第301話 さえぎるものなく②


 壁に寄り掛かったまま嬉しそうに微笑むエルシオンと、ひとまず椅子にかけて向き合う自分。誰も同席せず、間を遮るものもなくこの男と対面するのは、あの採掘場跡の対峙以来。

 妙な悪寒がするのは相変らずでも、街で追われた時と比べれば段々と慣れてきたようだ。

 自身の警戒心が薄れているとは思わない。ただ、対話に応じるくらいは別に害にはならないと、割り切ることができるようになった。

 決して好ましくはないし、むしろ嫌っている相手ではあるのだが、抱いている秘密を気にすることなく話せることが思いのほか気楽で、ほんの少し心も軽くなる。

 だからといってエルシオンと話したいわけでもないので、何とも複雑な気持ちだった。

 成長し周囲の人々と親交を重ねるにつれ、隠し事が重荷になってきている自覚はある。キンケードには秘密の一端を打ち明けることができたけれど、やはりまだ『魔王』であったことだけは誰にも言えそうにない。


 対話に応じる姿勢を取ったものの、特に自分から話しかける用はないためリリアーナはぼんやりとエルシオンを眺めていた。

 黒く偽装した髪に暗色のシャツと上着、使い込まれた皮のブーツ。重厚なベルトを着けているが武器らしきものは何も携帯していないようだ。サーレンバー領で捕縛された時に没収されたままなのか、それとも収蔵空間インベントリへしまってあるのか。

 そんなことを考えていると、不意にエルシオンはポケットに両手を突っ込んだまま首を斜めにした。


「リリィちゃん、もしかして具合悪い?」


「いや、そんなことはないが」


「じゃあ疲れてるのかな、長旅だったし。昔の記憶があっても、体はフツーに人間の女の子なんでしょ? なんか大変そうだね、大事に扱わないとだ」


「まぁ……その辺は、度々身をもって学んだ。確かに疲れやすいし、ちょっとしたことで怪我をするし、過度に魔法を扱えば熱を出して寝込む羽目になる。だが、以前の体が特殊だっただけで、今の状態が普通・・なのだろう?」


「うん、それもそうだね。って、あんまりフツーじゃないオレが同意するのも何なんだけどー」


 エルシオンはくすくすと楽しそうに笑い、眉尻を垂らしながらこちらを見る。


「にしても、すっかりお嬢様だよね。もしオレがキミと同じ立場になっても、領主令嬢なんてやれる気がしないよ」


「この体で八年過ごせば慣れもする」


「八年かぁ……。いきなり環境も性別も、種族すら変わっちゃって、いっぱい苦労してそうだと思ったんだけど。お家のお陰かな、幸せに暮らせてるみたいで良かったよ。もう面倒な役割からも解放されたわけだし、今度こそ好きなことして生きられるね」


「役割がないわけでは……」


 生まれ直して八年、未だに主旨のよくわからない『悪徳令嬢』という役割。ひとまず好きなように生きているが、果たしてそこに近づいているのかどうか。

 何も率先して悪事に手を染めずとも、他者から妬まれれば勝手に悪評が立つとクストディアも言っていたことだし。それなら今の恵まれた生活を続けるだけで、もしかしたら要件は満たせるのでは。

 そんなことを思案し、ふと顔を上げると、エルシオンがひどく険を含んだ目でこちらを見ているのに気づいた。


「待って。もうキミは何にも縛られず自由になれたんだって、オレはそう思ってたけど。まさか一回死んでまで、妙な制約がくっついてたりしないよね?」


「それを問われてわたしが答えると思うか?」


「役割の有無くらいは言えるでしょ、禁止事項には含まれないはずだ」


 そういった制限に関係なく、単純にエルシオンのことが気に食わないから、自身の込み入った事情まで開示する気にはなれない。

 直截にそう答えてやろうと思うのに、いつになく圧のあるエルシオンの表情を前に言葉が詰まる。


「……大した役目ではない。『魔王』ほど制約も多くはないし、そもそも厄介そうなら最初から承諾したりはしない」


「なに承諾って、いつ、誰に?」


「え?」







 不意に訪れた空白。

 一瞬、思考が完全に止まって、何を話していたのか前後の繋がりもわからなくなる。

 そのまま空っぽの何かに塗りつぶされ



 ――パンッ



「っ!」


 目の前で手を叩く残像。急にそばで大きな音がしたものだから、驚いて反射的に目を閉じていた。


「な、何だいきなり?」


「ちょっとだけ、そのまま目を閉じててね。ゴメン、オレが変なこと訊いたのがいけなかった。お互いこの眼のせいで難儀なもんだよホント」


 すぐそばで聞こえる男の声。

 何を言っているのかまるでわけがわからない。うたた寝から覚めた直後のような思考に混乱する。

 ひとまずアルトがいるから危険があれば報せるだろうと、言われた通り目を閉じていた。

 無防備なその姿を前にしてもエルシオンは特に何をするでもなく、接近していた気配が離れていく。


「……?」


「あー、もうちょっと話したかったけど時間切れみたいだ残念。リリィちゃん、またね~」


 わずかな物音に目を開けると、室内にはすでにエルシオンの姿はなく、カーテンがわずかに揺れるのみだった。

 しっかり窓も閉めて行ったらしい。

 相変わらずわけのわからない男だ。一体何がしたかったのかと息をつくと同時に、扉が外からノックされた。

 イェーヌがまだ寝ているため、ここから応答を返すのは躊躇われる。近くまで出向こうかと思ったところで、ドアを開けてカミロが入ってきた。

 口を開く前に眠っているイェーヌの姿が目に入ったらしく、静かに扉を閉めてから声をひそめる。


「お待たせ致しました。イェーヌさんはお休みになられたようですね」


「うん、今しがたな。もう医師との話は良いのか?」


「はい。経過は良好なので、あとは体力さえ回復すればいつでも退院できる状態だそうです」


「そうか……」


 順調な快復は何よりだが、家族もいないあの店にひとりで戻って、彼女はこれからどうするのだろう。店を閉めると言っていたが、その後は。

 この街で頼るあてもない老婦人の今後が気がかりでも、ただでさえ多忙なこの男に余計な負担を増やしたくはなかった。

 ほんの気紛れと興味本位で赴いた店を気にしてくれて、危うく命を落としかけたイェーヌを助けてもらった。それだけでも十分だ。

 リリアーナは気持ちを切り替え、椅子に座ったまま背の高い男を見上げる。


「カミロ、実はさっき窓から……」


 一応、エルシオンが忍び込んできたことと、特に何もされていないことは正直に伝えておこうかと思ったら、カミロはこちらを向いたまま動きを止めていた。

 何か考え事でもしているのだろうか。表情にあまり変化のない男だから、こうしていると置物みたいだ。

 伝えようとしたことも忘れて顔を見上げていると、それから少しの間を置いてカミロは口を開いた。


「先ほどの、飴のことなのですが」


「飴? あれがどうした、うまかっただろう。もしかして口に合わなかったか?」


「いえ、決してそういう訳では。……ただ、あのように口移しで他人へ分け与えるようなことは、今後はどうかお控え頂ければと」


「一度口に含んだものを出してから手渡すのは、ちょっとどうかと思うんだが」


「それも、ええ、仰る通りです。が、その……口づけにも等しい行為ですので、そういったことは相応しいお相手と状況というものがあるかと存じます」


 どうやら割った飴の譲り方に問題があったと言いたいらしい。

 さすがに次があれば食べる前に半分にして毒味を頼もうと思うが、相手と状況という話なら、別に間違ってはいないはずだ。少し前にサンルームで交わした会話を思い出す。


「前に、兄上たちがわたしの手にしてくれたことがある。口づけは親愛を表すものだが、よほど親しい相手でなければしないとレオ兄は言っていた。つまり、カミロなら良いのだろう?」


 疑問に首をかしげると、カミロは何も言わないまま、指先をぴんと伸ばした手のひらをこちらに向けてきた。


「何だ?」


「いま、考えています」


「?」


 そう言ったきりまた動きを止めてしまう。カミロが故障した。

 特におかしなことを言っているとは思わないのだが、この男がそこまで答えに窮するなんて余程のことだ。

 表情を変えないまましばし固まっていたカミロは、手を下ろすとひとりで何かに納得したように二回ばかりうなずく。


「わかりました。この件は、カリナにお任せしましょう。そろそろ別邸に着いている頃かと。この手のお話はやはり同性からお伝えするのが正解だと思うのです」


「は?」


「元々カリナにはそういった方面の教育係もお願いしておりましたし。ええ、下手に私などが何か申し上げるよりも、彼女から適切に伝えられた方が間違いはないかと。これからもリリアーナ様がご成長されるにあたり、女性の方は色々と、色々と、色々と、あるかと思いますので」


 三回言った。

 いつも無駄を削ぎ落したような振る舞いを見せるカミロの挙動が、明らかにおかしい。

 きっと疲れているのだろう。ファラムンドの不在中、アダルベルトを支えながら執務をこなすのはそこまで大変だったのか。屋敷へ帰ったらしばらく休暇をもらって休んだほうが良いと思う。

 ……その前に、ファラムンドから例の領主暗殺事件について話を聞くことになるため、心労は余計にかさんでしまうかもしれないが。


「お前も大変だな。明日からはしっかり休めよ」


「いえ、ええ、はい……」


 妙に沈痛な面持ちで目を伏せるカミロ。リリアーナは手を伸ばして、労うようにその腕を軽く叩いた。


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