いを邪魔しちまって悪ぃんだけどな。今から自分の部屋に戻って、ドアに鍵かけて、しばらくじっとしててくれるか?」


「は、はい」


「トマサか、カミロが呼びに行くまでは部屋から出たらダメだ。他の誰が訪ねてきても、絶対にドアを開けちゃなんねぇ。いいな?」


「はい、わかりました」


「おっし、良い子だ!」


 いかつい顔を綻ばせると、キンケードはそばにいた使用人の少女へミレーニャを部屋まで送り届けるように言いつけ、大股で部屋を出て行った。

 窓を振り返るとすでにカミロの姿はなく、領主の出迎えで慌ただしくしているのだと思っていた前庭の自警団員たちも様子がおかしい。

 何が起きているのか全くわからないが、きっと何かあったのだろう。胸がざわつくような嫌な雰囲気は、家にいた時にも度々感じたことがある。

 大人が何も言わなくても、不穏な空気は子どもにだって伝わってくる。


 ミレーニャは言われた通り部屋まで戻るとすぐに扉の鍵をかけ、ソファの上でひとり、膝を抱えて時間が過ぎるのを待った。

 なるべく失礼のないよう、大人しくして、誰の邪魔にもならないように静かに過ごす。

 ……いつも通りにしていればきっと大丈夫だと、胸の内で念じて。


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